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恋人への依存も二次元の崇拝も、同じようなもの




「推しを好きでいるのがつらい?」

8年来の親友の声が、夕方の新宿の空気に溶けていく。

「……うん」

「何があったの?あんなに好きって言ってたじゃん。ゲームが炎上でもした?」

「ううん。何も起きてないよ。ただ本当に……私の考えすぎで」

「うん」

アヤミは静かにユリコの言葉を待っている。

「……なんかさ」

「うん」

「文明って全部人間が生み出してるじゃん」

「ん?うん」

「さっきアヤミが言ったけど……人間って結局2人で生きてるよねって」

「待って。わかんない。え、推しが公式で誰かとカップリングになったけど気に食わなかったとか?」

「ううん」

「もったいぶらないでちゃんと教えてよ。ユリコが真剣に悩んでることについて笑ったりしないから」

「現実の話」

「現実?」

どういう表現をしたらこの妄想の気持ち悪さが軽減するか悩みながら、ユリコは慎重に言葉を選ぶ。

「……推しの設定とか考えた人も、結婚してる」

「え?うん。まあ……大多数はそうだろうね」

「オタクってさ、言ってしまえば人の性癖に直接響くものでできてるじゃん」

「うん。そうだね」

「でも人の性癖ってさ、ずっと変わらないものもあるけど、変わるよね」

「んんん。待って、私馬鹿だからまだ話が見えてない」

ユリコはアヤミを見上げた。

アヤミがユリコの思考回路を理解できないのは至極当然のことだ。それに関して、彼女に問題は全くない。ユリコの思考があまりに愚かであるせいだ。

「私の頭がおかしいだけだから、分からなくて正解だよ」

「とりあえず結論を言ってよ。ユリ、いつもは結論からサクッと話すのに。こんな遠回しに話すなんて、言いたくないのに私が無理に言わせてるんじゃないかって心配になる」

「ごめん。言いたくないわけじゃなくて。自分があまりにイカれたことを考えてるから、少しでもマシに聞こえるような言葉を探してるの……」

話を聞くよと優しく手を広げてくれた友人相手に、ユリコは卑しくも取り繕うとしていた。

「遠慮しないでよ」

「……人の性癖って変わることもあるじゃん」

「うん。さっき言ったね」

「変わるときってさ、好きな人から影響受けたりするよね」

「あー、うん。そうだね」

「推しを生み出した人の持ってる性癖が、その人たちが幼少期から拗らせたものだけならいいんだけど」

「うん」

「恋人とか配偶者から影響されて大人になってから得た性癖で出来上がってたら……嫌だなって思っちゃって」

なるべくマイルドに、マイルドに。軽く聞こえそうな言葉を意図的に選ぶために脳内の引き出しを漁る。

「名画にも理想の女性とか妻の姿とか描いてる人たくさんいるけど、それがなんか嫌って感じ?」

「あれはもう亡くなった人たちの遺産だから違う」

「難しいな……。あ」

アヤミが閃いたようにバッとユリコの方を見た。


「生きてる人が現在進行形で配偶者から性癖歪められながら創作してる可能性を考えると生々しくて嫌、って感じ?」


その通りだ。

さすが友人。アヤミは偶に常軌を逸した言動や行動をするユリコのことを分かっているらしい。言い当てられて引き攣っていた喉が開き、うん、と気の抜けた返事をした。

「本当に合ってる?」

「合ってる」

「なるほどね。推しアイドルの嫌な感じのスキャンダルとかとはまた別だよね?」

「うん。現実の人間それぞれに生活があるのは分かってる」

そう。だからユリコは、三次元の純粋なオタクはやらないことに決めている。

「人のプライベートまで見たくなくて二次元にずっと逃げてたけど、二次元を生み出してる場所にも人間っているよなって。当然のことだけど、今まで忘れてたことを急に生々しく感じちゃった。それだけ」

ほんと、当たり前のことなのに、自分は何を言っているんだろう。アヤミもフォローに困るだろうなぁと他人事に考えながら、髪の毛の先を指に巻きつけて弄った。


「……ユリってちょっとそういうところあるもんね」

「え?」

「なんか妙に……プライベートを見るのも見られるのも嫌がる、っていうか」

「そう?」

ユリコは自分が変人である自覚が多少ある。少しばかり個性的なこだわりを抱えている人は一定数いると思うが、ユリコもその1人だ。家族よりも裸寄りの付き合いをしてきた親友はユリコ以上にユリコのことを知っているのかもしれない。

「まあ色々。そこ気にするのか、って思うことはあるよ。みんなそんなものだと思うけど」

「なるほど……?」

思いのほかすんなりと気色の悪い妄想を受け入れられてしまったせいでユリコの威勢は削がれていた。

「今言ってた推しに関しての悩みも、それと同じ感じかな。でも1回そういう考え方に辿り着いちゃうと、気にならなかった頃には戻れないよね」

「うん……」

ユリコのしょうもない悩みについてアヤミが真剣に考えてくれているのが伝わってきて、逆に居た堪れない。


「推しのこと、まだ好き?」


「うん」

間を開けずに、頷いた。

「そっか」

「美波カノン」のことはまだ好きだ。好きなのだ。彼女のことを考えるたびに地獄のような妄想が浮かび上がるとしても、それで苦しい思いをするとしても、尚好きなのだ。

「ユリ、よく言ってるよね。悩んでる時の原因が分かったらすんなり納得して悩みを消せるって」

「うん」

「今の悩みの原因、どこにあるか考えようよ。そんなにダメージを受けたってことは、自分でも気づいてないような、嫌な気持ちの原因がいくつかあるのかもしれないし」

ただの傷の舐め合いになることを想定していた愚痴に対して、アヤミが真摯に解決策を考えようとしてくれるだけで救いだった。

「この前の私さ、彼氏と別れるとき……落ち込んでたじゃん」

「うん」

「ユリが言ってくれたことが、その通りだったんだよね」

「ん?」

私、なんて言ったかな。

「今までの好きだった人とのやりとりの中で、私の無意識に刺さってる言葉があって、それが自分でも気づかないようなトラウマになってるんじゃないかって」

「……言ったかも」

ユリコはその場のノリで話すタイプで、基本的に自分が何を言ったか覚えていない。論理的に考えながら話すので条件が同じなら毎回同じ結論に至るのだが、考えればまた同じ結論が出ると分かっているので一度辿り着いた答えを脳が勝手に捨ててしまう。

なので基本的に自分の言ったことをすぐに忘れる。そして記憶力がいいアヤミに言質を取られて過去の発言との差異を政治家のように糾弾されたりすることもある。

「あれ言われたあと、考えてて……分かったんだよね」

「うん」

「『思ってたのと違った』って、高校の時好きだった人に言われたのが、ずっと心に残ってたんだと思うの」

「……そうなんだ」

「私、真面目でおとなしそうって思われることが多いみたいで。本当は怠惰だし、おとなしくもなくて負けず嫌いだから」

「あぁ……」

アヤミは肌が白くて、顔立ちや服の系統は簡素な雰囲気で、よほど仲のいい人相手でない限り聞き役に徹しがちだ。それに加えてメガネを掛けている日も多く、彼女を知らない人の第一印象が「おとなしくて真面目そうな子」であってもおかしくはない。

実際、アヤミはインドアな趣味もたくさん持っているのだが、バスケ歴15年の負けず嫌いな女の子でもある。

「あれ以来、ほかの恋愛をするときも挙動が固くなってたんだと思う。それに気づいたら、次に恋愛の機会に巡り会えた時はもう少し上手くやれるかもって思って、少し楽になったの」

「そうなんだ。それはよかった」

「うん。ユリコも、自分で気づいてないトラウマがあるのかもしれないよ」

「そうかも」

「人に言われた言葉を気にするなんてもったいないからさ」

「そうだね」

「好きに生きよう。その方がきっと楽しいよ」

「うん」


前向きな声をたくさん掛けてくれるアヤミに感謝しながらも、沈んだままの自分の心がまだ浮き上がれずにいることを他人事のように感じ始めていた。

彼女の慰めが的を得ているのかは、今のユリコには分からない。

どん底にいる気持ちは浮上の道を見つけてはいないけれど、自分の心に突き刺さったものの正体を掴めなくても、解決策が見つからなくても、もういい。こんなくだらないことを一緒に考えてくれる友人がいるだけで自分は恵まれている。

女友達って、解決に向かわない、共感を求めるものだ。一般に言われるように、きっとそうなのだ。友達が話を聞いてくれただけで充分なのかもしれない。

投げやりにそう自分を納得させようとしていたら、アヤミが口を開いた。


「ユリは偉いよ。だって、色んなことについてちゃんと考えて、大体自力で解決してる。私はすぐ些細なことで悩んじゃうけど、ユリがこんなふうに落ち込むのは滅多にないよね」

居酒屋の前を通り過ぎたら、スーツを着た大人たちの大きな笑い声が店内から聞こえてきた。

反射的に、悲観的に、ユリコは呟く。

「私、そんなに強くないよ」

傷つく前に逃げているから傷つく回数が少なく済んでいるだけで、現実に執着せずに済むように、意図的に二次元のものを愛でているだけだ。

「私、何か心の支えがないと生きていけない。ひとつでいいから、自分にはこれがあれば大丈夫って思うようなことがないと、強くなれないの」

多分、今のユリコに彼氏がいたら、推しに対する崇拝にヒビが入ったとしても大丈夫だったと思う。違うものへ傾いて逃げることができたから。

「……その心の支えが、推し?」

「今はそう」

「昔は違った?」

「子供の頃はお母さんだった。それから……友達とか、彼氏とかに移りそうになって、危ないなと思って、二次元に移した」

「移した?」

「生身の人間相手に全部捧げるのは良くないでしょ。二次元の方がいいかなって思って」

「ユリっていつも彼氏に対してサッパリしてるから意外。そっか、リアルで人に対して重くならないように、わざと二次元のキャラに依存してたのか」

「……だって、重たくしすぎると人に嫌がられるけど、キャラクターは嫌がったりしないから」

ユリコがオタクに、二次元に頼っているのは、それが「面白い」というだけでなく、どれほどのめり込んでもソロでやっているうちは「人に迷惑をかけない」というのも大きい。

「人って、何かに縋らないと……やっていけないときってあるもんね」

悟りを開いたかのような言葉を発するアヤミにそうだねと身の入っていない返事をした。


頼るものがないと心の平穏を保てない人はいるだろう。支えさえあればどれだけ辛くても頑張れる人はいるだろう。


……でも、自力で頑張れる人もいるはずだ。

強く見えるだけじゃなくて、本当に強い人になりたい。他人から見たらどうでもいいようなことで落ち込むような人間ではいたくない。

「……アヤちゃん」

「うん」

「私、オタクやめたい」

本心から辞めたいわけではなかったけれど、ユリコはそう宣言した。自分の外に慰めや癒しを求めることなく、自分ひとりで強く立っていられる人間になりたい。

推しが己の目指したい「強いひと」としての理想像の持ち主でもあることは些か心に刺さるけれど、強い気持ちをずっと持っていられるのなら、それもいつか思い出に変わるはずだ。

「……変わりたいんだね」

アヤミが静かな声で言った。

「うん」

自分以外のものに頼らないとどうにもならない自分の弱い心を、今はひたすら変えたいと思った。

「変えちゃおう。生きたいように生きよう。学校辞めるぐらい勇気があるんだから、ユリは強いよ」

駅が見えてきて、階段で地下に降りていく。いつの間にか姿を消していた太陽の代わりに、電灯が煌々と照っている。

階下に伸びる自分の影を見つめながら、階段を一歩ずつ踏みしめた。

「辞めた先で結局、楽な道に逃げたけどね」

自嘲気味に呟いても、アヤミはユリコのテンションに引っ張られることなく頷いた。

「うん。でも、就職だって二週間くらい前までなら辞退できるし。仕事は秋からでしょ?」

「うん」

「それまでにさ、やりたいこと探して、全部やっちゃおうよ」

……やりたいこと、か。

何だろう。

やりたいことなんて何も思い浮かばなかったけれど、ただひたすら、変わってやる、と強く心に思った。

強くなってやる。推しへの信仰に縋らなくてもいい人になってやる。

1人で強い人に、なってやる。


自分のために可愛くなって、自分のために楽しいことをして、自分のために働いて。

自分のために。

何もかもを自分に捧げるのが幸福に感じられるような人間に、なってやる。


投げやりに無鉄砲な宣言を脳内で繰り返しながら、地下を歩く。見えてきたカフェをアヤミが指した。

「カフェでも入る?」

時刻はまだ19時前。夜はまだまだ長い。どこで何をしようと自由なユリコと違ってアヤミは実家暮らしだが、新宿に少なくともあと数時間は居座るつもりのようだ。

「アヤちゃん」

ユリコが見上げると、アヤミは柱の横で立ち止まった。

「うん。どうする?私、ちょっとお腹空いてきた」

「今日、うちに泊まっていかない?」

「え。いいの?!」

「うん。もちろん。部屋めちゃくちゃ汚いけど」

「またゴミ貯めてるんでしょ。私が片付ける。家の人に連絡するからちょっと待って」

「部屋めちゃくちゃ汚いけどアヤちゃんの服は全部洗濯してあるよ」

アヤミの実家は新宿1時間半くらいかかる場所にあるので、ユリコが泊まっていいと言うとアヤミは喜んで家に泊まる。無計画に当日に宿泊を決めることがあまりに多いため、最近はアヤミの服が常に何着かユリコの家に置いてある。

「片付けるし、皿洗いでも洗濯でも掃除でも、なんでも手伝うよ。というか全部やるから」

「ビール買ってもいい?」

「いいけど、どれだけ駄々こねても3本で強制終了だからね。私はお菓子とケーキ食べたい」

「あそこのカフェのケーキテイクアウトして行く?」

「ユリも食べる?」

「……いらない」

「何も食べずにビールだけ飲んでやばいことなりそうなんだけど」

「うん」

「まあ……何があってもお供しますよ」

「うん。ありがと」


アヤミが食べたいと言ったお菓子とケーキを一通り買い揃え、ユリコが駄々をこねて缶ビールを3本とレモンサワーを1本買い(ユリコは缶ビール1本で何でも喋る酒の弱さだが今日はどうしても飲みたかった)、謎のテンションでコンビニのマニキュアを買ったりしてから電車に乗り、ユリコの家へ戻った。


胃に何も入っていなかったのもあってか、ユリコは相当に酔い、内緒にしておくつもりだったアヤミの誕生日プレゼントの候補を全部喋ったり、オタク友達で絵がめちゃくちゃ上手いレイカが描いてくれた「美波カノン」のイラストを入れた写真立てをクローゼットから出して見せたり、部屋を片付けてくれているアヤミに絡みついて内容も思い出せないしょうもない話でひたすら話しかけたりと様々な醜態を晒した。


……でも元気になったから、お酒ってすごいと思う。




長くなりましたがようやく病みパート終了です。男が出てくるまでもう少しかかります。

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