第17話 白糸の女
北方の森は、王都周辺の荒れた大地とは違い、異様なほど静かだった。
木々は枯れてはいない。だが葉の一枚一枚が糸のように細長く、風に揺れるとさやさやではなく、微かな“縫い音”を立てた。
「ここ……普通の森じゃない」
ユナが杖を握る。
「聖域の境目に入った証拠だ」
シアラが羊皮紙をめくりながら答える。「記録にもある。聖域に近づくと、自然そのものが糸の形を帯びる、と」
俺は針を走らせ、糸の流れを探った。黒い流れと白い流れ。互いに絡み合い、森の奥で激しく衝突している。
「行くぞ。そこに“白糸の女”がいる」
◇
森を抜けた先に、小さな清流があった。水面は銀糸のように輝き、岩の間から白い糸が漂っていた。
その中央に、ひとりの女が座っていた。
髪は雪のように白く、瞳は淡い灰色。衣は粗末な布を巻いただけだが、全身から漂う気配は強烈だった。
彼女の周囲では黒い糸が迫り、白い糸がそれを押し返している。
「来たのね」
女は振り返り、俺を見た。声は澄んでいるのに、どこか掠れていた。
「あなたが……雑用の糸を持つ者」
「白糸の女か」
「かつては黒紡会の縫い手。けれど、あの道は間違っていた」
女は自嘲気味に笑う。「私は織り機の“枠”にされかけた。命ごと布にされる前に、逃げてきたの」
◇
レオンが一歩前に出る。「黒紡会の本拠はどこだ。お前なら知っているはずだ」
女はゆっくり首を振った。
「正確な場所は私も知らない。ただ、聖域の最奥――“白縫の壇”に繋がる道がある。そこが本拠」
「案内してもらえるか?」
俺の問いに、女は目を伏せた。
「案内はできる。でも……一つだけ条件がある」
「条件?」
「私を――縫い直してほしい」
◇
女は右腕の袖をまくった。そこには黒い縫い目が刻まれていた。生きた糸が脈打ち、皮膚に食い込んでいる。
「逃げたときに刻まれた《捕縫》。黒紡会と繋がったままだから、私は常に追われる。これを解けるのは……あなたの針だけ」
俺は息を呑んだ。
《捕縫》をほどくのは難しい。下手をすれば命そのものが裂ける。
「リオ、やるの?」ユナが心配そうに見つめる。
「やるしかない」
◇
俺は針を構え、女の腕に触れた。黒い糸は唸りを上げ、俺の指を噛むように絡んでくる。
「大丈夫だ。深呼吸しろ」
女は小さく頷き、目を閉じた。
――《解縫》
針を差し込み、一筋ずつ解いていく。黒い糸は抵抗し、皮膚を裂こうとする。俺は補助糸を走らせ、代わりに繋ぎを作った。
ユナの風が血を止め、ミレイの祈りが痛みを和らげる。
最後の一筋を抜いた瞬間、女の腕から黒い糸が弾け飛び、空に消えた。
「……これで、自由になれた」
女は深く息をつき、涙を零した。
◇
「助けてくれてありがとう」
女は俺の手を取った。「名を隠す必要はない。私はセレス。これからは、あなたたちと共に戦う」
仲間たちが頷く。
黒紡会の本拠、“白縫の壇”へ――新たな同行者と共に。