第13話遡行する影
闇が波のように打ち寄せ、世界は軋む音を立てながら歪んでいた。
月の光が途切れ途切れに瞬き、夜空に刻まれた裂け目の向こう側から、何かが覗いている。
私は時計塔の上に立ち尽くし、手のひらに残るフェリクスの温もりを握りしめたまま、目の前の異変を見つめていた。
「……これは、何?」
問いかける声に、フェリクスは小さく息を吐く。
「おそらく――この世界が、本来の形を取り戻そうとしている」
「本来の形?」
私は、彼の言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「アリシア、君が書き換えた物語は、確かに君の望んだ通りになった。けれど……どんな物語にも“原型”がある。たとえどれだけ塗り替えようとも、その“原型”は消え去ることなく、どこかに残り続けるんだ」
フェリクスの視線が、夜空の裂け目へと向かう。
そこには、もう一つの世界が存在していた。
“私が改変しなかった世界”
“書き換えられる前の、元の物語”
それが今、ゆっくりと“こちら側”に浸食を始めている。
(そんな……)
私は思わず息を呑む。
私が書き換えた世界は、完璧だったはずだ。
私は破滅の未来を避けるために、何度も改変を繰り返し、最善の結果を求めてきた。
なのに――
「アリシア様」
背後から、不意に聞き覚えのある声が響いた。
私は驚いて振り向く。
そこにいたのは――エリックだった。
「……エリック?」
彼は冷たい視線をこちらに向けたまま、静かに歩み寄る。
だが、その足取りは奇妙にぶれていた。
まるで、自分がここに存在していること自体を疑うように。
「アリシア様、あなたは……本当に“アリシア様”ですか?」
「……どういう意味?」
「僕の記憶の中のアリシア様は……こんな世界を生きてはいなかった。こんな歪んだ世界ではなく、もっと……もっと、整った物語の中にいたはずだ」
エリックの声が、かすかに震える。
「僕は……思い出せないんです。どうして、こんな世界になってしまったのか。どうして、あなたがここにいるのか」
私は、喉の奥で何かを飲み込んだ。
(そうか……)
エリックは、“書き換えられる前の世界”の記憶を微かに持っているのだ。
彼は、私が改変するたびに、何度も別の人生を歩まされてきた。
そして今、彼の中で“断絶”が生じている。
私が作り変えた世界と、彼の中に残る“元の物語”が、衝突し始めているのだ。
(こんなこと……予想していなかった)
私は、自分のスキルの影響を過小評価していたのかもしれない。
世界を改変し続けることで、本来あるべき物語の形が浮上し、歪みを生じさせている。
それは、私のスキルの及ばぬ領域――「書き換えられないもの」の抵抗。
「アリシア様、あなたは……本当に、この世界を“正しいもの”だと思っていますか?」
エリックの問いかけに、私は何も答えられなかった。
正しい?
何が“正しい世界”なのか、私にはもうわからなかった。
「――アリシア」
フェリクスが、私の肩にそっと手を置く。
「君が選ぶべき道は、決してひとつではない。でも、君が世界を書き換え続ける限り、どこかで限界が来る」
「……限界?」
フェリクスはゆっくりと首を振る。
「世界は、君の思うままにはならない。たとえ運命改変の力があったとしても――君が創り出したものの全てを、永遠に維持することはできないんだ」
(……そんなの、わかってる)
私は、震える手でスカートの裾を握りしめた。
でも、私は。
私は――
「……それでも、私は、書き換え続ける」
私は、迷いながらも言葉を絞り出した。
フェリクスは目を細め、エリックは困惑したように表情を曇らせる。
「アリシア様……」
「たとえどんな歪みが生じても、私は私の未来を選ぶ。だって……」
私は、夜空の裂け目を見上げた。
その向こうには、“元の物語”が広がっている。
私は、その未来を拒絶する。
たとえ何が起ころうとも――
「私は、この世界を“私の物語”にするの」
その瞬間、時計塔の鐘が鳴り響いた。
ゴーン――ゴーン――
低く、長く、世界を貫く音。
そして、空の裂け目が、一気に広がる。
“元の物語”が、こちら側に流れ込もうとしていた。
私は、胸の奥に熱い衝動を感じながら、静かに目を閉じる。
もう、迷いはない。
この世界の行く末を決めるのは、私の意志だけ。
そして私は――
この物語の結末を、己の手で選び取るのだ。
(続く)




