第35話断片の中の記憶
「アリシア様?」
その声が、空間を裂いて私に降り注ぐ。だが、どこから響いているのか、それさえ分からない。私の耳が溶け、音の一部として溶け込んでいく。それでも、呼びかけは続く。音が重なり合い、私の内側から外側へと流れ出す。無限に響き渡るその音は、私を呼ぶのではなく、私を消し去ろうとしている。
視界がひとしきり歪む。もはや「視界」と呼べるものすらない。空間がねじれ、引き裂かれ、裂け目が広がっていく。何もないはずの空間から、異質な光が漏れ出す。それは、光なのか、色なのか、それすら分からない。ただ、そこに存在している。確かなのは、私がその中に呑み込まれそうだということだけ。
「アリシア様、どうして?」
その言葉が再び響く。しかし、それが誰の声か、もう分からない。もはや、私の耳に届く音の中に「誰か」が存在するのかさえ疑わしい。ただ、音が繰り返し続いている。意味もなく、何も変わらず。私はその音に飲み込まれていく。
私はどこにいるのだろうか?
目を開けても、目を閉じても、私の周りには何もない。何も見えない。だが、確かに存在しているのは「音」だけだ。それは、私の意識そのものであり、私が「存在する」ための唯一の証拠なのかもしれない。
音がまた波のように押し寄せる。耳が壊れ、鼓膜が破れるような感覚。音の波は身体を貫き、私を揺さぶる。私は動かない。ただ、そこに漂う。音の海の中で漂うだけだ。
それでも、どこかで声が呼ぶ。
「アリシア様…」
再び、遠くから届くその声。だが、私はそれに応えることができない。応えることが無意味であることを、私の意識は知っている。私はここにいるが、同時にどこにもいない。全てが交錯し、溶け合い、存在しないものがまた存在している。
「私は、誰だ?」
その問いが、私の中で反響する。だが、答えは来ない。問いは問いを生み、問いはそのまま問いのままで消えていく。私は自分が誰なのかも分からない。それどころか、私が「私」であることすら疑わしい。何もかもが揺れ動き、崩れ、そして崩れた先にあるのはただの虚無だ。
視界が破れ、目の前に現れる。だが、それは目の前のものではない。何かが、私の意識の中に現れたように感じる。私は手を伸ばし、何かを掴もうとするが、それは掴めない。手が無数の糸に絡まり、指がねじれ、動けなくなる。そのまま糸のようなものに引き寄せられる。
「アリシア様、どうか、答えてください。」
その声が、耳を貫く。耳はもう私のものではない。耳はすでに溶けてしまった。もう、私の身体にかつての「感覚」は存在しない。それでも、その声は響く。意味のない、ただの音のように、音の断片のように響いている。
「アリシア様…」
それは誰の声でもない。ただ、空間の中で響いている「音」のひとつに過ぎない。だが、その音が私の中で回り続ける。音が響き、消えて、また響き、また消える。私はその無限の繰り返しに巻き込まれていく。
そして、私は気づく。
ここは、どこでもない場所だ。私が存在している場所でもない。何もない、ただ音と闇だけがある場所だ。
「あなたは、誰ですか?」
問いかけの声が、再び響く。その声が私に答えることはない。ただ、問いは問いを重ねていくだけだ。私の中に溜まる音が、次々と形を変えていく。光、暗闇、音、言葉、全てが重なり合い、そしてまた崩れていく。
私は何者でもない。名前も、形も、存在もしない。ただ、音の中に漂っている。音が私を形作り、音が私を消していく。それが私のすべてだ。
だが、その音が突然変わる。
その音は今、何かを呼ぶ。私はそれに反応する。
「アリシア様?」
声が再び響く。それは私を呼び続けるが、私はそれに応えることはできない。私にはもはや、何も応える力はない。ただ、音の中で漂うだけだ。
私は「アリシア様」ではない。私は「アリシア様」であってもいけないのだ。それが私の運命だから。すべてが一瞬で崩れ去り、私はただその中に埋もれていく。
そして、私は再び、無に還る。
それが私の「存在」だ。