2.肉を断つ器具である、という意味では正しい使用法
(うう……)
相対するのである。とかっこよく決めてみたはいいが、やっぱり溜息と冷汗が止まらない。空気を最大限に読んだ客たちが、すすすと店から出て行く。がんばってと口パクで応援されたが、その内の何人かがほんのり口の端を上げて拳を握ってみせたのは気のせいだと思いたい。……いや、気のせいじゃなかった。通りに面した大窓の向こうに見えるのはどう見ても野次馬どもだ。彼らの目は、どう好意的に解釈してもヴィオラのことを心配していなかった。いやちょっとは心配しているように見える。だが、大半が興行師の催物を見るのと同じ目で見物される虚しさである。
見世物扱いされてますよ、とヴィオラは思わず彼女に教えてやりたくなったが、無視されるか逆上されるかの二択しかないことは過去に経験済みなので賢明に口を閉じる。
『ヤンタル』はヴィオラが働くパン屋である。元々は別の店で働いていたところから独立する形で開いた店だ。たまに手伝いを入れる以外は基本的にひとりで切り盛りするため量はさばけないが、その分、置いてあるパンは大抵常に焼きたてだ。購入したパンは持ち帰るか、店内に設けられた小さな飲食空間で食べていくこともできる。紅茶と珈琲はお代わり自由で、店主とのお喋りを楽しみに来ている客も少なくない。優しい味わいと、店主の人柄で地域に定着した小さいけれど知る人ぞ知る有名パン屋である。
有名、というのは決して悪い言葉ではない。おいしいから、店長さんがかわいいから、と言われて照れないでいられるほどヴィオラは硬派ではない。だが、定番のアレが、と言われた瞬間にヴィオラの気持ちは急降下する。いや、むしろ、それがわかっているのにヴィオラを受け入れてくれていることには感謝すべきだろう。定番と言われるほどに、見世物として成り立つほどに、頻繁に店で刃傷沙汰を起こす娘を受け入れてくれている大らかすぎる街に対しては。
だけど瞳をキラキラさせて見ていられると、ものすごく微妙な気持ちになるのも確かだとヴィオラは窓からそっと目をそらした。そらした先では、分厚い肉切り包丁が研ぎ澄まされた刃面をギラギラさせている。両手に一本ずつ包丁を握り締めた白い手の主には見覚えがあった。多分、目抜き通りにある肉屋の娘だ。長い髪を結い上げ、すらりと手足の長い健康的な美女なのに、構えた包丁が様になりすぎている。前掛けに散っているのは牛か豚の血だと信じているが、否定されたら涙が出るので絶対に聞かない。
瞳に輝きがない分と言わんばかりに輝いている二本の包丁を、女はゆっくりと胸の前で擦り合わせた。きゃりきゃりきゃりきゃりきゃりと、耳障りな音がする。その姿まで本当に様になっていて、ぞくぞくした。怖すぎる!
「あンたがぁ、あの人を誑かしてるのよねぇええ」
「定番の誤解です!」
定番過ぎる誤解です。誰か、どうすればこの誤解を解けるのか教えてください。というよりもむしろ、誰かオレクにこの誤解をされない方法を叩き込んでやってください。
叫んではみたが、話が通じないことは百も承知である。どうやら今回は、ヴィオラがオレクを誑かしている結果、本来結ばれるべき彼女とオレクが結ばれないという筋立てで襲撃してきたらしい。毎度毎度、なぜヴィオラなのか。幼馴染みという位置づけはそんなにも彼女達の神経を逆撫でするものなのか。
此方を興味津々に見つつも実は自分のことを心配してくれてもいる窓の外の人達から、既に警邏隊に連絡は走っているだろう。しかしこの様子からして警邏隊の到着を大人しく待っていたら、間違いなくヴィオラの首は飛ぶ。現にじりじりと此方を睨み付ける娘の目は、いつ飛びかかってきてもおかしくなかった。
調理場まで行けばヴィオラにも包丁はある。しかし、調理場に続く扉までに捕まれば一巻の終わりだ。だから覚悟を決めたヴィオラは、いつも通りそれを手にした。パン屋にあって不思議なく、常に勘定台に置いてあっても多少違和感を感じる程度で景観を損なうほどではない、ヴィオラ愛用の武器。
あは、と肉屋の娘が見下すように嗤った。
「めん棒ぉお?」
そう、めん棒だ。
しっとりと吸い付くような木肌の感触が掌にある。慣れ親しんだ重みはすぐに腕に馴染んだ。
娘はあからさまな嘲笑をニヤニヤと唇に浮かべて、これ見よがしに肉切り包丁をふるって見せる。びゅん、びゅん、と刃が空を切る音に背筋が冷える。でも、死ぬなんてまっぴらごめんだ。
「あっは、それでどうしよぉって言うのよお」
嗤うがいい。
めん棒を笑う奴は、めん棒に泣くことになるのだから。