追いゆくものを
都々逸「あとを慕うて追いゆくものを 知らぬ顔してとぶ蛍」(詠み人知らず)
兄貴の嫁さんになる予定だった人が、何故か俺のまえで微笑んでいる。
出かけたお袋の代わりに居間へ通して、茶なんて用意してみたはいいが…。やる事がなくなってしまい、少々気まずい思いをしながら前に座り彼女を眺めた。
以前に見たときは、もう少し強気でクール…悪く言えば、きつめの印象を受けたのに、今日は親しみやすい印象を受ける。
窓を背にしていることもあり、うららかな午後の日が、彼女を明るく包んでいる。まぁ、それらでさえも、妊娠すると雰囲気まで変わるのかという感想でしかないのだが。
なにせ、どうして彼女がいまさら俺の家で、こうして茶を飲んでいるのかはなはだ疑問でならないのだ。そちらの方に気を取られ、雰囲気が多少変わったことなどに関心は向かなくなってしまう。
どうせ、あの陽気な兄貴を相手していれば、多少ながら言葉もきつくもなるだろうという点も加わり、現状を把握するほうに意識が向かう。兄貴のテンションが特別高かったあの日は、彼女も大変そうだった。
「―――あの、突然ごめんなさいね」
全くその通りだという言葉を、寸でのところで飲み込む。
何せ、彼女が訪ねてくるとわかっていたのに茶菓子がないと買い物に出かけたのはお袋で、待たせている間の話し相手になれと言ったのもお袋なのだ。
俺としては平謝りするしかない。
「いや、こちらこそ…わざわざ来て頂いたのに、すみません」
「じゃあ、お相子ってことでどう?
私も、調子がいい時に来たくて、突然連絡してしまったから」
いたずらな笑みを向けてくる年上の彼女に、本当に別人のようだと不思議な気持ちで眺めた。挨拶にきた時はどこかおっかない様子で、たとえ緊張していたとしても兄貴の趣味を疑ってしまったものだ。
その大きく膨らんだ腹には、そんなにすごい力があるのかとつい、まじまじ見つめる。
「ふふっ。数か月後には、貴方も叔父さんよ」
それはそれは嬉しそうに腹を撫でる彼女のまなざしが、自分から外れた瞬間に息を吐いた。
彼女の瞳は、俺を通して『だれか』を見ているように思えて、少し息苦しかった。
「……この間は、泣いてばかりでごめんなさいね」
申し訳なさそうに微笑まれて、息をのんだ。
咄嗟に否定しようとしたのに口から音は出ず、数度開け閉めをして結局何も言わずに終わった。
これはどう考えても、葬式の時のことを言っているのだろう。何ら謝られる謂われはないはずなのに、あの時の光景を思い出し言葉に詰まる。気が強そうだと感じていた人が、ぼろぼろ場所も人目も気にせず泣き続けるさまは、痛々しい物だった。思わず、姿を見かけるたび逃げるように踵を返してしまったほどだ。
「本当にごめんなさいね、あまり私とは話したくないのでしょう?」
それは、あんたの方じゃないかと言いかけた口を、ぐっと噤む。
何故か悔しさと共にむなしさのようなものが湧き上がってきて、怒鳴り散らしたくなる。感情的な俺を諭すように、静かな彼女の声が辺りに響いた。
「あなたの顔見るたびに泣くなんて、失礼な事しちゃったからずっと謝りたかったの」
「いや……俺は、顔が似ていると言われるから」
自分ではそれほど似ているとは思わないが、人に言わせると一瞬で家族だとわかるそうだ。そのうえ、歩き方や些細な癖が同じで、雰囲気がどんどん似てきているというのだから彼女は会いたくないだろう。本当になんで、お袋は俺にこの人の相手を任せたのか分からない。少し考えれば分かるじゃないかと、恨めしく思う。
「ん?そうね…確かに似ているかもしれないけれど。
あの人の方が。……ほら、ひょうきんな感じだったから」
かすかに濁して苦笑した彼女の真意がわかり、言葉を補足する。
「それは…遠まわしに、馬鹿だって言ってますよね」
疑問ではなく、単なる確認といった風につぶやくと、彼女はころころ笑い出した。そんな笑い方を見て、兄貴が時々見せる彼女の顔いっぱいで喜びを表現する笑顔が好きだと言っていたのを思い出す。すると突如、一緒に苦い感情までせりあがってきて、俺は拳を握って下を向いた。
「こども……」
「えぇ」
「産む…気なんですか?」
暗に、本当に一人でやっていけるのかと聞く。
ほんの少し失礼な物言いかもしれないとは感じたが、それは周囲にいる人間なら、誰しもが考えることだろう。片親でやっていくのは簡単なことではないと、子どもどころか現在は恋人すらいない俺でもわかる。
どうやって生活していくのか、目処は立っているのかと、しつこく聞きたいところを何とか抑える。
「勿論、産みますよ」
何の迷いもなく発せられた言葉を受けて、下げていた顔を上げた。
俺が勢いよく顔をあげたことにほんの少し驚いた様子だが、次の刹那にそれは笑みに代わる。
「いいん…ですか?」
何がなんて言えない。彼女はなかなかの美人だから、これからいくらでも可能性があるはずだ。
その中で、今子どもを産むという選択をしていいのか、そもそもあいつの子を産むのかと頭をさまざまな問いが巡る。
「あの人がせっかく残してくれた命です。
一人で育てていく覚悟は、もうしましたから」
「っ、」
まぁ、一人と言っても周囲の手は借りる気だけどねと、悪戯っぽく笑う。
そんな強い瞳を見て、今度こそ涙がこぼれた。
彼女を見るたびにあの日を思い出して、本当につらいのは自分だったのだ。電話があった時に俺と母親は家にいて、あとから駆け付けた親父もあわせて錯乱状態だった。
あまりに酷い両親の状態に俺がしっかりしなければと思い、何度も泣きそうになるのをこらえていた。―――それなのに、クールにみえた彼女が誰よりも正気を失い、泣き崩れるさまに圧倒されて余計に泣けなくなった。
俺は結局、彼女に兄貴の子どもを産んでほしかったのだ。
男兄弟だし、そこまでべたべた仲がよかった訳ではない。けれど、いざという時にすぐ相談するのも、頼りたくなるのも兄貴だった。
時間がたつにつれて周囲が普通の生活を取り戻すさまを見て、一人置いて行かれたような気分だった。どうしても兄貴を忘れてほしくなくて…何より、俺自身も忘れたくなくて。
誰かにも…俺のほかにも、そんな風に兄貴を思っている人間がいると実感したくてしょうがなかったのだ。とまらない涙を何とか止めようと掌で覆うが、一向に頬は乾かずに。とにかく気持ちを伝えたくて、彼女にありがとうとつぶやき続けた。
「お義母さんたちも、貴方のこと心配していたのよ」
想像もしていなかった言葉を受けて、やけに明るく見えたのは俺を元気づけようとしていたのだと、ようやく気付いた。何も、大丈夫だったわけではないのだ。ただみんな必死に、前を見ようとしていただけだった。そんな事に気付けないほど俺は馬鹿だったのかと思えば、余計に涙があふれた。
「子ども…生まれたら見せに来るから遊んでやってね」
嗚咽をこらえながら、ただ頷く。
きっと兄貴はべたべたに甘やかしたかったはずだから、その分俺がいろいろ買ってやり、遊んでやろう。
事故で死んだ馬鹿兄貴が悔しがるほど、子どもを猫っ可愛がりしてやるのだ。直接口にしたことなんてなかったが、兄貴に勝ちたくてなにかと競って頑張ってきた。目標としていたのに、いきなり居なくなるなんてあんまりじゃないか。
彼女が……くしゃりと頭をなでる感触は、兄貴のそれとそっくりで何時までも涙が止まらなかった。
こんないい女おいて逝くなよ、馬鹿兄貴