ヒーローで勇者ではないあなたへ
幼き日、私は母親に手を引かれて防空壕に駆け込んだ。外からはアメリカの飛行機。名前を知っている焼夷弾、家から悲鳴が聞こえる気がする。僕は隅の方で母と抱き合いじっとしていた。その年はまだ終戦まで二年あって、僕が住んでいる町は敗北を信じない人であふれていた。
その人は兵隊さんで当時は男性に対して忌避された憧れを持っていた。
空襲警報が鳴ると町内を見回り、逃げ遅れた人をかついで防空壕の中に放り込む。みんなその兵隊さんが好きだった。たまに来る憲兵の前では幼い子どもと遊んでいる無邪気な表情ではなく、キリリとした真剣な表情になるのは面白くて、僕たちは下を向いて笑いを嚙み殺して憲兵の顔を見ることが出来なかった。
当時、十六歳だった僕はまだ敵と戦うことは出来なかった。
僕たちの思いは新たに徴兵される町の男性に預けて拍手を送った。敵を一人でも多く倒す勇者になりにいくのだ。
その姿を兵隊さんは悲しそうに見ている。
当時では珍しい飴玉を餌に兵隊さんは話し相手を求めていた。仕方ない、僕が相手をしてやるか。その誘いはとても嬉しかったくせに僕は線を引くふりをした。
たばこを吸って、兵隊さんは物憂げな表情を浮かべた。
「久坊はこの戦争はどうなると思う」
話題はなんでも良かった。兵隊さんは戦争は負けるとかだらしないことを話すのだろう。僕は兵隊さんがかっこよく思うのにその話をするだけ裏切り者の気がして嫌だった。
「勝ちますよ」
「負けるよ。こんな若い奴らを無理に戦争に連れて行くからな」
「非国民です」
兵隊さんは非国民だ。憤り殺しても文句は言われないだろう。でも僕は兵隊さんを殺すよりも抱きしめて触れたかった。兵隊さんが非国民で悔しいと思う以上に僕は兵隊さんを自分のものにしたかった。でもそうするには僕の体はあまりにも小さく。幼かった。
「兵隊さんは僕のことどう思っていますか」
口にして恥じた。
「久坊は近所の可愛い子どもや」
可愛いに救われた。そうか、僕のことは嫌いやないんや。
「そろそろ仕事に戻らんとな。工場の監督は暇やわ」
そういって地面にたばこを擦り付けて兵隊さんは工場に歩いて行った。兵隊さんはこの町に来て少なくとも三年経つのに名前を教えてくれなかった。お昼に大きな空襲があり、工場は燃えてしまった。燃えた工場には当時兵士が監督をしていたという。女学生は全員無事。兵隊さんが助けてくれたと口を揃えた。兵隊さんの遺体は見つからなかった。
終戦後、書くのが得意だった僕は十八にして新聞社に就職が決まった。
マッカーサーの極東国際軍事裁判で東条英機元首相の死刑判決の折は裁判所に張り込んだ。まだ日本には慣れの来ない自由が育っていく、僕が仕事を進めるうちにGHQの指導の下、憲法が変わった。吉田茂氏の総理大臣就任、朝鮮戦争。波乱万丈の日々だった。
終戦から40年、定年も近づいて来た頃。弊社も戦争を振り返る特集をしようということになった。最後の大仕事だと企画の責任者にされて、僕は第二次世界大戦の資料を図書館で集めた。でも戦争の資料集めはやったことがない。何から調べてどう記事にしたらいいか分からない。
頭にあるのはあの時、憧れた兵隊さんだけだった。
「久は戦争と言えばどんなや」
先輩の重野は僕のことを名前の久と呼ぶ。
焼夷弾と母の熱と兵隊さんに貰った飴玉、逃げ遅れた人を助ける兵隊さん、敗戦を予想し徴兵をよく思わない非国民で弱気な横顔。今は妻がいる。愛しているのは今の妻だけだ。
兵隊さんは本当に死んでしまったのか。
遺体は見つからなかった。あの兵隊さんはどこからやってきたのか。
「ちょっと調べてみます」
僕の育った町に配属された軍属は二十名、そんなに大きな町ではなかったが、小さな軍需工場があったから狙われた。当時、覚えていた兵士の名前と写真を確認した。政治部の友人のつてで貰った資料は役に立った。
写真のない軍属は政治部の友人に「写真がない」と注文をつけて、彼は勘弁してくれと言って、資料館を紹介してくれた。空襲の被害を受け継ぐ小さな資料館だった。
訪ねたのは週末の晴れた日、建物の中はひんやりしていた。
「田辺久さんですね」
「初めまして、池谷兼光さんですね」
「ええ、ここの資料館の係員です。奥にコーヒーを用意しています。こんなに寒いと温かいコーヒーの方がいいですね」
「お気遣い感謝します」
「桜庭と辰巳に山田の件ですね」
「はい、写真がなかったもので」
コーヒーを飲みながら特集の話をした。自分の暮らした町はある兵隊さんに救われた。その変わり者の兵隊さんを特集の材料にしようとしている。
見せられた写真の桜庭に見覚えがあった。
「この方が近いです」
「桜庭ですか」
「ご存命ですか」
「生きてはいますが、話せる日もあれば話せない日もあります」
病気でもう歩くことは出来ない。薬で痛みは誤魔化されて眠ったままだと。何かから逃げるように大量の飲酒をし続けた。
「桜庭は同期ですが、配属が違いました。まだ若いのに気の毒です」
「他の同期の方は」
差された名簿の写真と池谷さんの助けで同じ配属先の同期の方に渡りをつけて貰った。話しを聞きたいと言っても話したがる人はいなかった。ただ重く、他の同期の元へ行きたい。そんな声が限界だった。桜庭さんの話も覚えていない、もしくは話したくない。
何度も通い三年かけてやっと聞いた話。
桜庭さんは前線で足を怪我して僕の育った町にやってきた。憲兵の前では模範的な兵として生きていたが、仲間だけになると日本酒を飲みながら「この国は負ける」と非国民のようなことを叫んでいた。桜庭さんはよく「子どもたちの為に早く降伏した方がいい」といって同期と喧嘩になった。三年かけて分かったのはここまで。
あとは本人に会わないといけない。
池谷さんに聞いた入院先を訪ねた。
兵隊さん、桜庭さんは陽の当たる個室で線に繋がれていた。
「今日は調子いいので、お話出来るかもしれません」
薄く目を開けた桜庭さんに話しかけた。
「お久しぶりです。あなたが配置された町でお会いした久坊です」
桜庭はゆっくりと口を開いた。
「兵隊さんにお話しがあります。あの頃は僕はまだ子どもであなたの孤独を知ることが出来なかった。今は関係性が変わってしまいました。僕は大人で病気のあなたと接している。あなたの話も聞きたい。でも僕の話もさせてください」
桜庭さんの表情は少し和らいだように思えた。




