お母さんごっこ
社会人を数年過ごしていると、遊びに誘ってくれる人がいるというのは、とてもありがたいことだ。
「涼ちゃん、今度の土日、暇だよね?」
「一応、空いてますけど……小森さん、今度はどこに?」
私は小森先輩のいつもの誘い文句に、缶コーヒーを置く。
「あたし、涼ちゃんと宅飲みしたいなって」
「あんまり、きれいな部屋じゃないですよ?」
「あたしも似たようなモンだから、いいのいいの」
屈託のない笑顔で、私の背中を叩いてくる。ちょっと痛いので勘弁してほしいのだけれども。
私も先輩につられて笑顔になってしまう。
「でもメッセージでいいじゃないですか。なんでいつも直接誘ってくれるんです?」
「えー? 性に合わないからかな。だってポチポチするの面倒だし」
先輩らしい返し。
私は右前に視線を送る。中山さんも休憩室でスマホをいじっていた。
先輩はその視線に気づいたのか、声のトーンを落とす。
「中山さん、かっこいいよね」
「えっ。まぁ、そうですね?」
ちょっと、どもってしまった。
「できるオンナって感じで」
「私もああなりたいものですねぇ……」
中山さんは中途採用でやってきた二歳年上の人だ。先輩よりは二歳下なのだけれど、年上のできる後輩ということもあって、私は話しかけられないでいる。
そしてこの気持ちが、憧れなのかどうかは私にはわからなかった。
金曜の夜のことだった。
私は残業を終え、ひとりで居酒屋に行き、晩ご飯がてらお酒を飲んでいた。
なんだか聞き覚えのある声がする。
「――で、――しょ」
「ええ、――で、――す」
あれは、小森先輩と中山さんだ。
居酒屋は騒がしく、会話は聞き取れない。でもなんだか……。
二人の頬が紅潮してて、先輩が中山さんの肩を抱く。
潤んだ中山さんの瞳が先輩の顔を捉え――。
そこからの記憶はなかった。どうやって帰った? あの二人はなんであんなところに? 考えがまとまらない。
気がついたら自宅のマンションにいて、枕に顔を埋めていた。
「うらぎ、られた……。信じていた、のに」
なにに? 誰に? 先輩と中山さんが親しかろうが、私には関係ないじゃない。でも、あの顔は恋している顔に見えた。
明日、先輩がここに来る。今日は掃除をしようと思っていたけど、そんな気分にはなれない。洗濯物もそのままで私は土曜の朝を迎えた。
土曜の夕方に先輩は家に訪ねてきた。
「おーい、涼ちゃーん? もう夕方だぞー?」
インターホンと先輩の声が玄関の外に響く。近所の目……はほとんど気にしなくていいけど、うるさいのは勘弁してほしい。
「先輩、ちょっとうるさいです」
「ごめんて。お酒とつまみ、持ってきたんだよ? 重たいから早くあげてよぉ」
はいはい、と家にあげるとノータイムで冷蔵庫を漁られた。
「あ、お惣菜作ってるんだ? 家庭的ですなぁ」
「せ・ん・ぱ・い?」
「あはは、ごめんって。だっていつも美味しそうな弁当持ってきてるから気になって」
ふつふつ。私は頭から湯気が出そうだった。
いつもそうだ。この人は押しが強くて、遠慮がなくて。昨日も中山さんに迫ったんでしょ?
「……先輩っていつもそうですよね」
買ってきてくれたチューハイを一気に飲み干す。
「え? やっぱ年なのかな? なんか若い時と違って、大胆に――」
「違います! 昨日だって中山さんと飲んでたんでしょ?」
机を思いっきり叩くと、拳が赤くなってしまった。
「ちょ、どうしたの? らしくないよ」
「なんでいつも私の邪魔ばかりするんですか! 私だって中山さんに近づきたいのに、先輩が邪魔して!」
先輩の顔からは困惑の色が見える。
「そんなつもりは……。一気に飲みすぎじゃない? 涼ちゃん、お酒弱いのに」
私の肩に触れようとするので、私はその手を払った。
「触らないで!」
払ったつもりだった。
勢い余って私は先輩の両肩を叩いてしまっていた。
「――――っ」
ベッドの角に頭を打ち付け、コロンとその場に倒れてしまう。
私は先輩の無事を確かめるため、首を触る。どうやらまだ脈はある。
「先輩? 大丈夫ですか! 起きてくださいっ」
首を持ってグッと力を込める。指が先輩の皮膚にめり込み、前後に振る。頭がガクガクと力なく首がすわらない。
私はもっと力を込める。
どのくらいそうしていたのかわからない。酔いと疲れで手を離すも、先輩はぐったりしている。
「トイレ、行こう……」
ふらふらしながらもトイレに向かい、手を洗うと爪の隙間に先輩の肉がついていた。
息があがる。部屋に戻ると、そこには小さい頃に親が買ってくれたままごと人形の『ちえちゃん人形』が横たわっていた。
「あれ? 先輩は……?」
つぶやいても、どこにもいない。
ちえちゃん人形が目を開けているだけだ。
「なつかしいな。お母さんが実家から送ってくれたのかな?」
私は人形を起こし、また寝かせても、目は開けっ放しだった。
「これって寝かせたらまぶたが閉じるんじゃ……壊れちゃっているのかな」
二十年以上前のおもちゃだから仕方ないか。
私は空き缶やつまみのゴミを片付けて、人形と一緒にベッドに入るのだった。
「ちえちゃん、おはよう」
「…………」
「朝ごはん、一緒に食べよっか」
「…………」
私はトーストを焼いてバターをのせる。
ちえちゃんに食べさせるふりをして、私の口にトーストを運ぶ。
「おいしいね。ちえちゃんと一緒だからかな?」
「…………」
「そうだね。焼き立てが一番だよね」
食器を片して、ちえちゃんを見つめる。昔と変わらない顔で私を見つめている。
ふと、ベッドの角についた血痕を見つけた。
「ああ、先輩とケンカしちゃった。明日、謝らないとね、ちえちゃん」
「…………」
「うん。先輩はやさしいから許してくれるよね」
「…………」
私はベッド角の血を雑巾で拭いて、フローリングに残った血も拭く。
「……明日、行きたくないなぁ」
「…………」
「大人なんだからお仕事がんばらないとダメだって? ちえちゃんはエライね」
ちえちゃんと過ごす日曜日は穏やかなものだった。
お昼を食べて、家事をして、買い物に行くとちえちゃんがお留守番してくれる。明日からの一週間分のお弁当用の惣菜を料理して、ちえちゃんにも味見を頼んだ。お母さんの味がするって言ってくれたよ。
晩ご飯はお母さんが得意だった鶏肉入りの煮物にしたら、これもおいしいって。
「はい、ちえちゃんの分。あーん」
「…………」
「そうだね。たまには親に顔を見せないとね」
これなら明日、先輩と顔を合わせても、大丈夫かも。
朝起きると、ちえちゃんと目が合った。
「おはよう。早起きさんだね」
「…………」
「うん、うん。お留守番してくれる?」
「…………」
「わかった。おすわりできるようにしておくね」
今日、先輩と対峙しても、私にはちえちゃんがいるから、大丈夫。
朝ごはんをちえちゃんと過ごして、ちえちゃんはベッドを背にして座らせた。さみしくないように、家中のぬいぐるみを周りに置いてあげた。
会社につくと、先輩の姿がなかった。
「おはよー。あ、佐々木さん、小森さんが来ないんだけど、なにか知らない?」
「おはようございます。先輩、来てないんですか?」
「うん。今朝から連絡とれなくて。無断欠勤する人じゃないから心配で」
部長が受話器片手におろおろしている。
「……おはようございます。あれ? 小森さんは……?」
中山さんだ。あたりをキョロキョロしたあと、自分の席にカバンを置いた。
「それが……」
私は中山さんに事情を説明した。
「そうなんだ。わたしも小森さんの連絡先、しらないから……。もう少し様子をみませんか」
「そうですよね。電車が遅延しているのかもしれませんし」
昼前になっても先輩は会社に来なかった。
「佐々木さんなら仲良かったし、連絡してくれないかな」
部長の提案に私はスマホで先輩の番号にかけてはみたが、留守電に繋がるばかりだった。
「もしもし、佐々木涼です。これを聞いたら私の番号か会社に連絡お願いします」
ホントは少し、安心している。先輩と気まずいまま顔を合わせるより、ずっといい。
「……どう?」
「留守電に伝言、入れときました。ホントにどうしたんでしょうね……」
部長は今日はずっと仕事にならなかったみたいだ。この部署の主戦力だし、部長もひいきにしていたもんね。
でも、こんなときこそ私ががんばらないと。先輩から学んだことをここで活かさないでどうする。
嵐のような忙しさの中、定時になってしまった。
「結局、来ませんでしたね」
「……そうだね」
中山さんとも普通に話せるようになっていた。
彼女の顔色が曇る。
「わたしね、金曜に小森さんと飲んでいたの」
「そう、なんですか」
知ってはいたけど、本人の口から聞くのはくるものがある。胸の奥がつっかえ、私は唾を飲んだ。
「小森さん、佐々木さんのことすごく心配していたの。わたし、それが悔しくてね」
「……?」
くやしい? なんで。
「わたし、小森さんにあこがれていたから」
私はなにも言えなかった。
「それで告白して……フラレちゃったんだよね。ふふ、女同士なのにおかしいよね」
「そんなこと、ないですよ!」
語気を荒げた私に、中山さんは目を見開いた。
「私も、先輩や中山さんのこと、あこがれてますし、好きです。これが恋かどうかなんて関係ありませんし、私の中のことなので、誰かに否定されるいわれなんてないですもの」
「……そうだね。うん、ごめんね」
私も間接的にだけど、フラレてしまったんだな……。
涙が出ないように、私は急いで退社する。
フラレた、フラレた!
こんなこと、誰にも言えないって思っていたのに、彼女は先輩に伝えていたんだ!
私は弱虫だ! ひとりで悩んで、視線に一喜一憂して。でも中山さんはそういう目で見ていなかったんだ!
ちえちゃん、どうしたらいい?
「……ちえちゃん、フラレちゃった」
「…………」
「恋なんて、何年もしてなかったし、相手は女性だし」
「…………」
「うん。知ってるよ。時間が解決してくれるって」
「…………」
「でもね、今は……つらいんだ。一緒にいてくれる?」
「…………」
「ありがとう」
私は泣きながら人形にすがりつく。
抱きつくと、ちえちゃんは柔らかかった。
そして、中の綿が私の熱と溶けて、涙とともに深い眠りにつくのだった。
一週間経っても、先輩は会社に現れなかった。
「先輩、どうしたんでしょう。連絡もつきませんし」
「警察に連絡しよう。というか親御さんにも連絡したけど、知らないって」
部長はこの数日、仕事と先輩の実家への連絡と忙しそうだった。
会社として警察に連絡し、その日は社内で聞き取り。私も土曜のことを伝えて、解放された。
「緊張しました……」
「佐々木さんが一番親しかったからね。あとは近所の人にも聞き込みするって」
中山さんとはあれ以来疎遠になってしまい、私は少しさみしさもあった。
彼女を見ると目が合ったが、すぐにそらされてしまう。……いいんだ。私にはちえちゃんがいるし、少しずつ立ち直ろう。
「ちえちゃん、今日ね、警察の人と話したよ」
「…………」
「先輩がちえちゃんを置いていって、家から出てったって話したの」
「…………」
「うん、夏も終わるね。窓開けようか」
窓を開けると、秋の風が部屋に入ってきた。
「涼しいね」
「…………」
「うん? 私はそんなに気にならないよ」
ちえちゃんからは鼻の奥にねっとり残る、甘いにおいがした。
「早く寝ちゃおう。よっと」
ちえちゃんをお姫様抱っこして、ベッドに運ぶ。
扇風機をこっちに向けて、外の風を取り込むと、虫の声が耳に入った。
「コオロギかな? スズムシかな?」
「…………」
私にも、ちえちゃんにも、わからなかった。
二週間経っても、三週間経っても、先輩から連絡はない。
そんな折、マンションの管理会社の人が自宅を訪ねてきた。
「佐々木さん、近隣からにおいの苦情が出ているんですけど、心当たりはありますか?」
「におい、ですか。うーん……あっ」
私は人形のにおいのことを言うと、見せてもらえないかと頼まれた。
仕方なく、ちえちゃんを持っていこうと抱き上げる。すると、ちえちゃんの腕がぼとりと取れてしまった。
「古い人形だもんね……。あれ?」
足も取れてしまう。
「どうかされましたかー?」
玄関で声がする。
「いえ、大丈夫です!」
早いとこ持っていかないと。
――ごろん。
ちえちゃんの頭が取れてしまった。
顔を見ると、目が合う。それはよく知る顔。
小森先輩の苦しそうな顔だった。
そんなことより、胴体だけでもちえちゃん人形を持っていかないと。
「すみません。ちょっと人形の部品が取れてしまっちゃって」
「いいんです――うわっ」
管理会社の人は尻もちをついて、後ずさる。
「ホントにごめんなさい。すぐに人形を洗うので、大丈夫だと思います」
私は玄関横の洗濯機に胴体を入れ、取れた手足と頭を入れ、洗濯を開始する。
管理会社の人はどこかに電話をかけているようなので、玄関扉を閉めた。
部屋に残った黒いシミはどれもとれないでいた。




