あえて引け、なんて無理だった
その日の退勤後。
エントランスを出たところで、美咲は偶然を装って翔太を待っていた。
いや、正確には――あのLINEの返信を、直接言いたかったのだ。
「翔太くん。」
彼の名前を呼んだ瞬間、翔太は少し驚いた顔をした。
「美咲さん…!」
「待ってた。」
「え、え、俺?なにか……ありました?」
翔太の目が泳いでいる。慌ててるのがバレバレだ。
「LINE、読んだよ。」
「あ、うん……気に障ってたらごめんね。」
「ううん。むしろ……ちょっと、寂しかった。」
その一言に、翔太の表情が一気にほころぶ――かと思いきや。
「……やばい、もう限界だ。」
「え?」
「いや、引こうと思ったんです。恋の三段活用の、第二段、“あえて引け”を実践してたんですよ。」
「……なにそれ?」
「大学時代の先輩に、恋愛は押してばかりじゃだめだって言われて。ちょっと引いたら、相手が気になってくれるって。でも……」
翔太はちょっと眉を下げて笑った。
「本当は今日、話しかけたくてたまらなかったです。」
その正直すぎる告白に、美咲は吹き出してしまう。
「なにそれ、子犬か!」
「子犬……?」
「うん、遠くからじーっと見てるのに、名前呼ばれたらしっぽ振って走ってくるタイプの。」
「……それ、めっちゃ嬉しい褒められ方してません?」
翔太がふっと笑い、美咲も肩の力を抜いて微笑む。
「でも、ちょっと嬉しかったよ。翔太くんがそんな風に考えてくれてたの。」
「じゃあ……これからも話しかけてもいいですか?」
「……もちろん。」
言葉の最後に、美咲はちょっと照れながら付け加える。
「私も……話したかった。」
その言葉に、翔太はまるで子犬のように目を輝かせる。
「……今すぐ晩ごはん誘いたいくらいですけど、そこはもうちょっと引いといたほうがいいですよね?」
「うん、それはたぶん、早すぎる。」
「でも、“もうちょっと”なんですよね!」
「……ふふ、うるさい。」
夕焼けに染まる帰り道。
2人の足音は、自然と同じリズムを刻んでいた。