3.何事にも勝ち負けはあるものでして
――と、格好良く、もしくは逆に格好悪くひいてみたが、特に派手な活劇が展開されることもなく事態は終結した。当然である。ここはヴィオラの店で、被害を最小限に抑えたいのは当たり前のことだ。
あの後、結局ほとんど時を置かずして肉屋の娘はヴィオラに襲いかかってきた。大きく勢いよく振り上げられた刃が風を切る音が怖い。しかしただ闇雲に、力任せに振り下ろすだけの腕の軌道は、その振りが大きいほど読みやすく、そしてまた相応の手ほどきを受けているのでない限り、二本の得物を同時に別々に扱うことは非常に難しい。
ヴィオラは足を下げ体をひねって包丁を避けると、その手首をめん棒でしたたかに打ち据えた。悲鳴とともに娘が取り落とすのを傍目に、その肩口にもう一打。
痛みに身をよじる娘を見据えながら、生じた隙に落ちた凶器を蹴り飛ばす。くるくると回転しながら床を滑った肉切り包丁は、硬い音と共に柱に刃面を食い込ませて止まった。鋭すぎる切れ味にまたぞっとしたが、脅威はまだもう一本残っている。
怒りと痛みに血走った目で娘が包丁を横殴りに振るった。首を狙う一撃の前に、めん棒をかざす。くふ、と風を切る音に混じってヴィオラに聞こえたのは、娘の嗤う声だ。それとほぼ同時に磨き抜かれた分厚い刃が豆腐でも相手にするように、めん棒に容易く斬り込んでいく。――娘の顔が歪んだ。
真ん中のあたりまで刃を食い込ませながらも、そこでしっかりと肉切り包丁を受け止めためん棒を、娘は愕然とした顔で見つめた。その隙を逃さず、ヴィオラは空いている手で娘の手首を捕らえてひねり、包丁を取り落としたところで腕を引っぱりながら足下を払ってその場に娘をねじ倒す。
気の狂――もとい、恋に過剰に心奪われ過ぎた女の力は馬鹿にできない。背中に体重をかけて、ヴィオラが暴れる娘の動きを封じたところで、警邏隊が到着した。真っ先に飛び込んできた男の姿を見るや、それまでが嘘のようにぴたりと娘は暴れることをやめる。
「ああっ、間に合わなかった……!」
先頭の男が嘆きの声と共に片手で顔を覆う。続いて入ってきた隊員達は店内を一眸すると、互いに僅かな目配せを交わした後、それぞれが的確に動き出した。店外へ出て野次馬の解散を促す者、薄い窓掛けを引いて通りからの視線を遮断する者、柱に食い込んでいる肉切り包丁を回収する者、めん棒に突き刺さったままの二本目の包丁を回収する者、そして、娘を押さえ込む役をヴィオラと交代しようとする者。その流れるような素早い動きには一切の無駄がない。なぜなら、慣れている。ヴィオラが不本意にも襲撃されることに慣れているなら、彼らは不幸にも後始末をすることに慣れている。もう柱に包丁が突き刺さっているくらいで驚くような者は、この地区の警邏には一人もいない。
「大丈夫ですか」とヴィオラの傍らに隊員が膝をついた時、ぐずりと鼻をすする音がした。肉屋の娘である。彼女はぼろぼろと涙をこぼし鼻をすすり、ただ一点を見つめながら泣いていた。「オレクぅ」と哀れっぽく甘ったるく娘が男の名を呼ぶと、片手で顔を覆っていた男がヴィオラ達の方を見る。――そう、この男こそが、諸悪の根源、全ての元凶、ヴィオラの命が脅かされる原因を作る幼馴染みであり、同地区警邏隊員達を心的外傷の極地に追い込む同僚、ヤンデレ製造機オレク、その人である。
こちらを見てくれたと、勢いづいたのは肉屋の娘だ。
「オレクっ、オレクオレクオレクっ、ねえ、ひどいのよ、この女、あたしに乱暴するの、見てよぉ、ねえ、見て見て見てぇえ、オレク、ひどい、ひどいわ、痛いの、たくさん痛いの、ねえ、助けて、オレク、助けてぇ」
ほろほろと涙を流す美女は、普通なら見惚れるほどに可愛らしくも美しいのだろう。だが、血走った目から化粧が溶け混じった涙を流しながら矢継ぎ早にしゃべるさまは、なまじ元の造詣が整っているだけに、いっそう狂わしい。
顔をひきつらせた隊員は、それでも自分の仕事を思い出してヴィオラと娘の拘束役を変わった。
途端に、娘の剣幕が変わる。
「なによぉ! なんでよ! あたしじゃないでしょ! 違うだろ! この能なしが! クソが! そこのクソ女だろうが! そいつを捕まえろよ! 違う、それじゃ足りない! 殺せ! 悪魔! 淫売! 殺せ殺せ殺せよ! 死ねよ! 死ね!」
誰一人言葉もない。強いて言えば、ただただ血の気と共に心がどこかに遠のくのをヴィオラを含めて隊員達は感じていた。端的に言えばドン引きである。
どれだけ暴れても娘の拘束は揺るがないが、押さえ込んでいる隊員の顔は今や間違いなく青かった。彼の胸にはきっと、今日もまた一つ女性の怖さが刻み込まれたに違いない。警邏の男性陣に恋人ができたという話をほとんど聞かないのは、仕事が忙しいからだけではないとヴィオラは思っている。いや、ある意味では仕事が忙しいのが原因だろうが。
「……、ヨナシュ。奥でヴィオラの事情聴取してきてくれるか?」
店でことが起きた場合、ヴィオラに対する聴取はいつも居住空間に近い奥の部屋で行われている。ヴィオラがそばにいることで襲撃者が再び興奮することもあるだろうという配慮によるもので、ヴィオラが聴取されている間に襲撃者はオレク達によって連行されていく。オレクが聴取役に回ることはない。そんな剥き出しの地雷を踏みたい狂人はいない。
ヨナシュと呼ばれた隊員は、頷くとヴィオラを奥へ促した。なおも罵声をあげ続ける肉屋の娘の様子を気にしながら部屋を移っていったヴィオラは、だから気がつかなかった。ヨナシュが最後に同僚達に向けた、彼らにだけ通じる、ひどくかすかな、しかし確かな安堵と隠せない喜びが滲んだ小さな小さな会心の笑みに。
「オレクぅ。ねえ、オレクオレクオレク、早く、この人にどいてって、言ってよぅ。痛いの、腕も、肩も、手も、みんなとっても痛いの。あの女ひどいのよ、ああ、そうよ、そう、あの女! ねえ、早く、あいつを退治しましょう? 退治しなくっちゃ。 オレクオレク、はやくぅ、あの、クソ女をぉ」
「黙れよ」
空気が凍って、オレクを除く警邏の隊員は全員、今頃ヴィオラを聴取しているであろう同僚を恨んだ。似た苦労を共有する者同士の同情と慰撫に満ちた和やかな事情聴取は、勝ち組の仕事である。




