惚れさせ上手
都々逸「惚れさせ上手なあなたのくせに あきらめさせるの下手な方」(詠み人知らず)
病院から、彼が返された時のお話です。
携帯電話を片手に、殺風景な部屋で佇んでいた。
何度か来たことがある彼の実家であるのに、生活感のないこの部屋で大人しくしていると変な気持ちだ。彼は私よりも几帳面な所があり、実家で使っていたというこの部屋もすっきりと片づけられている。
必要な家具とささやかな日常品以外は、ほとんど処分してしまったのだと以前に笑って教えてもらったのを思い出す。あの時聞いたときは『男性はそんなものなのか』と感じていたが、もう少しここで生活していた様子が思い浮かべれば居心地もよくなるのにと不満に思う。
クッションの一つもないこの部屋で、今は使われていない机とベッドがぽつりと寂しく置かれている。
「あっ…きず発見」
携帯の呼び出し音を聞きながら、ベッドに微かな傷を見つけて口元を和らげる。
木製のベッドについているこの傷は、たしか高校生のころにつけてしまったのだと言っていた。
なんだかんだ言いつつも仲がいいあの家族に、そんな時代があったというのは驚きだ。まったく、あの明るいご両親のどこが気に入らなかったのか…。この傷を見る限り、相当イラついていたのは間違いなさそうだ。
蹴り飛ばしたのか、不自然にへこんでいる個所がある。
しゃがみこんでわざと荒くなった木目に触れてみた。手に伝わるざらりとした感触で、どこか落ち着かない気持ちにさせられる。
悪いことをしているような…空しいような、不安定な感覚だ。木片は鋭利に尖っているため、とげが刺さってもおかしくはない。こんなことはやめなければならないとは思うが、チクチクとした感触を手放しがたくて、わざとゆっくり指を滑らせる。
『あーもしもし?』
携帯から待ち望んだ声が響き、神経を集中させた。彼の癖や話し方、吐息の一つでさえも聞き漏らさんと耳を澄ます。
ゆっくりとベッドから視線を戻すが、そこにいる人は口をきいてくれないのだから仕方がない。
これまでベッドに触れていた手を、今度は冷たくなった彼の体に滑らした。
柔らかいはずの唇に触れても、弾力がなくてまるで別人のようだ。
顔をもっと近くで見ようと覗き込めば、元気だけが取り柄だと称される彼とは思えないほど青白かった。
生気を失った顔へ恐る恐る近づき口づけるが、冷たくこわばった感触が得られて、本当に変わってしまったのだと実感するだけだった。その間も、彼の吹きこんだ声は聞こえている。
『あれ?これでいいのか…な。……大丈夫か』
これは初期設定である留守電ではなく、わざわざ彼が吹き込んだものだ。
何度かやりなおしてはどうかと進言したが、これも味があっていいだろうと聞く耳を持たなかった。初めてのことに戸惑った声がそのまま入り、今思えば彼らしい。
『えっと、わざわざ電話くれたのにすみません』
敬語と話し言葉が混ざった声に、苦笑をもらす。
仕事関係では滅多にかかってこないから大丈夫だろうと言っていたが、多少は私のいう事も気にしていたらしい。あまりに砕けた留守電の案内にはしなかったようだ。
『今、電話に出られませんので、後程折り返させていただきます』
彼が電話を折り返してきたことなんて、ここ最近はあまりなかった。
大抵メールで用件を伝えてくるだけだ。深夜や朝方によこされたメールに、こちらがどれだけ心配しているかこの人はわかっているのだろうか。
『急ぎのご用件がある方は、お名前とご用件を残してくれると助かります』
前はこの言葉を聞くたびにため息がこぼれていたが、今では恨み言がこぼれそうで口を引き結ぶ。
何時もふざけている印象の強い彼にしてみれば、意外なほどかしこまった言葉遣いだ。彼の仕事風景を見たことはないが、真面目にやっていたのだろう。普段からは予想もつかない姿を想像し、くすっと笑いが浮かぶ。
―――しかし、笑った直後になぜか涙が一筋零れ落ち、浮上した気分はたちどころに地へ落された。
「事故にあったなんて、思えないほど…きれいな……」
死に顔なのに。
いくら首へ手を当て体に触れても、脈打つ命の動きは失われたまま。いい加減に現実を見ろと、こちらを諭しているようだった。
「わかっている、はずなのになぁ…」
ぼつりと零した言葉に応えるように、がたりと写真立てが倒れて目を向けた。
机には、これまで見ないようにしていた写真が飾られている。恐る恐る手を伸ばし持ち上げると、幸せそうに笑う私たちの姿があった。
写真にうつるのが苦手な私にしては、珍しく自然な笑顔で息をのんだ。
「何もないくせに、どうしてこんな物だけあるのよ…」
特別どこかに出かけたのではなく、部屋にいるとき突然撮られたこの写真はピントが合っていない。
それでも何とか二人の笑顔が映りこんだこれは、彼のお気に入りの一枚だった。
「ほんっとうに…馬鹿なんだから」
碌に来ることのないこの部屋だからと物を最小限にしている癖に、どうしてこんな物だけを残しているのか。何枚も同じ写真を現像しては、飾るだけでは飽き足らず持ち歩いていた執念は、こんな所にも発揮されていたようだ。今にも「お前の笑顔を、どこでも見られるようにしたいんだよ」とのんきな声が聞こえてきそうだ。彼の馬鹿なところを、まるで昔のことのように懐かしく感じる自分が、どうしようもなく嫌だった。
片手で顔を覆いながらも、手は携帯を手放せず。何度目とも数えられない着信のコールをかける。彼の携帯は相変わらず傍らで鳴っているのだから、出てくれる事がないのはわかっている。それでも、彼の声を聴けるのならばと繋がることのない電話をかけるのだ。夢に出てきて忘れろなんて、冗談ではない。
「一番馬鹿なのは、私かもしれない…」
漏らした言葉に返る声はなく、嗚咽をこらえながらベッドに顔を伏せる。
窓は開いていないはずなのに、微かな風が私の髪を撫でたのを感じていた。