第1話 追放と、ありふれた《補助》
「――リオ、お前はもう要らない」
火のはぜる音の向こう側で、勇者レオンは淡々と言った。焚き火の赤は甲冑の銀を照らし、その顔に影を落とす。彼の周りには、聖女、魔法使い、盾役。みんな、目を合わせようとしない。
俺は唇の裏側を噛んだ。血の味が滲む。
そうだろうな、とも思う。俺の職業は《補助》。攻撃も回復も中途半端、戦場の端で道具袋を支え、汚れ物を洗い、傷薬のキャップをねじ開ける。雑用係。便利屋。名ばかりの仲間。
「魔王城は目前だ。余計な荷物は要らない」
レオンの声に重なるように、聖女ミレイがため息を吐く。「リオ、あなたの支えには感謝してるわ。でも、神託は四人で向かえと告げたの」
盾役のガロが、気まずそうに視線を逸らす。魔法使いのアリスは本を閉じ、ためらいを振り払うみたいに言葉を継いだ。
「道具と補助は、王都から選りすぐりを寄こしてもらえばいい」
こっちを見る目は、同情と、安堵と、軽蔑の混ざった色だった。俺が抜ければ、隊は軽くなる。責任も、失敗の口実も、ひとつ減る。
「わかった」
俺は背負い袋を肩にかけ直し、焚き火の熱から一歩退いた。火の粉が夜に舞う。聞き慣れた足音の規則、剣の鍔の鳴る調子、湿った木の匂い。全部、今日で終わりだ。
最後にもう一度だけ、声を出した。
「ひとつだけ、確認させてくれ。《補助》が無いと、明日の峠越えはきつい。霧が濃いはずだ。足場も崩れてる。俺が地図に落とした《目印糸》は――」
「残していけ」
レオンは即答した。「俺たちには、俺たちの道がある」
言い争う理由も、もう、持ち合わせていなかった。
俺は頷き、踵を返す。背中に「達者でな」の声がかからなかったことだけが、少し堪えた。
◇
夜の森は、思っていたより明るかった。高い枝の合間から漏れる月明かりが、地表に長方形の小さな光の板をいくつも並べる。俺はその一枚一枚を踏まないように歩いた。踏んでしまうと、なぜだか負けた気がするからだ。
肩の重さだけが現実で、胸の内は空っぽに近い。悔しさよりも、奇妙な安堵がある。あの火の輪から外れたら、寒さより先に、呼吸が楽になった。
――そうだ、元々俺は、誰かの影にならないと光の場所に立てない人間だ。
腰の小袋に指を滑らせる。中には細い糸巻きと、針。俺の《補助》の中心道具。《目印糸》は、迷宮や戦場の空間の「地形情報」に糸を通し、触れた者の頭の中に簡略地図を描く。だがそれは世に溢れる補助技能の一つでしかない。誰でも訓練すれば、似たことはできる。
――はずだった。
森を抜け、丘を越え、谷筋の小さな集落に辿り着いたのは、夜明け前だった。柱に霜が降り、屋根の藁は白く光る。戸口の隙間から、緊張した灯の色が漏れていた。
「どなた」
槍を構えた老婆が、戸を少し開けて俺を見た。目に恐怖が宿っている。
「旅の者です。宿は……」
「今は誰も入れられないよ。狼が出た。いや、狼じゃない、もっと、いやなものだ。村の子が、一人、戻ってこない」
老婆の声が震えた。その震え方が、俺の胸の古い傷に触れる。仲間に置いていかれるときの、あの、音。
「探す。俺でよければ」
口が先に動いた。もうパーティーはない。誰の指示もない。ならここで、俺は俺の価値を試せばいい。
「金はないよ」
「要りません」
老婆はしばし俺を見、それから戸を開けた。「村長のとこへおいで」
◇
村長は痩せた男だった。目の下のクマが深く、手は麦藁のように乾いている。
「南の炭焼き小屋まで薬草を採りに行った子が、夕方になっても帰らない。明かりも、足跡も見当たらない」
村長の机の上で、蝋燭が短く燃える。油も、余裕も、ここには少ない。
俺は机端の灰を指先でなぞり、灰粒の流れ方を見た。北からの風が常に吹き込む。ならば南の谷は風の陰。霧が溜まる。
「探す。夜明けを待つ間に準備をさせてください」
俺は針に糸を通した。《補助》の基礎《縫合》で、破れた地図を繋ぐみたいに、村の道と谷道の「情報」を合わせる。世界の縁を、そっと寄せ合わせる作業だ。気づく者は少ないが、世界はほつれている。そこに細い糸を通せる者も、また少ない。
「お前、ただの旅のもんじゃないな」
声の主は、戸口にもたれる若い女だった。灰色の羽織、腰には短杖。瞳の奥に、淡い光。巫女か、術者か。
「《風見》の巫、ユナだよ。村の護りが仕事。助かる」
「リオです」
視線が交わる。彼女はじっと俺の手元を見た。
「その糸、ただの《目印》じゃないね」
「ちょっと、工夫してるだけです」
夜がほどけていく。東の空が淡く明るむころ、俺とユナは谷へ向かった。霧がひざの高さまで溜まり、鳥の声が消え、代わりに水の音が近い。炭焼き小屋へ続く踏み跡は、途中で二つに割れ、その片方が唐突に消えている。
「ここからが、無くなってる?」
ユナが眉をひそめる。俺は頷き、足元の空間へ針を落とした。糸が宙でふわりと張り、見えない何かに引かれて斜め下へ伸びる。
「空間の目地が、抜けてる。足を踏み外したんだ」
「落とし穴?」
「いや……自然じゃない」
糸の震え方が、知っているものと違っていた。これは、人為。誰かが、谷の地形の縫い目を切り離して、別の場所に繋げた。
――《縫合》の応用。《接続》……。そんなまね、普通はできない。
俺は深呼吸し、糸をもう一本、今度は逆向きに走らせた。二本の糸が互いに引き合い、周囲の霧に細い縞模様が浮かぶ。縞はやがて渦になり、小さな口の形を成した。見えない落とし穴の輪郭が、霧の表面に描かれる。
「いた」
渦の底に、青い布の袖が揺れた。子供だ。俺は腰に巻いた補助帯をユナに渡す。「支えてください」
ユナが短杖を地に突き、風を生む。俺は糸を渦の中へ投げ、袖へ絡め、引いた。渦が抵抗する。空間の縫い目が、俺の糸を拒む。汗が背中を流れる。
「がんばれ」
ユナの声が近くにあった。俺は歯を食いしばり、糸を一本、また一本と重ねていく。重ねるたびに、世界のほつれは俺の手に近づき、渦はほどけ、やがて――
「……っは!」
土の上に、軽い体が転がった。男の子が咳き込み、目を開く。ユナが抱き起こし、肩を撫でる。俺は糸を手繰り、渦の口を丁寧に縫い戻した。放置すれば、次の誰かが落ちる。
「大丈夫か」
「……うん」
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃのまま、子供は頷いた。袖が裂け、手首に薄い切り傷がある。俺は道具袋から薬草を取り出す。ここでも《補助》だ。傷の縁を寄せ、包帯を縫い合わせ、血の巡りを穏やかにする《循環》の糸を一本通す。
ユナがじっと見つめる。「やっぱり、ただ者じゃない」
「ただの、雑用係ですよ」
◇
村は、俺を英雄のように迎えた。囲炉裏の湯気、炊きたての粥、粗末だが温かい毛布。子供の母親は泣きながら礼を言い、村長は古い酒を持ってきて、何度も頭を下げた。
「礼はいりません」
そう言いながら、俺の胸のどこかで、硬い氷が音を立てて崩れた気がした。役に立つという感覚が、こんなにもまっすぐに、体温をくれるものだったなんて。
ユナは、囲炉裏の向こうで湯飲みを傾けながら俺を観察していた。「ねえ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
「あなたの《補助》、範囲が変だ。地形の縫い目なんて、見えない。私たち《風見》は匂いや流れで当たりをつけるけど、直接は触れない」
「小さい頃から、糸遊びが好きで」
「はぐらかさないで」
真っ直ぐな眼差しに、俺は乾いた笑いをこぼした。「――わかった。ひとつだけ、見せる」
俺は針を取り出す。細い銀の針。その柄には、古い時代の祈りの文字が刻まれている。持ち主の名は、もう無い。俺が拾ったときには、墓標の上で錆びていた。
針の腹に、息を吹きかける。灯りが小さく揺れ、部屋の空気がきゅっと締まった感触がする。糸は、まだ出していない。が、見えない糸の束が、周囲の壁や床に勝手に繋がり始める。俺の意識の端で、世界が細く鳴る。
「《全域補助》」
俺はそっと、名前だけを置く。自分でつけた名だ。誰かが教えてくれたものではない。
ユナが息を呑む。「範囲……村全部?」
「もっと、広くできる。やろうと思えば、山ひとつ分くらい」
自慢に聞こえないように、できるだけ事務的に言う。事実《補助》は、範囲を広げるほど薄くなる。だが薄くても、十分な時がある。例えば、峠の霧。例えば、足場の崩れ。例えば――魔王城の罠。
「あなた、どこから来たの?」
「勇者隊の、雑用係」
部屋が静かになった。ユナは湯飲みを置き、少し目を伏せ、それから笑った。「追放、ね」
「はい」
「じゃあ、ここに居なよ」
唐突な提案に、俺は目を瞬いた。
「この村は小さくて、貧しい。けど、谷を通る商人もいるし、外れに鉱の火が眠ってる。鍛冶屋が欲しい。薬師も。護り手も。あなたは全部、少しずつできる」
ユナは指を折って数え、最後に俺を真っ直ぐに見た。「そして何より――ありがとうって言える人が、ここにはいる」
胸の奥で、何かが決まる音がした。俺は頷いた。「しばらく、世話になります」
「うん」
ユナの笑顔は、焚き火より暖かかった。
◇
昼。村の外れ、黒く眠る岩肌に、細い赤が走った。ユナが言っていた「鉱の火」。地中の金属が、時折、空気へ火花を吐く。昔の人はそれを龍のため息と呼んだらしい。
俺は、村の若者三人と、臨時の鍛冶場をこしらえた。吹子を踏み、火を起こし、古釘を炉に入れ、溶けた鉄を叩いて鍬の刃にする。ここでも《補助》は働く。熱の流れを均す《温度糸》。金属と金属の隙間を埋める《溝埋め》。硬さと粘りの配分を調整する《均衡》。
若者たちが目を丸くする。「魔法みたいだ」
「違うよ。段取りだ」
俺は笑い、汗を拭いた。段取りを最適化すること。人と物と時間の縫い目を揃えること。それが俺の《補助》だ。戦場では誰も褒めなかったけれど、ここでは鍬一本で暮らしが変わる。
午後、谷の向こうから、砂埃が上がった。数騎の馬. 先頭に見知った顔があり、俺の心臓がひとつ跳ねる。
レオンと、聖女ミレイ、盾役ガロ、魔法使いアリス。勇者隊が、戻ってきた。
「……何の用だろう」
ユナが目を細める。俺は無意識に、糸を指に絡めかけて、やめた。震えを見せたくなかった。
馬が止まり、レオンが鞍から軽やかに降りた。視線は俺を素通りし、鍛冶場と、若者たちの手元に向けられる。彼は短く周囲を見回し、ため息をひとつ。
「村の者、用がある。峠の手前で、道を見失った。霧が、濃すぎる」
俺は、ほんの少しだけ笑いそうになった。笑わずに済んだのは、ユナが一歩前に出たからだ。
「用なら、村長へ」
「いや、これは――」
レオンの視線が、そこでようやく俺を捉えた。わずかに目が開く。驚き。安堵。警戒。それから、逡巡。
「リオ」
名前を呼ぶ声は、思ったより柔らかかった。過去の夜が、少し揺らぐ。
「峠の《目印糸》、残していっただろう。……貸してくれないか。ここを過ぎれば、もうお前の邪魔はしない」
俺は答えなかった。代わりに、村の子供が、鍛冶場の陰から顔を出した。朝に助けた子だ。俺を見ると、小さく手を振る。その仕草が、答えを決めた。
「峠は、もう塞ぎました」
「塞いだ?」
「崩れやすい箇所を縫って、霧の流れを変えました。村に入るなら大回りが必要です」
レオンの表情に、焦りが走る。追い風に乗って、彼らの背後から、黒い旗がいくつも見えた。王都の追討隊か、魔王軍の亜種か。どちらにしても、時間はない。
「頼む。迷っている暇はない」
ミレイの声は切実だった。俺はユナと目を合わせる。ユナは小さく頷き、ただし、と続けた。
「条件を」
レオンが眉を上げる。「条件?」
「この村の領分に、今後干渉しないこと。鉱の火も、水脈も、村のものだ。王都の収税官を連れてくるな」
ガロが渋い顔をし、アリスが苛立ちを隠さない。レオンは短く考え、それから頷いた。「約束しよう。俺の名にかけて」
嘘かもしれない。でも、今は人が死ぬかもしれない状況だ。俺は糸を一本空へ投げた。糸は見えない峠へ伸び、風の流れを掴んで、霧を裂く。空が一瞬だけ明るく開く。
「――行け」
レオンは礼も言わず、馬を返した。勇者隊は砂煙を残し、峠の向こうへ消えた。俺は糸を手繰り寄せ、空を縫い戻す。風はまた、谷へ優しく降りた。
ユナが横に立った。「優しいね」
「恨みで糸はきれいに結べない」
口にしてみて、自分でも驚いた。俺はそんな言葉を、いつ覚えたのだろう。多分、雑用係の夜に。誰かの寝息と甲冑のきしむ音の中で、糸を巻き、明日の段取りを、ひとりで整える時間に。
ユナが笑った。「じゃあ、明日から本格的に働いてもらうよ。鍛冶に、畑に、道の整備に、子どもの読み書きに」
「最後のは、初めての仕事だ」
「できるよ、あなたなら」
不思議と、できそうな気がした。世界のほつれを縫うのと、人の暮らしのほつれを縫うことは、たぶん同じだ。
夜。星は近く、火は小さく、村は静かだった。俺は糸巻きを枕元に置き、目を閉じる。
――《補助》は、万能だ。誰かがそれを認めなくても、世界は知っている。世界は、縫えば応える。
明日も糸を通そう。村のために。俺のために。
そして遠い山の向こう、黒い塔の上で、誰かがこちらを見ている予感がした。糸の震えに、微かな異音が混じる。魔王か、神か、それとも――。
追放された雑用係の物語は、たしかに動き出したのだ。