第19話断片の迷宮
金色の光が壁を裂く。音が、断絶する。振り向く。しかし、そこには何もない。王子の姿があるはずの空間には、白いノイズが降り積もり、無数の断片が宙を舞っている。光の粒か、文字の残骸か、それともただのゴミか。
目を凝らす。だが、視界が歪む。壁のシミが動く。ヒロインの顔が複数に分裂し、別の表情を作る。笑顔、泣き顔、無表情、全てが同時に存在し、瞬時に切り替わる。ページをめくる音がする。誰かが本を読んでいる。
「アリシア様?」
振り返る。だが、声の主はどこにもいない。廊下が延びる。無限に、果てしなく。床に刻まれた紋様が蠢く。見たことのない言語。意味を成さない文章。
——あなたは誰?
——お前こそ誰だ?
目の前の景色が跳ねる。切り替わる。瞬きの間に、別の世界へ移行する。
私は椅子に座っている。目の前には皿がある。銀のフォークを握る手が震えている。
「お食事をどうぞ、アリシア様」
顔を上げる。メイドがいる。彼女の顔がない。のっぺらぼう。だが、声はする。口のない顔が喋る。
「冷めないうちに、どうぞ」
皿を見る。肉がある。動いている。呼吸をしている。ナイフを入れる。断面から赤黒い液体が溢れる。血か、ソースか、それとも記憶か。
瞬間、また視界が跳ねる。
——貴様の悪行は、
——貴様の悪行は、
——貴様の悪行は、
エコーが響く。断片が交差する。誰のセリフか、もう分からない。意味のない繰り返し。オウムのように、同じフレーズが反復される。
視界がノイズに埋もれる。白と黒。ザラついた砂嵐。吐き気がする。
私は——私は、
スキルを発動させる。
「運命改変」
世界が弾ける。
廊下の先が千切れる。床が反転し、天井が落ちる。影が逃げる。笑い声が響く。誰のものか分からない。私か、フェリクスか、王子か、それとも……。
私は立っている。どこに?
「アリシア様?」
まただ。また、だ。
世界は繰り返される。
だが、もう元には戻らない。
笑い声は波紋のように広がり、壁を滑り、天井を撫で、床に絡みつく。壁のシミはうごめく触手となり、名も知らぬ神々のように囁く。
「お前はどこから来た?」
「アリシア様……?」
「この世界は、すでに壊れている。」
私は目を瞑る。だが、それは意味をなさない。まぶたの裏に、なおも世界が広がる。そこには無数の眼がある。私を見つめる眼、私を追う眼、私を待つ眼。視線が肌を刺す。脳を貫く。喉が詰まる。言葉が出ない。
「アリシア様?」
声は遠くで響く。果たしてそれは本当に私の名なのか?
「アリシア」
「アリシア」
「アリシア」
誰かが繰り返す。何度も、何度も、何度も。意味が抜け落ちる。音だけが残る。アリシア。アリシア。アリシア。
世界が揺らぐ。空間がひび割れる。そこから無数の手が伸びる。骨と皮だけの手、燃えさしのように黒く焦げた手、やわらかく粘つく手。それらが私の手を引く。どこへ?
「物語の外へ」
誰かが囁く。
——お前は、どこへ行く?
足元が崩れる。床がなかったことになる。私は落ちる。だが、そこに地面はない。無限に落ち続ける。空がある。天井のはずなのに、そこは空だった。星が輝く。だが、それは星ではない。眼だ。無数の眼が、私を見下ろしている。
「アリシア様」
気づく。メイドがいる。顔のないメイドが。いつから? ずっと?
「そろそろ、お時間です」
何の?
「目を覚ます時間です」
私は……私は——
世界が白く塗りつぶされる。
「運命改変」
——どこまで、変えられる?
私はどこへ行く?
物語の、外へ?
それとも——
影が笑う。
幕が落ちる。
闇が、私を迎え入れる。