喫煙所で異世界の悪役令嬢と知り合った
そういえば昨日、喫煙所で悪役令嬢と知り合った。
「どうも」と挨拶したら、咥えタバコでカーテシーされた。
カーテシーってのはアレだ、スカートの左右をつまんで膝クイッてやる優雅なお辞儀。
ま、その時点の俺にそんな知識はなくて、手狭な喫煙所に拡がるドレスの鮮やかなワインレッドに、タバコの灰がこぼれやしないかひやひやして見てただけなんだが。
それにしても、ガラにもなく「お姉さんは何してるひと?」なんて訊いてしまった自分には少し驚いた。
雑居ビル1階の共用喫煙所で、どこの誰かを聞くなんて野暮だとわかってるし、そもそも日本語が通じるかさえ怪しかったのに。
すらり真っすぐな背筋が場違いな気品をかもす、白い肌と上品に整った顔立ちの美人さん。その背でゆるく波打つ長髪は少し燻んだ銀色で、何もかもがコスプレにしちゃあんまり本物すぎるように思えた。
そのせいかわからないけど、ここで話しかけないと絶対に後悔する気がしたんだ。
「──悪役令嬢」
彼女は物憂げに答えて、ゆっくり煙を吐き出した。
悪役令嬢。詳しくはないが、アニメやマンガで人気なことは知ってる。
「悪役か。えらいな」
「……もしかして、馬鹿にしてます?」
どうも俺の返しが引っかかったらしく、彼女はきりりと整った眉の根を寄せて流暢な日本語で問い詰めてきた。そんなつもりは、これっぽっちもないんだが。
「だって悪役ってのはあれだろ? ほんとは悪いヤツじゃないのに、他人を楽しませるために憎まれ役を演じてくれる人だ。そういうの、俺は尊敬してる」
子供のころに憧れた悪役レスラーを思い浮かべながら、思った通りを伝える。眉根をゆるめた彼女がじいっと俺の顔を見つめてきたから、透きとおった青い瞳に吸い込まれそうで目を逸らした。
「そうか、そうね……」
視界の外から、噛みしめるような呟きが聞こえる。
「ありがとう。なんだか吹っ切れた気がする」
「え? いや、俺は何も」
「ひとの感謝は素直に受け取るものです」
「はあ」
リアクションに困ってタバコを咥えた。
吸い込めば重たい煙が喉を蹴って、肺を熱が満たす。
横目で見た彼女は、そんな俺を微かに笑いながら、指二本で吸い殻の端っこを摘んでまっすぐ灰皿の穴に落とした。それはどこかで見覚えある仕草に思えた。
「それじゃ、ごきげんよう」
最後にふたたび優雅なカーテシーを残して、彼女は半透明の間仕切りに囲われた小部屋を出ていく。その背を見送らずタバコの煙を見てたのは、後を追いたい衝動を抑えるためだったかも知れない。
そのあと三階の職場──新卒入社して四年目になるWEBデザイン会社の自席に戻った俺は、仕事用PCで「悪役令嬢」を検索してみる。
大量に出現した小説やマンガを試しに読んでみると、これがなかなか面白かった。カーテシーという用語を覚えたのも、このときだ。
ついでに調べてみたけど、近所にそれらしい令嬢喫茶もなく、彼女の素性は見当も付かなかった。
──そして今日。
昨日と同じ平日の昼下がり、俺以外の利用者がほぼいない時間帯。喫煙所を覗くと、彼女はまたそこにいた。
咥えタバコでカーテシーするドレスは青紫で、これもよく似合っていた。
「きのうね」
俺がタバコに火を点けるのを待って、今日は彼女から話しはじめる。
「婚約破棄されちゃって」
「──は?」
突然の告白だった。たしかに悪役令嬢もので婚約破棄は定番の展開ぽいけど、現実の話なら人生に関わる一大事。なのに彼女の言いようは、ずいぶんさらりとしてた。
「だから悪役になりきって、言いたいこと全部ぶちまけてやりました」
「おお、そっか……」
「すごくスッキリした。しかも、不思議にいろいろ上手く進みそう」
「なら良かった。言いたいこと我慢するのはよくないから」
うんうん頷く俺の顔を、彼女は覗き込んでくる。相変わらず青い瞳がきれいすぎて、無意識に視線を外してしまう。
「そちらは、言いたいのに我慢してることあるの?」
「あー……まァ、あるっちゃ、あるかな」
「そうなんだ。言っちゃいなさいよ」
いま俺が言いたいことは「きみのことを知りたい」だけど、さすがにハードルが高すぎる。
「それじゃあ」
「うん」
「名前、聞いてもいいかな?」
「はい?」
「おねえさんの名前が知りたかった。ダメならいいよ」
「ああ、ええと……いざ……」
何か口にしかけ、下を向いて言い淀む。やっぱり踏み込み過ぎたか、と後悔したそのとき。
「イザベル」
ぽつりと彼女は名乗った。なんとなく、しっくり来る名前だった。
「イザベルさんか。……あ、俺は結城っていいます」
そこでようやく先に名乗るべきだったと気付き、慌てて名乗りを付け足す。相手は悪役令嬢、そういうマナー的なことにすごく厳しかったりするのでは。
「うん、知ってるよ結城くん」
「え!?」
「社員証」
ああ、そうか。俺の驚き顔を見て、彼女はタバコを持つ手の甲を口元に当てクスクス笑っている。
おそらく歳下だろうけど、くん付けに嫌な気持ちがしないのは、たまに見せる仕草や表情が妙に大人っぽいからだろうか。それより、漢字も普通に読めるんだと感心する。実は日本育ちなのかも知れない。
「結城くんは、やっぱりいつもこの時間なの?」
「あー。タバコ休憩は自由なんだけど、何となくこの時間はいつも吸いに来るかな」
「そう。じゃあ、また」
「あ、うん。また」
そうして今日も摘まんだ吸い殻を灰皿にまっすぐ落とし、優雅なカーテシーを残して去っていく彼女を、俺は見送らず煙を吸い込んだ。
翌日も、その翌日も。昼下がりの喫煙所には悪役令嬢イザベルがいて、俺と他愛ない会話を交わしては去っていく。
──例えば、ある雨の日。
「今日は雨がひどいね」
「そうなの? こっちは良い天気」
こっち、とは彼女の住むお屋敷のある異世界の王国だろう。国の名前は前に聞いたけど、ドラッグストアみたいだったとしか覚えてない。
「ウェルネシア王国は気候が穏やかで、暑すぎたり寒すぎたりもない、一年中ずっと過ごしやすいの」
そうそう、その名前だ。今度こそ忘れないようにしないと。
「じゃあ、今日みたいな大雨もない?」
架空の国の設定の話だろうけど、あまりに自然に話すから、そのまま会話してしまう。それがまた不思議と楽しかった。
「そうね」とイザベルはタバコを咥え、耳を澄ますように目を閉じた。換気扇の羽音をかき消すように、町を叩く雨の音がざあざあと聞こえる。
「……そう言えば久々に聞いたな、強めの雨音」
ふう、と煙を吐き出してから彼女は呟いた。
「でもなんでか、落ち着く」
「俺も雨音は好きだな。休日に限るけど」
平日は通勤のめんどうさが勝る。
「なんだか、世界から隔離されたみたいな気持ち。なのに不安になるよりも落ち着くのはなぜだろ」
「うーん。世界から隔離されたら、めんどうなこともなくなるから?」
「ああ、そうか。誰からも傷つけられないから、安心するのかな」
「今日は残念ながら、俺もいるけどね」
「大丈夫、きみは人畜無害だから」
「はあ……」
なんだそれ、褒めてるのか馬鹿にしてるのか。どちらかと言えば俺は、目つきの悪さで誤解されるほうが多いぐらいなのに。
困惑しながら煙を吸い込んだ瞬間に彼女が「褒め言葉だよ」と見透かすみたいに言うものだから、思いきり咽てしまった。
「何なら、きみがいるほうが落ち着くかも」
笑いを堪えながら背中をさすってくれた彼女の手のひらの温もりが、その日は夜まで残っている気がして、なかなか寝付けなかった。
──例えば、三連休明けの火曜日。
「久しぶりね」
なんだか、彼女の言葉に棘がある。お顔もスンと無表情で、人形みたいな美人さが際立つ。ドレスの色も、いつもより重い紺色だった。
「ああ、うん。三日ぶりだ」
「昨日はなぜ来なかったの?」
「え? いや、だって祝日だから……」
タバコを咥える白い頬が、ぴくりと動いて見えた。たっぷり時間をかけて煙を吐き出してから、彼女は続ける。
「ふうん。何の日だっけ」
「なんだっけな……ああ、たしか秋分の日」
「そっか。ウェルネシアには、そういうのないから」
きっと彼女は昨日も喫煙所に来て、でも俺は来なかった。それでちょっと拗ねていたのだろう。なんだそれ、可愛いじゃないか。
「そうか、俺も来ればよかったな」
「え ……いいよ、せっかくの休みだし、忙しいでしょう」
「三連休の三日目なんて、どうせ部屋でゴロゴロして終わるから」
「そうなの?」
「三連休はさ。二日目の朝に、休みがもう一日あるぞ、って実感した瞬間がいちばん幸せで、あとは下降線なんだ」
「なにそれ……」
呆れたように言うけれど、その目は笑っていた。
「だから三日目は、なんもやりたくない」
「ふふ。なら私、お部屋に遊びに行けばよかった」
「いいよ、じゃあこんど片付けておく」
本気で言ってないだろうけど、次の休みはいい加減に部屋を掃除しようと決意する。何もないと散らかっていくばかりだし、ちょうどいい。
ともあれ機嫌が直ったイザベルに胸を撫でおろし、タバコを咥えてライターを近付けた。
「ん……」
「どうしたの?」
「なんか、火がね……」
昨夜に替えたばかりの100円ライターだけど、いくらやっても火花が虚空に散るだけ。初期不良だろうか。
「しょうがないなあ」
イザベルの顔がすぐそこまで近付いて、俺の咥えたタバコの先に、彼女の唇から生えたタバコの先が触れる。紅い唇が空気を吸い込むと、先に紅い熱が生まれて、俺のタバコの先に伝染する。
至近距離で目が合い、胸のざわつきと同時に彼女の顔は離れた。
「向こうにはタバコ自体存在しないから、火の持ち合わせもないの。いつもこっそり燭台から借りてる」
目を伏せて言い訳する彼女の頬も、仄かに紅く染まって見えた。
「ありがとう、助かる」
「ううん、いつも助けてもらってるし」
「俺が? 駄弁ってるだけじゃ……」
「ううん。きみはいつも、答えのある方向を教えてくれる」
「そうだっけ」
「そう」
その日その後は何となく会話が弾まなかったけど、翌日にはいつも通りに戻っていた。
──そして彼女と知り合ってから、三週間ほど過ぎた日のこと。
「太田医師?」
「うん。前からそれとなくアプローチされてたけど、きのう正式にね」
彼女は何かを躊躇うように言葉を止め、手元のタバコに視線を落として、静かに続けた。
「結婚してくれって」
胸に、鈍い痛みがずうんと拡がる。そんな話は初耳だし、だいたい急展開すぎる。先々週に婚約破棄されたばかりじゃないか。
「じゃあ、相手はお金持ちだ」
言いたいことは溢れそうなのに、そんな言葉しか絞り出せなかった。
「そうだね。お金持ちで、聡明で、イケメンで。私にはもったいない」
「そんなことない。逆にイザベルと釣り合う男のほうが珍しい」
「つまり、きみは賛成なんだね」
「そうは言ってないよ、その太田って人のことぜんぜん知らないし。何科のお医者さん?」
俺の言葉に彼女はしばしぽかんと口を開けた後、盛大に噴き出して、そのまま肩を震わせている。いったい何がおかしいんだ?
「ちがうの、太田医師じゃなくて王太子。王様の長男、第一王位継承者、要するに次期国王ね」
なるほど、設定上の話か。そのとき心の底から安堵している自分に気付いて、苦笑する。
「王太子かあ。それじゃ俺は敵わないな」
その言葉に彼女は、俺の顔をまじまじと見つめてきた。きれい過ぎる青い瞳には相変わらず慣れなくて、どうしても視線を外してしまう。
「そうねえ。エレガントな王太子殿下とクールな聖騎士団長の二人で王国の女子人気を二分してるくらいだし」
わざとらしく腕組みして、うなずくイザベル。
「まあでも、顔と性格はきみのほうが好き」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。思わずタバコを落としかけ、慌てて持ち直す。
「そんなに驚くかなあ。やっぱり鈍感だね、結城くんは」
その日、俺は初めて彼女の後ろ姿を見送った。喫煙所入口のドアを開け外の世界に踏み出したドレス姿は、まるでタバコの煙みたいにゆらゆら揺れながら、空気に溶けて消えていった。
「は……?」
喫煙所の外に顔を出して見回しても、彼女の姿はどこにもない。本当に消えてしまった。
あり得ないだろうと頭では否定するけれど、いろいろなことが腑に落ちてしまって、そうとしか考えることができなかった。
イザベルは異世界のウェルネシア王国から来た、本物の悪役令嬢。
もしも、そうだとしたら。彼女は実際に王太子から求婚されていることになる。
何よりもその事実が、俺の胸をひどくかき乱した。
◇ ◇ ◇
喫煙所に居たのは事務服姿のOLさんだった。
たまに一緒になって、「どうも」と挨拶すると会釈だけ返してくれる。
たぶん俺よりいくらか年上だろう。いつも微かに怒ったような表情が一見近寄り難いけど、目付きが悪いだけなんだと思う。俺もよく「怒ってる?」と聞かれるからわかる。
盗み見た胸元のネームプレートで、伊澤さんという名前だけは知っていた。
どんな人か知りたくて、話したいとも思うけど、ガラじゃないのでやめておいた。それでも、無言で流れる二人きりの時間が妙に心地よかったのを覚えてる。
そう、俺がまだ入社一年目の新人のころ。
連日の慣れない仕事に疲れ果てたアパートで、垂れ流しのテレビから聞こえてきたのは、女性がストーカーの男に刺され亡くなったというニュース。
──被害者は会社員の伊澤美鈴さん──
それきり。喫煙所で彼女と顔を合わせることはなくなった。
事件の当日も、彼女と喫煙所で一緒だった。たとえば俺が声をかけて、思いのほか会話が弾んで、そのまま夕食に誘ったりしていたら。そのあと、家まで送っていたら。
もしかして、別の未来があったかも知れない。
そんなことを、三年たった今でもふと思ってしまう。
◇ ◇ ◇
──翌日。俺はいつもより早めの時間に喫煙所を訪れた。
半透明の間仕切りの向こうに人影はない。
そのまま喫煙所前で数分待つ。そろそろいつもの時間、そう思って中を見ると、赤い何かが煙のように揺らめきながら広がっていった。
「あら? 早いのね」
扉を開ける。体の輪郭がまだ少し煙のようにぼやけたイザベルが、手にしていたタバコを咥えてカーテシー。初めて会った日と同じ、ワインレッドのドレスだった。
「今日はね、お別れを言いに来ました。私、結婚するから」
彼女のその言葉はなんとなく予感していた。だから即答で「いやだ」と返した。
「え……?」
「会えなくなるのは、いやだ」
「そんな駄々っ子みたいなこと言わないで。もう殿下にOKしちゃったし、両親もすごく喜んでくれたし」
「じゃあ、イザベルはどうなんだ。本当にそいつと結婚したいの?」
「それは……だって……」
その問いに、彼女の言葉が詰まる。
「タバコもさ、ちょうどこれが最後の一本なの。だから、きみは私のことなんか忘れて」
「いやだ。忘れないよ、イザベルのことも」
俺はひと呼吸してから、その名を繋げる。
「伊澤さんのことも」
彼女は息を呑んで、目を見開いて、それからタバコを吸って、吐いた。
「……気付いて……たの?」
声は掠れていた。
「だって悪役令嬢に異世界転生はつきものだろ。それに」
俺は首から下げたカードを、彼女によく見えるように掲げる。
「社員証、去年から新しいのになって。個人情報うんぬんで、社員番号だけの味気ないカードキーになった。俺も自分で忘れてたけどね」
だからそれ以前に俺と会っていないと、社員証で名前を知ることはできない。
それに伊澤さんも、イザベルと同じように吸い殻を真っ直ぐ灰皿に落としていた。でもこれは言わないでおこう、あんまりじろじろ見てたと思われたくないし。
「あの日ね。刺されて、いっぱい血が出て、これは助からないなって自分でわかって。じゃあ最後に一服しようかなって、ポケットからタバコをね」
そこで言葉を切った彼女は、手にしたタバコの煙越しに俺を見た。
「そしたら、何かきみの顔が浮かんできたの。まともに喋ったこともない男が走馬灯って、私の人生なんなのとか思いながら、そのままフェードアウト」
「なんか、ゴメン」
「ああ、そういえば、私を刺したあいつどうなったの?」
「逃走中に歩道橋の階段踏み外して転げ落ちて、頭の打ちどころ悪くてそのまま」
「なにそれ、だっさ。そんなのに殺されたのか私……」
──異世界の伯爵家令嬢として蝶よ花よと育てられたイザベルが、そんな前世の記憶を思い出したのは今から数カ月前の朝。
なぜか自室の床に落ちていたタバコの箱を「これは何かしら」と拾い上げた瞬間だった。
「イザベルはちょっと我儘だけど悪い子じゃなかった。名家の御曹司な婚約者のことも、タイプじゃないのに好きになろうと努力してた。でも向こうは別のご令嬢に夢中で……」
昨日までの純真な自分が気付けないうちに、外堀を埋め尽くされ悪者に仕立て上げられていた。まるで小説やマンガの「悪役令嬢」みたいに。
それから何をしても全ては裏目に出るばかり。身も心も疲れ果て、ふと思い出して燭台からタバコに火をつけると、周りの景色が煙のように揺らめき──気付けば、この喫煙所に立っていたのだという。
「そうして、結城くんと再会できた。しかも、きみは普通に話しかけてくるし。嬉しかったけどちょっと複雑だった。若くて美人だからかなって」
「ちっちがう! あのときは、話しかけないとまた後悔するんじゃないかって」
思えば、伊澤さんに話しかけなかった後悔を、無意識に取り戻そうとしていたのかも知れない。
「もしあの日、俺が声をかけて晩飯にでも誘ってたら。何か違ったかもって、ずっと」
「そんな……こと……」
彼女は少し黙ってから、首を静かに横に振った。
「待って。いくら相手がきみだって、いきなり晩ご飯についてくほど伊澤さんは軽くないぞ」
彼女の浮かべた微笑みが優しすぎるから、それはたぶん嘘だ。きっと、俺の後悔を拭おうとしてくれてるんだろう。だから。
「それもそうか。自意識過剰だったな、恥ずかしい」
「うん。でも、嬉しいよ。それ聞いて、ちゃんと決心ができた気がする」
きれい過ぎる青い瞳から、目を逸らさずに俺は見詰め返した。
「私は王太子妃になる。それで、大切に育ててくれたお父様お母様に孝行するの。こっちの母親は男作ってどっか行っちゃったし、父親は顔も知らないから」
「ずるいなあ。そんな風に言われたら、俺はもう何も言えない」
「ふふ。だって私、悪役令嬢ですから」
そして彼女は、手にした最後の一本を灰皿の真ん中に真っ直ぐ落とす。
「最後に気付いてくれて嬉しかった。さよなら、私の走馬灯くん」
丁寧なカーテシーが、俺の目にはスローモーションに見えた。これで終わってしまうのか。それならせめて。
「待って! これ」
俺はイザベルの手に、開封済みのタバコの箱を押し付ける。少しだけためらって、彼女はそれを握りしめてくれた。
「ありがとう。結婚祝いとして、受け取っておくね」
にっこり笑って背を向ける。喫煙所の扉を開けた後ろ姿が、煙みたいに揺らいで空気に溶けていく。
ワインレッドのドレスが完全に消えた後も、目に映る景色はなぜだか、しばらく揺らいだままだった。
──それから、彼女が喫煙所に現れることは二度となかった。
◇ ◇ ◇
夜半から続く強めの雨音を聞きながら、俺はようやくベッドを脱け出す。
もう半年も過ぎたのに、また彼女の夢を見ていた気がする。はっきり思い出せないからまだいい。先日は喫煙所で再会した瞬間に目が覚めて、受け身も取れず現実に叩き落とされて、叫びそうになった。
部屋が薄暗いから気付くのが遅れたけど、もうお昼過ぎだ。いつか彼女と話したように、やっぱり三連休の三日目はだらだら過ごす運命だった。
目をこすってトイレを済ませ、洗面台で歯を磨く。外からは、ざあざあと雨音が響き続ける。今日はこのまま、カップ麺すすりつつサブスクで悪役令嬢アニメでも観よう。
そう決意して、歯ブラシの次に手にした電動シェーバーを、使わずに充電台に戻した瞬間。
「うわ、散らかってる」
唐突に背後から聞こえた声で、心臓が跳ね上がった。おそるおそる、振り返ってみる。
「……なんで、ここに……?」
散らかった男の独り部屋に、場違いなワインレッドのドレスが咲いていた。
雑誌の山を崩しかけてカーテシーをあきらめたイザベルは「片付けるとか言ってなかった?」と眉をしかめる。
──そうか。まだ夢の中か。
「ね、なんでだろう。きみに貰ったタバコだから?」
彼女の目線の先、テーブルの上の灰皿に吸いかけのタバコが一本増えていた。
「……迷惑だった……?」
目の前まで来て、俺の顔を覗き込む。青い瞳はあいかわらず透きとおっていて、ただ心なしか揺らいで見える。
「そんなわけない、嬉しいよ。夢みたいだ」
そして夢ならば、目が覚めた瞬間が怖い。そう言葉にした瞬間に目が覚めそうで、飲み込む。
「言いたいことあるなら、我慢しないほうがいいよ」
「うっ。じゃあ、結婚はどうなったの?」
「ああ、うん。それがね」
苦し紛れの問いかけに、彼女は自嘲のような片笑みを浮かべた。
「お前を愛することはない、って婚礼の夜に寝室で言われちゃったの」
「は!?」
確かに、それも悪役令嬢界隈では定番の展開のひとつではあるけれど。
「そこで寝室に現れたのが、まさかの聖騎士団長の彼だった」
「……え?」
「王国の誇る二大イケメンが並んで土下座して、騙すようなことをして済まない! けれど私たちは愛し合っているんだ! って」
なぜか迫真の演技のイザベルに、ただ絶句する俺。
ウェルネシアが中世ヨーロッパ的な国なら、おそらく現代のように多様性なんて考え方はないのだろう。しかも次期国王と聖騎士団長──明るみになれば国を揺るがすスキャンダル。
「それで、王太子妃の役を演じて欲しいって懇願されたの。婚約破棄騒ぎのときの悪役令嬢っぷりを見てた団長が提案して、殿下も私なら信用できそうだって。アプローチだと思ってたの、面談だったみたい」
「偽装結婚ってやつか……」
「うん。でもね、それはそれで悪くないかもって思えたの」
イザベルは悪戯っぽく笑った。
「だって、お互いさまになるじゃない? 私がきみのことを、好きなままでも」
ざあざあと降り続く雨が外界の音を遮る。どこの世界からも隔離されたみたいに。
あまりに都合のよすぎる夢は、未だ覚める気配がない。もしかしたら。
「夢じゃ……ないのか……」
「もう、しょうがないなあ」
──ためらいは悪役令嬢の唇で塞がれて、その温もりとヤニの香が、これを現実だと教えてくれた。