ならない罪よ
すみません、今回は暗い内容になっております。
しかし、ある意味「愛の日」にふさわしいかも?綺麗で可愛いだけが愛ではないので。
都々逸「言うも思うもならない罪よ いっそ犯して罰まとか」(与謝野晶子)
あの人を愛している気持ちにも、隆司をいとおしみ大切だと思う気持ちにも嘘はないのに……時々ひどく、息苦しくなる。そして何時もそんな時は、罪の意識とも悲しみとも取れるぐじぐじと傷が膿むような苦しみにさいなまれるのだ。
隆司とは、気が付けば初詣に行かなくなった。
さすがに、煩悩を払ったはずの新年早々あの人との今後をお願いするだなんてことはできなくて、何かと理由をつけては避けてきた。そのかわり、あの人も誰もおらずだいぶ時間がたってから、こっそり一人でお参りするということは欠かしていない。願うのはたいてい、新年を無事に迎えることができたことへの感謝と家族の健康への祈りと……そして謝罪だ。
何せ、仏教では母から子へ向ける愛すら煩悩としている。
それもそのはずだ。話の中には、時に子どもを失ったことで鬼へと変化する母親の姿が描かれているものが、決して少なくないだけの数ある。母親の愛は、禁忌を侵しかねないだけ強いという意味なのかもしれないけれど、それを言うなら夫と呼ぶのも疑問を持たれる彼を擁護し引き止め続けている私なんかが、許されるわけがないだろうと常に負い目を覚えている。たとえ宗教観が異なっていても、拭い去ることのできない気持ちをずっと自覚していた。
今日は何時ものごとく、初詣の誘いを断って家で一人ボーっとしていたところゆいちゃんママにお茶へ誘われた。彼女の家は、その服装や見た目に似合わず、青を基調としすっきりしている。どちらかといえばカントリー調の家具や、ファンシーな様子を想像していたから、初めてお邪魔した時は驚いたものだ。
今となれば、その違いにもすっかりなれて落ち着ける。そんなくつろいだ中「今日はなんだか、様子がおかしいわねぇ?」なんて気遣ってくれる彼女に口を滑らしたのは、きっと堂々巡りの思考に嫌気がさしていたからなのだろう。不審に思われてもしょうがないと思いつつも、そっとお茶で唇を湿らせ口を開いた。
「―――少し変なことを、話していいですか?」
「なにかしらぁ」
くるくるとよく動く大きな目に見詰められながら、そっと視線をそらしてみる。
あまりに突飛なこの話は、決して人の目を見て語れるものではない。嘘をつかない自信もないし、必要とあれば口にしたことの大半を嘘だとごまかしてしまうだろう。それでも、誰かに打ち明けずにはいられない私のエゴだ。
「ぬいぐるみが……いるんです」
垂れた耳と愛想よく振られるしっぽ。好奇心に満ちたきらきらとした目は、数年たった今も輝いてみえる。突然口にしたぬいぐるみの話に、感じるところがあったのだろう。彼女は静かな瞳で、沈黙を貫いている。私は、心にその犬のぬいぐるみとは別の存在を浮かべながら言葉をつづける。
「本当は、ずっとそばに置いていることが不自然なことだとわかっていて。……もしかしたら、隆司にとっても悪い影響を与える、いえ。与えているかもしれないのに、私は―――」
どうしても手放せないでいる。
話のきっかけに出したぬいぐるみは、付き合って数か月たったころ夫に買ってもらったものだ。それは有名ブランドと人気デザイナーが奇跡のコラボを果たしたとかで、それなりに値の張るものだった。私がウィンドウ越しに目を奪われて、本気で買うか悩んでいるときに「これ、俺が今着ている服の総額より高いぞっ」なんてぐちぐち文句を垂れていた。
高価で人気デザイナーが手掛けたにしては、万人向けではないどこかふざけた表情をした犬のぬいぐるみだ。普段なら、こんなタイプのぬいぐるみは他にもあるだろうと目も止めないのに、どことなく頼りなさそうな目元と嬉しそうな表情に彼を重ねて離れがたく思えてしまった。
そのとき私はちょうど友達の結婚式などが重なり出費が多く、余裕がなかった。
だから、他の店をぶらぶら覗きながら悩みに悩んでようやく、お金が貯まるまで辛抱しよう。その間に売り切れたのなら、縁がなかったのだと考えて購入をあきらめようときめた。彼のほうは「そんなの買わなくて当り前だ」なんて、私の家に帰ってもなお憎まれ口をたたいていた。それなのに、翌日彼を見送ったあとの部屋にはちょこんとお行儀よく座ったぬいぐるみがいたのだ。
あの時の驚きと、感動と言ったら……それこそ、飛び上がりたいほど嬉しかった。
その夫そっくりのぬいぐるみは、今も自分の部屋に飾られている。いつまでも後生大事にとってあるぬいぐるみは、私が彼をこんな形で無理やり現世へ繋ぎ止めてしまっていることの証明のようだ。
自分では大切にしているつもりでも、徐々にくすみ古ぼけてきた毛並を見れば心が不思議と痛んでしまう。
「一度、その……ぬいぐるみを失いかけたことがあって、」
あの時は、本気で後を追うことも頭をかすめた。
事故の直後は正気を失ったし、おなかに宿った隆司のことがなければどうなっていたかわからない。
「あれ以来、私はずっと、再び失うことを恐れてるんです」
それは自分にとってひどく恐ろしくて、悪夢のような出来事だ。
けれど、きっと残酷なほど自然で、人として……いや。生き物として、健康なことなのだろう。夢で彼に別れを告げられた時の絶望感は、痺れるような痛みとして残っている。
震える手に、力の入らない足。体の中心がぐらつく感覚。思考だって混沌としていたのに、視界だけは嫌にクリアだった。
こんな話をゆいちゃんママにして、育児ノイローゼか何かだろうと思われても仕方がないと思っていた。ましてや、真剣に取り合ってもらえるとも思っていなかった私に落とされたのは、意外な言葉だった。
「隆司君の、気持ちは確かめたことがあるの?」
「い、え……ないです」
まさかここで、隆司の名前が出てくるとは思わず言いよどむ。
だけど確かに、隆司に悪影響が出るのではないかというのが一番の憂いなのだから、その指摘は的を射ていた。それでも、本人に確認できようはずがない。なにせ、自分の父親と幽霊として交流するのは、貴方のためにならないかもしれないけれど続けてくれるかなんて……我ながら、自分勝手すぎて笑ってしまう。
「きっと隆司は、それでもかまわないと言ってくれるでしょうし、……私の、ためにも『捨てることはない』というと思います」
これは確信に近いものがあった。
それとなく、このいびつな関係をどう思っているのか問うたことがあるけれど、さほど気にした様子は見られなかった。むしろ「いい加減に、何を言っているのか知りたい」なんてことも言っていたから、あの子なりに父親を恋しく思う気持ちがあるのだろう。
「あの子は、優しい子なので」
だからこそ、そんな純粋な気持ちを利用しているようで、時々自分の身勝手さがとてつもなく汚らしく思える。思わずかみしめた唇を静かに見据えながら、彼女はしずかに口を開く。
「―――私にも、どうすることが正しいのかわからない」
思わず顔を上げると、彼女はどこか遠いまなざしをしている。
「えっ……?」
「けれど親って、どんな時も子どもにとって何が正しくて何をしてあげればいいのか考えるのが役目なんじゃないかと私は思うの」
だから、きっと大丈夫よ。
そう言葉もなく言われた言葉に、思わず涙ぐむ。
この話を打ち明けてみようと考えてから、泣くことだけはしまいと心に決めていたのに、今にも負けそうな自分を叱責する。きっと彼女も、言葉のままに受け止めてはいないだろう。まさか、ぬいぐるみの件でここまで感情的になっているだなんて、信じてくれるとは到底思わない。
こうして話してみて初めて、もしかしたら自分は慰められたくて彼女に打ち明けたのかもしれないなんて思え、余計に情けなくなる。真実を話す気はないくせに、慰めの言葉だけは欲しいだなんて、都合がよすぎるのに……それを許してもらえたことに救われている。
必死に目を見開いたり、余所を向いたり涙がこぼれないように努力しているのがバレているのか、彼女はわざと明るい声で話しかけてくる。
「でも分からないものですよねぇ。ほら、意外と子どものころには、親にやめろと言われた道のほうが魅力的に映ったりするじゃない」
「……確かに」
「親が心配して注意してくれているのは分かるのだけど、もしかしたら周囲は安全な道を通らせようとしているだけで、自分にとってはとびっきり素敵な選択になるかもしれないと、理由もなくワクワクしてみたりして」
自分にも、心当たりがあってくすりと笑う。
親に反対されればされるほど、どうして頭ごなしに否定するのかと反発したことも一度や二度ではない。
「私なんて、ずっと髪を染めてみたかったのに反対されて大喧嘩になって、高校受験の少し前にわざと茶色く髪を染めたことがあるのよぉ」
思いがけない話を聞いて、目を白黒させる。
自分が泣きそうだったことも忘れて彼女の顔を凝視すると、いたずらっ子のように舌を出して見せる。
「その時からずっと気に入っちゃって、今の髪色なの」
「す、すごく思い切った行動ですね」
「おかげで狙っていた高校には落ちちゃったけど、意地になっててね。今でもこの髪を見ると、両親は胃が痛くなるなんて言うのよぉ」
ふわりと肩に流した髪を、くるりと指に巻いて見せる。
思えばそれなりの長さがあるのに、彼女の髪はいつもきれいに染められていた。こだわりがあるのだとは聞いていたけれど、まさかそんな経緯があるとは初耳だった。つい、くすりと笑う。人それぞれ、いろいろな苦労や過去があるようだ。
「あの時は進路のこととか、いろいろ親に反対されて嫌になっている時でね。髪の色なんてただのきっかけだったのだけど、それをうまく言葉にして伝えられないが故に、ずいぶん遠回りしちゃったわ」
年を取った今でも理解されるかわからないけれど、もう少し言葉にする努力をすればよかったという彼女に、ちくりと弱い部分を刺激された。
「どうせなら、本人と話してみなさいな。意外と簡単に打開策が浮かぶかもしれませんよ?」
「ありがとう」
唇の震えをこらえながら発した最後の言葉は、はたして彼女に届いているだろうか?
それからしばらく取り留めのないことを話し、私は主人と向き合う決意をした。
家に帰ってから、ずっとタイミングを見計らっていた。
正直、もしも時間がないからなんて言って日を伸ばしてしまえば、せっかく湧いた勇気がしぼんでしまいそうで焦っていたのだ。なんとかその日のうちに家族の目を盗んで、そっと彼を呼び出したときはほっとした。
ぼんやりと、存在を感じる彼の正面に陣取って、大事な話があると切り出した。
そうした途端、嫉妬……のような感情が伝わってきて、嗚呼、なんてこの人は馬鹿で愛おしいのだろうと改めて感じた。こちらは、ほかの人に目を向ける暇もないというのに、何を心配しているのだろう。
「―――ねぇ、貴方がいろいろと悩んでいることは知っているわ」
そう口にした直後、びくりと警戒した様子の彼に今度こそ苦笑する。
隆司が生まれる前の私は、どうしてこんなに分かりやすい存在に気付けなかったのだろうと不思議に思えるほどだ。いろいろ思う所もあるし、しなきゃいけないこともある。……もしかしたら、『専門家』の意見を聞いたりするのも有効かもしれない。彼の存在をはじめて教えてくれた青年は、自分はそんな大それた人間じゃないと言っていたけれど、専門職の人はいるはずだ。
そんなことを考えながら、まずは自分の気持ちと、相手の気持ちを同じ方向に定めなければ次打つ手も決まらないだろうと言葉を続けた。
「自分のせいで、隆司が苦しんでいるのかもしれないと考えていることも……なんとなくわかる」
でも……そうだとしても。
ずっと伝えたくても、伝えられなかったことを音へのせた。
「私はまだ、ここに貴方がいてほしい」
拒絶されることが怖くて、こんなストレートな言葉をかけたことがなかった。
泣くのは卑怯だと思いながら、こみあげるものをこらえることが出来ず頬をぬぐう。恋人時代は、喧嘩して思わず泣くたびにオロオロと分かりやすくうろたえていたけれど、それは今も変わらないらしい。
必死に泣きやませようと、気を引くような動作を取っていることがわかる。
たぶんそれを見る限り、彼がこんな状態に嫌気をさしているということはないだろう。……でも、こんなことを口にしていいのかという疑問は、心を決めたと思った今もなおこの身を苛んでいる。
「せめて、あの子が成人するまででいいから……『ここ』にいて」
あえて、自分のそばにいろとは口にしなかった。
設定したタイムリミットはあまりに短く思えて、何度も期間を延ばそうかと口を開いては閉じてみる。何の反応も返ってこないことは、予想していた。
だから、ずっと抱えていた思い出のぬいぐるみを、そっとテーブルの上において見せる。
「もしも了承してくれるなら、これを倒して」
彼そっくりなこの犬のぬいぐるみが頷くように倒れてくれたら、途方もない罪悪感と不安が少し薄れるような気がした。―――けれど、やっぱり予想していた通り、反応が返ってくることはなかった。
ひょっとしたら、ただ反応できないだけなのかもしれないなんて甘い考えにすがりたくもなるけれど、隆司に関することでの積極性を思えば、そんな幻想にすがっても辛くなるだけだと首を振る。
この人が、そんな逃げを許してくれるほど甘くも弱くもないことは分かっているから、これでいいのだと無理やり自分を納得させる。
「ごめんなさい、……それでも、私は手放せない」
触れられることのなかったぬいぐるみを、ぎゅっとこの腕に抱え込む。
いつか罰が下る時が来るというのなら、どうかあの優しくも愛おしい私たちの息子だけは、安らかに過ごせるようにと祈っていた。
愛しい人の心からの叫びを聞いて
黙ってその言葉をかみしめる
嬉しいと肯定することも、それは間違っていると否定することも出来ず
ひたすら存在自体を否定するかのように息を殺すしかできない俺は
とんでもない弱虫だ