惚れたが負けよ
都々逸「論はないぞえ惚れたが負けよ どんな無理でも言わしゃんせ」(詠み人知らず)
朝からずっと、俺は一つのことにとらわれている。
正確に言えば昨日の夜…いや、数日前からそわそわと落ち着かない気持ちでいた。息子の隆司はまだ小さいせいか、さほど気にした様子は見られないが、『お菓子を食べられる』という事に関しては関心があるようだ。
学校に行くと数人の女子からチョコレートと思しき包みをもらい、嬉しそうにしていた。他の男子生徒と比べてみても隆司がもらったチョコレートは多く、俺が餓鬼だった頃より貰っているのではないかと複雑な感情を抱いた。
女子に人気があっても飾ることもなく、自慢することもない。
男女ともに優しく接するので『女々しいと虐められやしないか』一時期不安だったが、適度に馬鹿なことをしているし友情を優先するため友人受けもいいらしい。
こういう要領の良さは、いったいどちらに似たのだろう。―――少なくとも、奥さんに言わせると馬鹿なところは俺譲りだという。
「ほんっと、隆司は変なところばっかりあの人に似たんだから!」
『あれくらいの男なんて、大抵馬鹿だぞ?』
そう反論したかったが、いちいちあげられる例が俺も母親にしかられた記憶のあるものだったため口を閉じた。こんな事もあり、奥さんは男子特有の馬鹿さについて俺の母親へ愚痴をこぼしに行っているらしい。
二人の会話が始まると決まって俺も隆司も…それどころか、俺の親父さえも肩身の狭い思いをする。そんな時はたいてい、すごすごと男三人で別室へ移動して遊ぶのだ。もちろん直接俺が仲間に加わることはできないが、はさみ将棋やオセロなどボードゲームでは時々隆司にヒントを与えて互角の争いをさせている。
『ほら、ここが狙い目だぞ』
「がっ!そ、そこに置くのかっ、隆司待ったとかは…」
「お爺ちゃん、待ったはナシだよ」
親父はどうしても孫可愛さに手を抜きたがるので、追い込むことで余裕をなくしているのだ。負けそうになれば親父も熱くなるタイプのため、隆司はあまり勝つことがないが必死に食らいつこうと頑張っている。
筋はなかなかいいため、同年代の子ども相手では強い。いつか将棋のルールを覚えれば、プロ棋士にもなれるだろう。
息子の未来を楽しみに思いながらも、今日だけは他に気にかかることがある。
―――いや、気にかかるなど控えめな言い方をしたが、本当はずっとそのことが頭から離れない。そんな気持ちに引きずられるようにして、息子が無事家に帰り奥さんが返ってきた瞬間から、ここ一週間は離れず彼女に張り付いていた。
バタバタと、忙しく朝の支度をしている時もあんまりにも引っ付いているからか、息子があきれたように溜め息をついていた。
「お父さん…あんまりにも、分かりやすすぎるよ」
『いや…でも、あいつはこういう記念日とかには興味が薄いから……』
俺が教えてやらないと、うっかり忘れていたという事も多いのだ。
それでもしも他の男が先にチョコレートを強張るような事があれば、なんだかんだで人がいい彼女はあげてしまうかもしれない。
―――というより、付き合っていた時代でも欲しいと言わなければくれなかった気がする。友チョコなどは嫌いではないくせに、俺相手になると途端に面倒だと彼女は言い捨てるのだ。それでもどうしても欲しいから、一か月前からずっと『欲しい、欲しい』と言い続けるのが恒例となっていた。
今は隆司が俺の姿を認めてくれているから、少しでもアピールしようと、躍起になってしまう。
「僕だってチョコレートをもらえたら嬉しいけど、あんまり欲しいっていう男子には逆にあげるの嫌になるって、女の子たちも言ってたよ?」
そう助言してくれる息子の言葉もあり、身を切るような思いで彼女と分かれ隆司の後を追った。一度は冷静にならなければと考えたが、授業風景を見守っていてもチョコレートのことが頭から離れなかった。心なしか隆司の担任教師である女性も今日はおめかししているように見え、バレンタインデーを意識せずにはいられない。
「お父さん、あんまり先生を睨みつけないでよ」
『えっ…あ、すまん』
先生の顔色悪いんだけど…などと、注意されて初めて気が付いた。見ていたことにすら気づかなかったのだから、これは重傷だ。一刻もはやく、妻の手作りチョコを所望する。
『おかえり』
家に帰ってきた奥さんを出迎え、いの一番に声をかけた。
勿論彼女は見えていないし、声も聞こえていないのだが…こういうことは気持ちが重要だと信じている。
今日は学校でさんざん、チョコレートを貰う隆司を横目で眺めていたのだ。お隣のゆいちゃんが、頬を染めながら家へわざわざ渡しにきたのも邪魔しなかったし。
俺もそろそろご褒美がほしいところだ。期待する俺の横を、無情にも普段と変わらない奥さんが通り過ぎていく。
「ただいま隆司」
「おかえりお母さん。あのね…その、」
あまりにも俺の背中に哀愁が漂っていたのか、隆司が何事か話し掛けるが「放っておけばいいのよ」というつれない言葉がきこえて撃沈した。
何もどんな記念日も、忘れず祝え!などとは言わない。
ただこの日だけは、どうしても『愛する者への告白』というイメージが俺のなかにこびりついており、昔から特別視せずにはいられなかったのだ。
小さい頃は、それこそ馬鹿のようにチョコを欲しがっていたし、ただお菓子がもらえるといだけで嬉しかった。―――でも、最愛の人ができた今は、どうしても彼女からの甘いチョコレートを乞わずにはいられないのだ。
『こんな体で、チョコを欲しがることが可笑しいのかな…?』
つい肩を落とし、目線も下を向いてしまう。
みんな中へ入って行ったというのに、俺一人で玄関横にしゃがみこむ。体育座りで拗ねるなどいい大人がみっともないと奥さんにはいわれるが、これはなるべく場所を取らないようにしている俺なりの配慮なのだ。
『貰ったところで、何のお礼もできなしな…』
隆司以外は俺の姿が見えないからこそ、気を使わなければいけない面もある。
あからさまに、物を通り抜ける姿をなるべく見られたくないし、奥さんに気を使わせるのも申し訳ない。
どうすることが正解なのかはみんな分かっているのに、あえてそれを見て見ぬふりさせているのは俺なのだ。
一人うつうつと暗い思考に囚われていたところに、ぽとりと袋が落ちてきた。
足もとを見るとそこには、なんと手作りと思わしき袋が落ちていたのだ。あわてて仏壇まで見に行くと、奥さんが着替えもせずに手を合わせていた。目の前には俺の手にあるものと全く同じものが、お供えしてある。
「お母さん、無事に渡せたみたいだよ」
「そう。これで鬱陶しい、どんよりとした空気とはおさらばね」
奥さんはそういうと、とっとと自室へ引っ込んでいった。
隆司へ渡したものの方がたくさん入っていたが、そこのところはしょうがない。俺に渡された実物は、奥さんが食べることになる。彼女は俺とちがい甘いものがそこまで得意じゃないから、二、三個が限度だったのだろう。何より、手作りしてくれた事が嬉しかった。あれだけ張り付いていて何時作ったのか不思議だったが、舞い上がっていたため深く考えなかった。
これに味をしめた俺は、今後は『毎年チョコをくれるようお願いしてみよう』とそっと決意した。