第21話迷宮の果て、或いは誕生の瞬間
金色の光が裂け、音が砂のように崩れる。そこに在るべきものがない。壁は壁のままで、天井は天井のままだが、それらはひどく軟質化し、流動する。存在の境界が曖昧になっていく。私は何度もここにいたはずだ。幾度も繰り返されたこの空間。けれども、今回は決定的に違う。
「アリシア様……?」
声がする。けれど、それは私の知る声ではない。振り向けば、そこには誰もいない。けれども確かに声はあった。私を呼ぶ声、私を求める声。壁に耳を押し当てる。ノイズが流れ込む。断片的な言葉が蠢く。
——彼女は知っている。
——彼女は知らない。
——彼女は彼女であり、彼女ではない。
部屋がひしゃげる。天井が足元に落ちる。床が空へと昇る。私はどこに立っている?立っているのか?
「アリシア様、お戻りを」
声が響く。だが、それは声ではない。文字が、文章が、音として変換されたものが、空間に散乱する。言葉が壁を這い、天井を染め、床に染み込む。私はその中に沈む。泳ぐようにして、言葉の波間を縫う。
私のスキルが発動する。「運命改変」。
——私はどこにいる?
——私はどこへ行く?
世界が折れ曲がる。時間が捻れる。私はどこにもいない。いや、どこにでもいる。ここは?
「アリシア様、お食事の時間です」
メイドが言う。のっぺらぼうの顔が笑っている。笑っているのか?否、顔がないのに笑えるはずがない。皿の上には肉。赤い肉。震えている。まだ生きている。
ナイフを突き立てる。
肉は私を見ている。
「いただきます」
口が動く。私の口?肉の口?どちらの口?口が増える。無限に。唇の波。声の渦。喉が喉を飲み込み、舌が舌を絡める。
——誤作動。
——エラー。
——ストーリーの不整合を検知しました。
世界が崩れる。紙吹雪のように。ページの間に挟まれた私。私が本を読んでいるのか、本が私を読んでいるのか。
どこかで鐘が鳴る。目を閉じる。
——貴女は誰?
目を開ける。景色が変わる。
私は生まれる
金色の光が壁を裂く。
音が、断絶する。
振り向く。だがそこには何もない。王子の姿があるはずの空間には、白いノイズが降り積もり、無数の断片が宙を舞っている。光の粒か、文字の残骸か、それともただのゴミか。
目を凝らす。だが、視界が歪む。壁のシミが動く。ヒロインの顔が複数に分裂し、別の表情を作る。笑顔、泣き顔、無表情、全てが同時に存在し、瞬時に切り替わる。ページをめくる音がする。誰かが本を読んでいる。
「アリシア様?」
振り返る。だが、声の主はどこにもいない。廊下が延びる。無限に、果てしなく。床に刻まれた紋様が蠢く。見たことのない言語。意味を成さない文章。
——あなたは誰?
——お前こそ誰だ?
目の前の景色が跳ねる。切り替わる。瞬きの間に、別の世界へ移行する。
私は椅子に座っている。目の前には皿がある。銀のフォークを握る手が震えている。
「お食事をどうぞ、アリシア様」
顔を上げる。メイドがいる。彼女の顔がない。のっぺらぼう。だが、声はする。口のない顔が喋る。
「冷めないうちに、どうぞ」
皿を見る。肉がある。動いている。呼吸をしている。ナイフを入れる。断面から赤黒い液体が溢れる。血か、ソースか、それとも記憶か。
瞬間、また視界が跳ねる。
——貴様の悪行は、
——貴様の悪行は、
——貴様の悪行は、
エコーが響く。断片が交差する。誰のセリフか、もう分からない。意味のない繰り返し。オウムのように、同じフレーズが反復される。
視界がノイズに埋もれる。白と黒。ザラついた砂嵐。吐き気がする。
私は——私は、
スキルを発動させる。
「運命改変」
世界が弾ける。
廊下の先が千切れる。床が反転し、天井が落ちる。影が逃げる。笑い声が響く。誰のものか分からない。私か、フェリクスか、王子か、それとも……。
私は立っている。どこに?
「アリシア様?」
まただ。また、だ。
世界は繰り返される。
だが、もう元には戻らない。
——アリシア。
——お前は誰だ?
——お前は誰だ?
——お前はお前か?
声が溶ける。意味が崩れる。無数の「アリシア」が囁く。どの声も、私だ。だが、どれも私ではない。言葉は形を持たない。手のひらの中で崩れ落ちる。砂のように、霧のように。
視界が捻れる。目の前にいるのは誰?王子?フェリクス?違う、違う、違う。顔が変わる。ぐにゃりと歪む。彫像のように砕け、無数のピースに変わる。崩れた破片の中で、私は自分の顔を見つける。
「やめろ……」
言葉に意味がない。響かない。舌が動かない。口がどこにあるのか分からない。音が反響し、ねじれる。私は誰に向かって話している?
床が崩れる。落下する。
どこまでも落ちる。落ちる。落ちる。
景色が切り替わる。
目の前に広がるのは白い部屋。
壁には無数の文字が刻まれている。だが、読めない。記号の羅列。意味を成さない。書いたのは誰だ?私か?
——アリシア。
——お前はもう、お前ではない。
影がうごめく。形を成さない。無数の「私」が壁に溶けていく。
もう戻れない。
どこへ?どこに?
笑い声が響く。壊れたラジオのように、ノイズ混じりの嗤い。
「ようこそ、ここへ」
視界が染まる。
世界が、反転する。
——終わりは、始まり。
——始まりは、終わり。
「アリシア様?」
また、だ。
私はどこにいる?