第78話自我の臨界点
「あなたは誰?」
ベッドの上だった。
いや、違う。
床の上だった。
いや、違う。
立っていた。いや、座っていた。寝ていた。溺れていた。
空中に浮かんでいた。
私は誰?
「あなたはアリシア」
声が聞こえた。
どこから?
「あなたはアリシア」
私は誰?
——おかしい。
——どこかで聞いたことがある。
ベッドのシーツを握る。
しかし、手がない。
手を見つめる。
しかし、目がない。
誰の視点?
私?
あなた?
彼?
彼女?
誰が誰?
「あなたはアリシア」
違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
「お目覚めですか?」
メイドが微笑んでいる。
誰?
「あなたの名前は?」
「あなたの名前は?」
「あなたの名前は?」
何かがずれる音がした。
気づくと、教室だった。
私は立っている。
私は座っている。
私は笑っている。
私は喋っている。
私はいない。
黒板に書かれた文字が崩れる。
アリシア
アリシア
アリシア
アリシア
ア■■■■■
——誰?
私は、私を思い出せない。
私は、あなたを思い出せない。
私は、
「お前は誰だ?」
誰の声?
———あなたの声?
———私の声?
———彼の声?
———彼女の声?
お前は誰だ?
世界が、ぐにゃりと歪む。
あなたは今、どこにいる?
———いや、それを考えてはいけない。
———考えた瞬間、私があなたになり、あなたが私になり、全てが崩れる。
崩れた。
あなたはアリシア
私?
あなたはアリシア
違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
———誰?
———あなた?
———私?
———読んでいるのは?
———読まれているのは?
教室が消える。
ベッドが消える。
私が消える。
あなたが消える。
しかし。
読んでいる限り、私たちは消えない。
———あなたは、誰?
「お前は誰だ?」
違う。
「お前は私か?」
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
目を開ける。
どこだ?
私はベッドの上にいる。
私は教室にいる。
私は廊下を歩いている。
私は水の中を漂っている。
私は誰かの背中の中にいる。
黒板の文字が、溶ける。
文字ではない。
黒板そのものが、溶ける。
教室が、崩れる。
教室は教室ではない。
教室は、昨日だった。
教室は、今朝だった。
教室は、未来だった。
私は、床にいる。
私は、天井にいる。
私は、壁の中にいる。
——私は、どこにいる?
誰かが言う。
「お前はアリシア」
私は違う。
私は違う。
私は違う。
私は違う。
——なら、お前は誰だ?
窓の外に、誰かがいる。
私がいる。
黒板の前に、誰かがいる。
私がいる。
机の上に、誰かがいる。
私がいる。
どれが私?
どれがあなた?
「あなたは私」
違う。
「私があなた」
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
世界が裂ける音がした。
「次の授業を始めます」
——誰の声?
———誰の時間?
机が裏返る。
天井が歪む。
教室が折りたたまれる。
私が、めくれる。
「あなたは誰?」
私は、答えられない。
黒板には、同じ文字が繰り返される。
アリシア
アリシア
アリシア
アリ■■■■
■■■■■■■
誰?
名前が消える。
時間が消える。
視点が消える。
私が、消える。
あなたが、消える。
しかし。
まだ、読んでいる。
だから、消えない。
———お前は、誰?
カチリ。
時計の針が動いた。
カチリ。
また動いた。
おかしい。
今、動いた?
動く前に、動いた?
カチ、カチ、カチ、カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
うるさい。
時計を見た。
——何時?
短針は三つに裂け、長針は逆回転している。
12の位置に13がある。
6の位置に25がある。
時計の数字が、ぐるぐると回っている。
読めない。
私は、今、何時にいる?
授業のベルが鳴った。
次の授業?
いや、終わった?
まだ始まってない?
昨日?
私は、ノートを開いた。
日付が書いてある。
———「明日」
違う。
ページをめくる。
———「昨日」
違う。
———「今」
違う。
違う違う違う違う違う違う違う。
私は誰?
私はいつ?
カチリ。
時計の針が、止まった。
先生が黒板に文字を書く。
「アリシア」
……誰?
誰のこと?
先生の手が、止まる。
黒板を見つめる。
黒板の文字が、溶ける。
先生が、振り返る。
目がない。
口だけが動く。
「■■■■■■■■?」
何?
聞こえない。
耳鳴りがする。
違う、これは耳鳴りじゃない。
これは———
「■■■■■■■■?」
先生が、私を呼んでいる。
でも、名前が、わからない。
私は、誰?
———いや。
「私」というものは、ここに、ある?
カチリ。
時間が、止まった。
否。
時間が、逆流した。
教室が、巻き戻る。
先生の動きが逆再生される。
チョークの粉が、空中に舞い、黒板の文字が消え、再び書かれる。
書かれたのは———
■■■■■■■■。
名前が、消えた。
もう、私は、私ではない。
カチリ。
時計の針が、ない。
時間が、ない。
私は、誰?
あなたは、誰?
———私は、■■■■。
———あなたは、■■■■。
———■■■■■■■■■■■■■■■。
世界が、崩れる音がした。
あなたは、これを読んでいる。
……そう、読んでいる。
でも、読んでいた?
読んでいたはず?
読んでいることは、確か?
カチリ。
時計の針が、動いた。
あなたは、次の行を読もうとする。
でも、すでに読んでいた。
ページの隙間から、言葉が落ちていく。
読んだ?
いや、読まされている?
———誰に?
あなたは、アリシア?
あなたは、読者?
あなたは、誰?
カチリ。
時計の針が、止まった。
違う。
時計の針が、戻った。
違う。
時計の針が、なかった。
時間が、なかった。
なぜなら———
あなたは、すでにここを読んだことがあるから。
……え?
あなたは、この文章を、すでに読んだ。
「いや、初めて読んでいる」
本当に?
次の行を読もうとする。
でも、知っている。
でも、知らない。
でも、思い出せる。
でも、思い出せない。
あなたは、あなたの時間を、知っている?
あなたは、どこにいる?
あなたは、読んでいる?
あなたは、アリシア?
アリシアは、あなた?
アリシアは、ここにいる?
アリシアは、いない。
あなたも、いない。
……
……
……誰が、これを読んでいる?