第68話分裂
——アリシアは、どこにいる?
「アリシア様、どうかなさいましたか?」
誰かの声がした。振り向くと、メイドがそこにいた。見覚えのある顔。けれども、名前が思い出せない。
「……ここは?」
「お部屋でございますよ。アリシア様、お加減が悪いのでは?」
——いや、違う。
彼女の顔が、少しずつ崩れていく。皮膚が、紙のように剥がれ、下からまったく同じ顔が現れる。それがまた剥がれ、また剥がれ、無限に続く層。
「……誰?」
「お部屋でございますよ、アリシア様」
「お前は……誰だ?」
「お部屋でございますよ」
メイドの顔がパタン、と裏返る。その瞬間、景色が一変した。
——学園の廊下。
床は赤い絨毯。壁にかかる肖像画たちは、どれも目がくり抜かれている。廊下の先には扉がある。そこに行かなくてはならない、という確信がある。
——なぜ?
アリシアは足を進める。靴音が廊下に響く。だが、奇妙なことに、歩くたびに音の種類が変わる。ヒールの音、裸足の音、革靴の音、獣の足音。
——違う。私は人間だ。
「アリシア様?」
振り向くと、そこにセリナ・ルミエールが立っていた。
「セリナ……?」
「どうしたの?顔色が悪いわよ」
セリナは微笑む。その手には、開かれた本がある。ページの端が滲んでいた。
「何を読んでいるの?」
「……あなたのことよ」
「え?」
「あなたのことが書いてあるの。ほら、“アリシアは扉の前に立つ”」
アリシアは息を呑んだ。
「……何?」
セリナはにっこりと微笑んで、本のページをめくった。
「次の行を読んでみる?」
アリシアはゆっくりと目を落とした。
——“アリシアはセリナを殺す”
「……嘘」
「でも、書いてあるわ」
「そんなこと……私は……」
セリナがもう一歩、近づいてくる。
「やるのかしら?それとも、“やられる”?」
アリシアの指が震える。知らないうちに、手の中にナイフが握られていた。
——違う、私はこんなもの持っていなかった。
「アリシア様?」
別の声が響く。振り向くと、そこにはエリック・フォン・ガルティアが立っていた。
「お前、何を……?」
「エリック……助けて」
エリックは無表情でアリシアを見つめた。
「助ける?何を?」
「セリナが……!」
アリシアが指をさす。だが、セリナは消えていた。本だけが床に落ちている。
「……セリナ?」
「誰のことを言っている?」
「……え?」
「セリナ・ルミエールなんて人間は、最初からいなかっただろう?」
エリックの目が光る。その声が、別の何かの声に重なった。
「アリシア様」
——世界が、揺らぐ音がした。
「アリシア様」
誰かが呼ぶ。振り向くと、エリックが立っている。いや、彼だったはずなのに、顔が違う。
——誰?
「……誰?」
「何を言っている?俺だよ、アリシア」
「違う、お前は……エリックじゃない」
エリックだったものは、静かに微笑んだ。そしてその顔が、まるで水面に石を投げたように歪んで、別の顔に変わった。
——セリナ・ルミエール。
「おはよう、アリシア」
「……っ!!」
足が後ずさる。心臓が早鐘のように鳴る。
「どうしたの?顔色が悪いわよ」
彼女の言葉は先ほどと同じだった。いや、それだけではない。声のトーン、微笑みの角度、手に持った本——すべてがまったく同じ。
「……嘘……」
「アリシア様、お部屋に戻りましょうか?」
後ろからメイドの声がする。振り向くと、そこには、見覚えのある顔。けれども、名前が思い出せない。
——また……?
「アリシア様?」
メイドが微笑む。
「授業の時間です」
「……」
アリシアはゆっくりと呼吸を整え、ベッドのシーツを握る。
——また、ここ?
目の前の机には、一冊の本が置かれている。何かが違う。先ほどまで、ここには本などなかったはずだ。
アリシアはゆっくりと本を手に取る。ページを開くと、そこにはたった一文だけが記されていた。
「アリシアは、これを読んでいる」
——読んでいる?
「アリシア様、授業に遅れますよ?」
メイドが急かすように言う。アリシアはハッと顔を上げる。
——おかしい。何かが、決定的におかしい。
けれども、何がおかしいのかが分からない。
「アリシア?」
目の前に、セリナが座っていた。いや、セリナなのか?
「……お前は?」
「何を言ってるの?アリシア」
「……いや、違う。お前は……」
アリシアは、自分の手を見た。指が震えている。ナイフは——なかった。
「アリシア、今日は何を読むの?」
セリナがにっこりと笑う。その手には、開かれた本がある。ページの端が滲んでいた。
「……」
アリシアは、ゆっくりと目を落とす。
「アリシアは、セリナを殺す」
——世界が、また、崩れる音がした。
「——アリシア様」
目を覚ました。
カーテン越しに朝日が差し込んでいる。
「お目覚めですか?」
メイドが微笑んでいる。
——また、ここ?
冷たい汗が額を伝う。息が浅くなる。目の前に広がるのは、変わらぬ光景。けれども、その「変わらなさ」が異様だった。
ベッド、シーツ、ドレッサー、窓、カーテン——すべてが完璧なまでに昨日と同じだった。
——いや、昨日?
「アリシア様?」
メイドの声に、思考が寸断される。
「授業の時間です」
まただ。
ベッドから起き上がる。ドレスを整え、鏡を見る。映るのはアリシア——のはずだった。
しかし、鏡の中の「彼女」は、微笑んでいた。
——笑ってる?
目を凝らすと、それは一瞬の幻だったのか、ただの自分の顔に戻っていた。
「……」
胸の奥に巣食う違和感を飲み込んで、部屋を出る。
廊下を歩く。
光が射す。影が歪む。床が波打つ。足が沈む。いや、沈んでいない。歩く音が、遅れて響く。
扉を開ける。
——教室。
机と椅子が整然と並び、既に生徒たちは席についている。
セリナ・ルミエール。
エリック・フォン・ガルティア。
他の貴族の生徒たち。
彼らの姿はいつも通り。なのに、違和感が拭えない。
「アリシア、遅かったわね」
セリナが笑顔で声をかける。
「……」
アリシアは無言のまま、自分の席に向かう。
しかし、その途中でふと気づいた。
机の上に——「何か」が置かれている。
手を伸ばし、それを拾う。
それは、一冊の本だった。
開く。
最初のページには、たった一文だけが記されていた。
「アリシアは、これを読んでいる」
心臓が跳ねる。
——また、これ。
閉じる。視界が揺れる。
目を上げると、教室の光景が、微かに歪んで見えた。
椅子に座る生徒たちが、動いていない。
まるで、時間が止まったかのように。
「——アリシア?」
声が響く。
目を向けると、そこにはエリックがいた。
だが、その顔が——
——顔が……?
「お前、本当に魔力ゼロのはずの悪役令嬢か?」
声が、ノイズに変わる。
視界が、崩れる。
——世界が、また、崩れる音がした。