第22話収束する歪み、崩壊する物語
光がうねる。金色の波紋が壁を溶かし、視界を侵食する。空間が軋む。骨のように、歯車のように。音が擦れる。金属を爪で引っ掻く音。湿った何かが蠢く気配。息をするたびに世界が揺れる。
金色の光が、壁を裂く。
裂け目から染み出すのは時間の残響。過去と現在、未来が混ざり合い、滴り落ちる。音はないはずなのに、耳鳴りがする。ひゅう、と細く長い風の音。それとも何かが這い回る音か。
目を開ける。だが視界はまだ暗い。闇の向こうで何かが歪む。黒い波紋。影の波。視線を向けるたびに揺らぎ、形を変える。ヒロインの顔が鏡の中で増殖する。無表情、泣き顔、笑顔、怒り。すべてが入り混じり、同時に存在している。
——アリシア様?
声がする。だが、誰の声か分からない。音が空間を跳ねる。エコーのように遅れて届く。アリシア様。アリシア様。アリシア様。名前がこだまする。
壁の裂け目がさらに広がる。ひび割れから零れる光の粒が床を這い、線を描く。魔法陣。いや、違う。これは言葉だ。知らない言語。古い文字。だが、どこかで見たことがある。書物の中か? 夢の中か?
「アリシア様……?」
今度ははっきり聞こえた。振り返る。
だがそこには、誰もいない。
床が軋む。蠢く。波打つ。影が滲み、形を作る。手、腕、顔。誰かがそこにいる。いや、何かが。
「——誰?」
声を出す。喉が渇いている。音が砂を吐くようにざらついている。返事はない。ただ、影がこちらを見ている。瞳がない。なのに、見られている。皮膚の下を這うような視線。冷たい。重い。ぞわり、と鳥肌が立つ。
影が動く。
「貴様の悪行は、
貴様の悪行は、
貴様の悪行は——」
オウムのように繰り返す。音が歪む。声が重なる。幾重にも響く。ノイズの奔流。
頭を抱える。割れるような頭痛。視界がぶれる。世界が跳ねる。白と黒のノイズ。耳鳴りがひどい。
「運命改変」
スキルを発動させる。
世界が軋む。
床が反転する。壁が崩れる。天井が剥がれる。空間がひっくり返る。逆さまになった廊下がどこまでも伸びる。扉が並ぶ。開ける。閉じる。どこへ行っても同じ景色。繰り返す。迷い込む。出口はない。
影が増える。何人も、何十人も。誰もが私を見ている。笑っている。顔がひび割れ、剥がれる。中から別の顔が現れる。王子。フェリクス。メイド。見知った顔が無限に折り重なり、混ざり合う。
——違う、こんなの、
「これは、私の物語……!」
叫ぶ。声が音にならない。呑まれる。溶ける。世界の波にかき消される。
裂け目の向こうに、もう一つの世界が見える。
選択肢。
進むか、戻るか。だが、もう戻れる場所などどこにもない。
——アリシア様?
まただ。また聞こえる。
世界が繰り返される。
だが、もう元には戻らない。
そして、裂け目は完全に開いた。
「……アリシア様?」
誰かが呼ぶ。誰かとは誰だ?私は誰だ?
文字が崩れる。意味が解ける。文章の端が溶けて滴る。手を伸ばすが、掴めない。言葉がすり抜ける。音がねじれる。思考が千切れる。
「……お前は誰だ?」
問いかける。しかし、声はどこにも届かない。音は断片となって空間に散り、意味を失う。自分の口から発せられたはずの言葉が、いつの間にか他人のものになっている。
——それは誰のセリフ?
壁のシミが蠢く。そこに顔がある。ないはずの目がこちらを見ている。口が裂け、音のない笑いを浮かべる。声なき声が囁く。
「あなたは物語」
「あなたは語られる側」
「あなたは記述される存在」
「あなたは——」
世界が跳ねる。場面が反転する。
***
——白い食卓。銀のナイフ。皿の上の肉が脈打つ。呼吸する。
「お食事をどうぞ、アリシア様」
メイドが言う。だが、メイドの顔がない。声だけが空間を満たす。口のない顔が喋る。空洞が囁く。私はナイフを握る。肉を裂く。赤黒い液体が滴る。血か、時間か、記憶か。
——誰の記憶?
フォークを突き刺す。肉が悲鳴を上げる。皿の上で蠢く。それは私の顔をしている。笑い、泣き、叫ぶ。誰かの断片。誰かの人生。誰かの物語。
「いただきます」
ナイフを振り下ろす。瞬間、世界が割れる。
***
——王宮の廊下。壁に刻まれた紋様が歪む。文字が蠢く。読めない。解読不能。
「アリシア様……?」
声がする。だが、振り返れない。振り返ってはいけない。視線を動かせば、何かが壊れる。
——何が?
床が軋む。天井が反転する。世界が裏返る。私は立っている。私は歩いている。私は逃げている。
——何から?
何かが追ってくる。何かが迫る。影が伸びる。影の中に目がある。口がある。誰かの言葉が反響する。
「運命改変」
スキルが発動する。だが、何も変わらない。物語は書き換えられない。ページがめくられる。だが、同じ行が繰り返される。
——どこかで見た光景。
——どこかで聞いたセリフ。
私は逃げる。私は逃げる。私は——
足元が崩れる。
***
気がつくと、私は暗闇の中に立っていた。
光がない。音がない。時間がない。
——私は誰?
——私は何?
誰かの声が響く。
「物語の外に出るな」
世界が震える。
壁がせり上がる。床が軋む。歪んだ顔が無数に浮かび上がる。
「あなたは登場人物」
「あなたは役割を持つ者」
「あなたは語られる者」
「あなたは、決して」
影が覆いかぶさる。目が開く。口が裂ける。
「物語の外に出てはいけない」
私は叫ぶ。しかし、声は音にならない。
私は。
私は。
私は、
——誰なのか?
世界が崩れる。
光が砕ける。
物語が、
終わらない——。




