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月が鏡になればよい  作者: 麻戸 槊來
とある出来事
3/22

どこが悪いと

都々逸「あの人の どこがいいかと尋ねる人に どこが悪いと問い返す」(詠み人知らず)


出産前の出来事です。


誰もいないはずの部屋で、彼女は俺の仏壇を前にひとりぽつぽつと言葉を落とす。

見ず知らずの男に伝言を頼んでから数日たった。俺がまだ、この世に残っていると知る前から、彼女の実家へ設置された仏壇を前にこうして座っていることは珍しくないが……。


考えていることをすべて吐き出すように、声として発しているのは『俺が傍にいること』を知った日以来だ。いくら「なんとなく近くにいる気がした」とはいっても、半信半疑だったのだろう。普段は言葉にしないことが、彼女の口から零れ出てくる。



ずっと興奮した様子で話していたが、しばらくすると落ち着いてきたようで、一息つく。彼女の父親であるお義父さんは仕事で、お義母さんは買い物へ行って誰もいない。そんな昼過ぎのことだった。


「出産するとき…痛いんだって」


『……うん』


独り言のようにつぶやかれた言葉に、思わず目を伏せた。

子どもができたのはもちろん嬉しいし、父親のいない環境でもきちんと育てていくと約束してくれたのは有難い。


ただ……周囲の反対にあった手前、ろくに愚痴をこぼすことすらできないのではないかと不安になる。結婚を決めたときは、これでもかというほど、幸せにしてやるのだと考えていたのに。


俺が残せたのは未来に対する大きな不安と、彼女に宿った小さな命だ。



本来手放しで喜ばれ祝福されるはずの状況で、どうしてこうも悩みを抱えていなければならないのかと神を呪いたくなる。―――しかし、誰より怒鳴りつけ殴り飛ばしてやりたいのは、こんな状況で手を貸すことすらできない俺自身だ。


「スイカを鼻から出すなんて、予想つく訳ないじゃんね」


『うん』


言葉を聞くだけでも、想像を絶する痛みであろうことはわかる。

痛みに耐える彼女の手も、こんな姿では握れない。物をつかむこともできない己の手を見つめ、不甲斐なさにこぶしを握り締めた。


「男の人だったら痛みに耐えられないし、下手すると痛みのあまり死んじゃうかもしれないんだって」


『う……うん』


「痛いと有名な尿道結石をやった友達なんて、出産したときの方が痛かったって言ってたし」


『うん……』


「つわりだって、軽い方だとはみんなに言われるけど辛いものは辛いし」


『うん』


「だけど……」


突然言葉をきられたため、思わず仏壇に顔を向けている彼女へ視線をやる。

その瞳に予想していたような涙はなく、まっすぐに仏壇を眺めていた。


「―――だけど、無事に元気な子産んで見せるから、近くで見守っていなさいよ」


『まかせろ!』


先ほどの不安そうな表情とは一変して、覚悟を決めた横顔に笑顔で答える。

通りすがりの男性に伝言を頼んだときは「どうして、こんな所でちんたらしているの!」と始めは怒られたものだが、子どもを一目見るまでは傍にいたいという、気持ちをくんでくれたようだ。


こんな姿になってまで甘えてしまい申し訳なくも思うが、それを上回る喜びに笑みが止まらない。


「嗚呼、そうだ。どうせなら立ち合いなさいよ?

血を見るのが怖いなんて言ったら、承知しないから」


『うっ……いや、はい。わかりました』


「本当は痛い思いを一緒に味わうために、手を握り締めてやりたいくらいだけど。 安産のお守りで我慢してあげるから、せいぜい力を込めておいて」


本当は血を見るのが少し苦手なのだが、そんなことはとるに足らないことだ。

周囲からいろいろ言われて疲れていた彼女が、笑顔を取り戻したことにほっとする。一人では育てられないんじゃないかと周囲に言われ、医者には「これまで以上に子どもへ気を配るように」と言われてずっと不安そうにしていた。


「今日は……ありがとね」


つい、いい加減なことを言う周囲にいら立ち物を倒してしまったが、怒ってはいないようだ。彼女を傷つける人間に怒りを覚えたのがきっかけで、俺の存在を認めてもらえたというのは複雑な気持ちだが。

不安定になっていた心が、少しでも前向きになったのならば喜ばしい。この子は誰に何と言われようとも、俺たちにとって『何物にも代えることのできない宝物』なのだから。




どうか元気に生まれてきてくれと、祈るように命の宿る腹部へ手をかざした。



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