第59話瞳の檻、狂気の温度
「アリシア様、お目覚めですか?」
まぶたの裏側に光が差し込み、ゆっくりと目を開ける。見慣れた天蓋付きのベッド。柔らかなシーツの感触。心地よい朝の空気がカーテンの隙間から入り込む。
振り向けば、侍女が微笑んで立っている。
「おはようございます、アリシア様。朝食の準備ができております」
……何かがおかしい。
確か、私は……何をしていた? 頭がぼんやりとしている。まるで夢から覚めた直後のように、記憶がはっきりしない。
「アリシア様?」
侍女が首を傾げる。何か言わなくては。
「……ええ、おはよう」
私はベッドを出る。床に足をつけると、微かに冷たい感触が伝わる。いつも通り。何も問題はない。
──そう、何も問題はない。
窓の外を見れば、美しい庭園が広がっている。色鮮やかな花々、風にそよぐ木々。遠くで鳥がさえずる音が聞こえる。
だが、一瞬、視界の端で何かが動いた気がした。
……影?
いや、気のせいだろう。
私は服を着替え、侍女と共に食堂へ向かう。
「今朝は焼き立てのパンと、採れたての果物をご用意いたしました」
席につくと、テーブルには銀の器に盛られた朝食が並んでいる。温かなスープ。芳ばしいパンの香り。
私はスプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。
……何かが違う。
舌の上に広がる味。確かにスープのはずなのに、そこには何か別の感触が混じっている。ざらついた……砂のような?
「どうかなさいましたか?」
侍女が笑顔で尋ねる。その顔を見て、私は一瞬凍りついた。
──目が、増えている。
「……いや、なんでもないわ」
私は視線をそらし、パンをちぎる。指先に絡みつく感触。パンは柔らかいはずなのに、まるで生き物の肉を引き裂くような……
「アリシア様、お顔の色が優れませんね」
侍女の声が響く。私はそっと首を振る。大丈夫。問題ない。
──問題ない。
ふと、食堂の奥に視線を向ける。
そこに、彼がいた。
フェリクス。
勇者の服を纏い、背筋を伸ばし、じっとこちらを見つめている。
「……フェリクス?」
彼はゆっくりと歩み寄ってくる。その瞳は暗く沈み、焦点が合っていない。
「アリシア」
彼が名前を呼ぶ。その声はどこか掠れ、深く、震えていた。
「ようやく……ようやく、君に会えた」
彼の手が伸びる。指先が触れる。私は思わず後ずさる。
「……あなた、どうしてここに?」
彼は微笑む。だが、それは微笑みのはずなのに、どこかおぞましい歪みを孕んでいる。
「どうして?」
彼は一歩、また一歩と近づく。
「君を、迎えに来たんだよ」
空気が歪む。
スープの器が震え、パンが軋み、壁にかかった絵がぐにゃりと歪む。
──また、崩れる。
私は立ち上がる。後ろへ退く。しかし、フェリクスの手が、私の手を掴んだ。
「離して……!」
「嫌だ」
彼の指が強く食い込む。熱い。まるで私の皮膚を溶かそうとしているかのような熱。
「君を愛してる、アリシア」
彼の唇が近づく。その瞬間、世界が弾け飛んだ。
音が消え、光が砕け、すべてが黒へと沈む。
──次に目を開けた時、私はどこにいるのだろうか。
冷たい感触。
背中が硬い石の上に横たわっている。意識が戻ると、ぼんやりとした視界の中に天井が映る。
──いや、天井ではない。
そこに広がっていたのは、巨大な瞳だった。
無数の瞳が、私を見つめている。天井一面に、肌色のまぶたを持つ巨大な目が蠢き、瞬きを繰り返す。その瞳孔が開いたり閉じたりしながら、私を映し続けている。
「お目覚めですか?」
声が響く。
私は反射的に身を起こす。だが、手足が動かない。まるで透明な糸で縛られているように、指一本すら自由にならない。
「……誰?」
「私だよ、アリシア」
目の前に立つ男──フェリクス。
彼はゆっくりと私の方へ歩いてくる。
「また……会えたね」
「ここは……どこ?」
彼は微笑んだ。その笑みは穏やかで、それでいて何かが狂っている。
「君の部屋だよ」
私の部屋?
そんなはずはない。ここは、異常だ。壁も、天井も、すべてが脈打つように動いている。まるで生きているかのように。
「おかしい……」
フェリクスはゆっくりと膝をつき、私の顔を覗き込む。
「おかしくなんてないよ、アリシア。すべて、あるべき姿なんだ」
指先が私の頬をなぞる。ぞくりとする。
「触らないで……!」
私は叫ぼうとした。だが、その瞬間、フェリクスの瞳が変わった。
黒い瞳孔が大きく開き、そこに無数の映像が流れ込んでいく。
──焼け落ちる街、剥がれ落ちる皮膚、引き裂かれる肉。
──笑いながら泣く子供、赤く染まる草原、血を飲む男たち。
──世界の終わり。
「やめて……!」
私は目を逸らそうとする。しかし、フェリクスの指が顎を押さえ、強引に視線を固定させる。
「見て。君が創った世界だよ」
彼の声が低く響く。
「君が、選んだ結末だ」
──違う。違う、違う、違う。
これは私が望んだものではない。こんなもの、私は……
「なあ、アリシア」
彼は囁くように言った。
「愛してるよ」
彼の手が首筋をなぞる。その指先は優しいのに、どこか熱を帯びている。狂気の温度だ。
「君を、壊しても?」
耳元で囁かれた言葉に、私は凍りつく。
「君を、壊して、それでも愛してもいい?」
フェリクスの瞳が、陶酔に濡れている。
私は息を呑んだ。
──この男は、本気だ。
この世界の全てが崩れても、彼は私を抱きしめて離さない。
「アリシア、僕を愛してる?」
「……知らない」
私は答える。
「そう」
フェリクスは笑った。
「なら、これから知ってもらうよ」
彼の腕が私の身体を包む。熱い。体温ではない、もっと別の、執着の温度。
──世界がまた、崩れる音がした。