信頼できる男、諭吉。
2023年、3月10日。
「大丈夫だって、私たちまだ23歳だから。ギリギリ10代のコスプレしてもセーフだし。理想の女の子に生まれ変わっちゃおうよ」
自分が変わらないと周りは変わらないっていうけど、逆に自分が変わればなにか起こるかもしれないし。
家に泊まったアヤミから助言を受けて、土日のバイト以外の時間を家の片付けと整理に費やし、断捨離して、買うものをリストアップした。
3月13日、月曜日。ユリコは気合を入れてデパートに行く。
引越しの初期費用や不慮の出費に備えてそれなりにお金を貯めていたのだが、使った分また稼げばいいし多少使っても何とかなるだろうと判断し、クローゼットに貯めていた現金に加えてATMでお金を引き出して(クレジットカードで爆買いする勇気はないので)、意気揚々と1人で出かけた。
買おうと思ったものはたくさんある。靴、服、化粧品、花、香水、鞄、下着、部屋着。
軍資金の足りる限り、好みのものがある限り買ってしまえ。
そう思ってデパートへ行ったが、1時間ほど服屋を闊歩して、「好きだけどチャレンジングな形の服だし着ないかもしれないから衝動的に買うのは怖いな」「可愛いけどこんな色の服買って何に合わせればいいの」「これなら似たようなのもうちょっと安く売ってる店ありそう」「どこに着て行くの」と買うのを渋ってしまい、これではダメだと別のものを買いに行くことにした。
化粧品だ。デパートの化粧品は高いし、カウンターでタッチアップを頼むのは怖いけれど、「店員さんに押されたら何か買うだろう」と、今まで近寄りもしなかった化粧品フロアに足を踏み入れた。
「何かあればお気軽にお申し付けください」と声をかけられて情けなく返事をしてウサギのように跳んで逃げること数店舗。行き場なくフロア内をぐるぐる歩く。
もう、決め打ちでどこかのお店でタッチアップしよう。化粧品の細かな違いが分かるほど玄人ではないし、万人受けしているブランドならどこで買っても自分にはそんなに変わらないだろう。と覚悟を決め、よく見る美容系の動画投稿者が褒めていたチークのあるブランドのショップに立った。
「何かお探しですか?」
平日のお昼前なので店員さんも暇なのだろう。着地狩りのような速さで話しかけてきた店員さんに、ガチガチになって「チークを探してて」となにかの弁明をするみたいな声色で伝えた。いや、チークだけはないと死ぬと思ってチークを一番に買うことに決めたけど、口紅か下地を先に買うほうが良いのでは?
「チークですね。何か気になっている商品とかございますか?」
「えっと……このシリーズで……」
黒く四角いケースに詰まった粉を指差す。名前が言えないぐらい長いカタカナのチーク。
「こちらですね!お好みのお色ですとか、お求めのお色はありますか?」
「えっと……この色が気になってるんですけど、でもどれがいいか分からなくて」
ふわふわした雰囲気の店員さんが、明るくハキハキ話しかけてくれる。こんな陰気にめんどくさい感じに話してごめんなさい!絶対何か一つは買うので許して!と思いながら頭を下げた。
ユリコは別に人見知りをするタイプではなく、相手の手のうち(会話のタイプというのだろうか)が分かれば割と誰でも臆せず喋るのだが、今いる化粧品カウンターは初めて来る戦場で、美容部員さんと話すのも初めてだ。
「あの、デパートコスメを買いに来るのが初めてで……よろしくお願いします」
開き直るのは得意である。ユリコが素直に白状したら、椅子を引きながら店員さんがこちらを見る。
「そうなんですね!うちのブランドを初めてに選んでいただけて嬉しいです。一緒にお気に入りのコスメ探しましょう」
店員さんの朗らかな笑顔とカウンターの鏡の眩しさに目を細めた。
「デパコス初めてとのことですが、今日はチークのみのお探しですか?」
「あ……良いのがあったら他の部位もと思ってます」
「下地とかアイシャドウとかですか?」
「下地と口紅と……アイシャドウと……全部です……」
「分かりました。チーク以外にもお好みのもの探しながら考えましょう!」
「ありがとうございます……」
さらりと予算を確認してきたり普段のメイクを聞いてくるデキる店員さんの優しさに浸りながらケープを掛けてもらい、鏡の中の自分と見つめ合った。
「一度メイク落としてもらってもいいですか?」
「あ……えっと、眉毛以外何もしてないんですけど……」
「え!お肌きれいですね!?アイメイクされてるかと思ってました」
「目は……周りがくすんでるだけで……」
お世辞だろうが恥ずかしいのでへへ、と照れ笑いしながら前髪をクリップで留めてもらう。
「目がめっちゃ大きくて羨ましいです」
表情こそが最大のメイクであると体現するかのようにコロコロと顔色を変える店員さんがかわいい。
「え、ありがとうございます……」
褒められるとめちゃくちゃ恥ずかしい。大学に入ってから周りが男ばかりだったユリコが顔の話を女子と面と向かってするなんて、高校の同級生たちからお世辞でかわいいと言われてたとき以来だ。つまり5、6年ぶり。大人になってからそんなに仲良くない人と顔の話するのは初めてかもしれない。
保湿の化粧水やら美容液やら乳液やらを塗られ、下地を塗られる。正直ファンデーションとかパウダーとか面倒なので「これ塗ればOK」というものを一本で用意して欲しい。不器用なので、メイクの工程が増えれば増えるほど失敗が多くなるのだ。下地はよくわからないのでとりあえず今使っているものでいいことにしよう。
店員さんが鏡越しに覗き込んでくる。
「チークは何かでご覧になって買いに来てくださったんですか?」
「あ、はい……よく見るメイク動画で出てきたりしてたので」
「そうなんですね!動画に出ていたのがこのお色ですか?」
「はい」
「お客さま自身はどういったチークがお好みですか?色味とか、発色とか……」
「結構広く丸く入れるので、濃すぎなくて馴染みやすい色だと良いかなって思ってて……色味は……自分に何色が合うか分からなくて」
「パーソナルカラー診断とかされたことありますか?」
「ありません……多分ブルーベースかな、くらいで……」
パーソナルカラー、存在はもちろん知っている。自分に何色が合うのかよく分からなくて、己がどれに分類されるのかは分かっていない。自分よりファッション系の趣味を深く楽しんでいるアヤミには「絶対にブルーベース。とりあえずカーキとかオレンジは違う。水色と白と黒は問答無用に似合う」とコメントされた。
3色のチークを手の甲に出してもらう。店員さんがユリコの顔と手の甲のチークを真剣な顔で見比べた。
「この青みのピンクが一番ふわっと馴染みやすい気がします!お客さまの優しい雰囲気の顔立ちに似合うと思いますよ」
優しい雰囲気の顔立ちとか初めて言われた。在学中は無表情でいると「怒ってる?」と研究室の同期や先輩から言われたのを思い出す。
ユリコの手首ぐらいある太めのブラシでベビーピンクのチークを広く丸く入れてくれる。店員さんに褒めちぎられて判断が鈍っているので良し悪しが分からないが、かわいい色だとは思う。違和感もない。
「似合いますね!すごくかわいいです。他のも試されますか?」
「あ、これとても気に入ったので、大丈夫です……ありがとうございます」
チークの塗り直しするとしたら、化粧落としからのまた下地やり直しになるのかな?と思うと申し訳ない気がしてきて遠慮した。
「このチークに合うリップがいくつかあるのでお持ちしてもいいですか?」
「お願いします」
店員さんが2種類のリップを2色と3色、計5色のリップを持ってきてくれた。
「こちらが一番人気のシリーズで、こっちは新しく出た保湿重視のリップになります。こちらは植物由来のオイルを多数配合していてお肌に優しい作りになっているんですよ。どちらがお好みですか?」
植物油か……。
どうしよう。
愛想笑いを崩さないようにしながら、こっちでお願いします、と普通の口紅を指す。
ユリコは化粧品や実際の人体への影響は専門外なので詳しくないが、どうしても多価不飽和脂肪酸を顔に塗って外に出るの嫌だなと思ってしまう。「これラジカル出ないの?」「これこっちも酸化してない?」ゼミでの教授たちの罵倒の悪夢が思い起こされる。塗った時はお肌に優しいオイルかもしれないが、肌の上で日光と反応して何になるか……。
………。
お肌に良いか悪いかの真相はさておき、こういうことを考えてしまうユリコはあんまり自然由来にこだわりすぎない化粧品の方が向いているだろう。
「こちらの口紅だとこの08番と47番がいいお色かなと思います」
47番まであるって、何色あるんですかそのリップ。店員さんが2色を手に出して見せてくれて、どちらがお好きとかありますか?と聞いてくれる。
正直よく分からないのだが、リップはチークと同じでほぼ毎日使うし良いものを何か持っておきたい。
「こっちですかね……」
化粧が濃くなるのが怖いので薄い色の方を選んだが、塗ってみたら濃い色の方が似合って見えた。素の唇の色が無さすぎるせいかもしれない。ふんわりとローズっぽい色になった唇を見つめながら、試してみるもんだなぁと感心する。
アイシャドウもお試しどうですか?と聞かれて、なるようになれと頷き、色々とアドバイスを貰いながら試させてもらう。だいぶ緊張が解けてきて、瞼が腫れぼったく見えないシャドウの塗り方やクマの隠し方をユリコの方からも尋ねながら、店員さんのアドバイスを真剣に聞いた。
「お客さまとっても可愛いので、何色でもお似合いだと思いますよ!」
3種類のアイパレットを勧められて、パッション全開の店員さんのキラキラ笑顔の迫力に負ける。
「ちょ、ちょっと考えます」
「あ、あと個人的におすすめのマスカラがあるので塗らせていただいてもいいですか?」
「お願いします……」
「このカラーマスカラなんですけど、ネイビーとかパープルとかボルドーやグリーンがあって」
カラーマスカラをつける勇気はないから本当にお試しさせてもらうだけにしよう……と思いながら、ネイビー試して良いですかと言って塗ってもらう。
「………」
すごい。
思っていた100倍いい、というのはこういう時に相応しい表現だったのか。
「すごい……」
思わず素直に漏らすと、ですよね!と店員さんが弾けるように言う。
「ほとんど黒で、お仕事とかにも使えるんですよ。でも光に当たると青く透けて見えるようなニュアンスで。目元の印象がすごく良くなります。しかもちゃんとカールキープもできて塗りやすいですし、私のオススメです」
ユリコがマスカラに惚れたのを察したのか店員さんが力説してくる。
「この青いマスカラと普段使いで合わせるなら、こちらのアイシャドウが一番使いやすいと思いますよ」
店側の策略に乗っていることを自覚しながら、ベビーピンクとチョコみたいなブラウンの3色パレットを見つめる。
「じゃあ……チークとリップとアイシャドウとコンシーラーとマスカラを……お願いします」
買いすぎて恥ずかしい、と思いながら、これとこれと……と指差すと、「他のブランドさんも見なくて大丈夫ですか?」と逆に心配された。
「あ……はい……そんなにこだわりなくて……」
「そうなんですね。お化粧楽しいので、よかったら色んなところ見たり、またいらしてくださいね。……あ、最後にひとつ良いですか」
「?はい」
店員さんが引き出しからアイライナーを取り出して、ユリコの目の下のホクロを書き足した。
「可愛いホクロなので、下地で少し薄くなってましたけど書き足しちゃいますね」
「あ、ありがとうございます……」
消えないなと毎日思っていたホクロを書き足されて、鏡の自分を見る。
童顔だよな、私って。顔の縦の長さが短いし、おでこ広いし、鼻小さくて丸いし。
「なにか気になるところでもありますか?」
「いや……何でもありません」
大人の使う化粧品を使ったら、少しは大人っぽい女性になれるだろうか。
あの、高貴な美人感の滲み出る「美波カノン」のように。
会計用のお金を渡して、ショッピングバッグや試供品をいろいろ用意してくれる店員さんをぼんやり眺めた。
「あの、お客さま」
「は、はい」
店員さんがムエット紙を持ってくる。
「こちらの香水、お好みですか?お客さまみたいな、甘くて可愛らしいのにちょっと大人っぽい雰囲気がこの香りのイメージとピッタリに思えて。お嫌いでなければ、袋に一緒にお入れしてもいいですか?」
甘さのあるミルキーな香りだった。少し香りが強いかな、と思ったが、自分のイメージに合うと言われたら嬉しくなるいい匂いだ。もう少し大人っぽい方が、と一瞬思いかけて、今の自分に必要なのは何かを目指すことではなく自分に合うものを集めることだと浮かんだ考えを吹き飛ばした。
30mlで1万円を超える高級香水だ。だが、香水なら仕方ないな、と変に納得して(ユリコは在学中、5mlで4万円の試薬を使って実験していた。もちろん実験の試薬と香水は全然意味が違う)、帰ったらこの店の通販でこの香水を買おうと心に決めた。ユリコは自分のチョロさを言い訳に、優しい店員さんの販売戦略に乗っかることにした。
「何から何まで、ありがとうございます。すごく勉強になりました」
頭を下げると、店員さんがはにかんだ。
「いえいえ。こちらこそたくさんのお買い上げありがとうございました!……あと、お客さまとってもかわいいので、メイクさせていただけて楽しかったです」
「あ、ありがとうございます……」
今日はチークいらないのではと言うほど頬が熱くなるのを感じながら、化粧品のフロアを後にした。香水を買うために1諭吉取っておくとしても、散財を決め込んで持ってきたお金はまだ残っている。
とりあえずお昼を食べて、午後は靴と服と鞄を探そう。
そして、帰りに近所の園芸屋さんでクレマチスを買う。朝、クレマチスの鉢が売っていたことを確認した。売れていなければ買えるはずだ。
定食屋に入って、ご飯小盛りで生姜焼き定食を頼む。
コスメカウンターの店員さんすごく楽しそうだったなぁ、と思い返しながら微かにレモンの味がする水を飲んだ。
好きなことを仕事にするっていいなぁ。
ため息をつく。
何が好きか分からなくて、「とりあえず社会より理科の方ができるから」という理由で理系に進み、生物は覚えられなくて物理は理解できないという理由で化学系を専攻し、「とりあえずこれが一番職に困らないから」という理由で研究室を決めた。
嫌いなことを避けてきただけの人生で、好きなことを追うことも好きなものに囲まれることもできないところまで進んできてしまった。23歳はまだやり直せると思ったところで、全てを捨ててまでやりたいことがある訳でもない。強いて言うなら、もう少し楽しく過ごせたはずなのになぁと思うだけ。覚えられなくても化学より生物の方が好きだったし、院に進まずにゲーム会社の企画職とかになりたかった。だけど生物を本気で極めている人には敵わないし、ゲームが本当に好きな人には敵わない。
やりたいことを追う人生を送りたかったけれど、中途半端な自分にはやっぱりそんなものはない。23歳。まだどこかに自分が見つけていない才能があると信じたいが、見つけて何になるのかと諦めている自分もいる。
サラリーマンの多い定食屋で泣けてきたので、意識を変えて、食事が届くまでに美容室の予約を入れた。
午後はヒールのある靴と厚底の靴を買って、いつも大きいカバンで過ごすのを卒業するために小さめの黒のポシェットを買った。服と部屋着も買った。カバンが単品で一番高かった。1万5000円。1万円を超える鞄はスーツケースしか持っていなかったので、人生初の高級(当社比)カバンである。かなり気に入ったので、大事に使おうと心に決めた。
……つい、美波カノンの身につけているような薄い紫や水色、儚い雰囲気の色合いの服に目がいってしまう1日だった。だけど、それでもいい。今まで黒とかグレーとか、暗めで地味な色の服ばかり着ていた。足も隠していたし、平らな靴しか履いてこなかった。明日からは短いスカートを履いて、ヒールのある靴を履いて、小さい鞄で出かけるのだ。
ラッシュより前に帰ろうと空いた電車で座り、靴屋のお姉さんが他の荷物も合わせてくれて一つになった大きな紙袋を足元に置く。カバンの中の推しの缶バッジをつけたポーチを見つめ、スマホの透明なケースの中に入れた推しの立ち絵のカードを見つめる。
美波カノン。
この子が好きだ。誰が自分やこのキャラクターをどうしようと、好きなものはやっぱり好きなのだ。
だけど、もう彼女を人生の中心にはしない。これからは、憧れと身の丈も気まぐれに着替えて生きるのだ。なんだか、強くなった気分だ。メイクや服で自分のファッションを決め込むことを「精神的武装」と言う人がいる理由が分かった気がする。
我ながら立ち直り早いなぁと思いながら、帰り道、駅前の寿司屋の寿司を1パック買った。
明日は美術館のイベント展示に行って、明後日はバイトのあとにカフェに行って抹茶ラテを飲む。今週は一分一秒残さず全部自分のために使うと決めていた。
薬局によってシャンプーとリンスを新調し、閉店間際の園芸屋で薄紫のクレマチスの鉢と水受け皿を買い、優しい店主のおじいさんに栄養剤をオマケしてもらい、育てるコツを教えてもらって帰る。
鉢を玄関の端に置いて、脱いだ服を散らかさずに全部仕舞って、新しく買ったピンクの可愛い部屋着を開封して一度着てから洗濯機に入れる。買ったものを全部開封して、片付けながら明日以降の楽しみに胸を躍らせた。
鏡の前で踊るために買う服があったっていい。新しく買った薄紫色のワンピースを着て、風呂場の鏡の前で一周した。
ひとつ、学んだことがある。
ガチャ以外に使う諭吉は、絶対に裏切らない男だ。
もうすぐ代替わりしてしまう彼に最大の感謝を送りながら、風呂場に新しく買ったシャンプーとリンスを置いた。
これが終わってから書こうと思っていた別のシリーズにも手をつけ始めてしまったのでこちらは少しのんびり更新になります。