全部うまくいっている人なんていないから
目的のうどん屋に入り、ユリコもアヤミも、店おすすめの天ぷらのうどんを注文した。
アヤミは食べるのが早くて、ユリコは食べるのが遅い。何を食べるにしても、食事をするときは大体、ユリコが半分食べる頃にはアヤミは全部食べ終えている。
友人同士、別に食べる早さは気にしておらず、アヤミはのんびり話を振ってくるし、ユリコは会話の合間に食べ進める。
だが思っていた以上にうどんが喉を通らなくて、今日ばかりはユリコは食べるのが遅いことを謝罪した。
「ごめん、もう少し待ってね」
「気にしないで。いつものことだし」
アヤミはニコリと笑う。それから、箸が進まない様子のユリコを見て首を傾げた。
「ユリ、まだ8割ぐらい残ってるけど大丈夫?食べられる?」
「……今日、ご飯食べるの初めてなんだよね」
ボロボロになっている食生活を素直に白状するとアヤミが隣の席に配慮するように声を落として詰め寄ってきた。
「食べてなかったの!?」
「うん。丸一日ぐらい固形食べてなかったの。うどんならいけると思って来た」
「天ぷら辛くない?ていうか、なんで食べてないの?ちゃんと食べて」
「朝起きた時に野菜ジュースは飲んだよ」
「炭水化物!糖分!」
「飲むヨーグルト、昨日飲んだ」
久しぶりに固形物を食べる胃には天ぷらが結構重い。でも時間をかければ食べられる。それなりに店の回転率に貢献したいので長時間居座りたくはないが、流石にそこまで長引きはしないはずだ。ユリコは無理やり食べ進めた。
「飲むヨーグルトなら野菜ジュースよりまだマシだけど、絶対足りてないよ」
アヤミは食品系が専門で、管理栄養士の資格も持っている。医者の不養生とはよく言ったもので本人は変な食生活をしているのだが、一人暮らしで、食料を買う時に変な拘りがあったりするユリコの健康をいつも不安視していて、あれ食えこれ食えと世話を焼いてくる。
「野菜もタンパク質も大事だけど、糖質摂って。絶対。衰えちゃうよ」
「分かってるけど……」
「何かあったの?お金切り詰めてる?それとも買い物行ってない?」
「………」
どうしようかな、とユリコは考えた。
トントン拍子(結婚前に家と車を買って同棲するのをトントンと言うのか知らないが)で結婚への道を突き進む姉を見て真っ当に焦ったり悩んだりしているアヤミに、こんなくだらない悩みを相談していいものか。
「人に言わなくてもあと一週間ぐらいしたら立ち直れそうなんだよね」
適当にそう言うと、アヤミが「えぇ」と眉を下げた。
「知りたい。聞かせてよ」
「しょうもない病み話聞いても楽しくないでしょ」
「女友達なんてズブズブの闇に一緒に浸かるものでしょ!」
「……お店出たら話すよ。まだ早いからこの後も何かするよね?」
「うん。デパートとか見ながら、遅くなってきたらまたカフェでも入ろう」
「うん」
どうしようかな。適当に誤魔化すか、正直に全部話すか。
正直に全部話したところで現実は何も変わらないよな、と思うものの、もう全てを投げ出して隅々まで吐き出してしまいたい気持ちもある。
いつもはアヤミが落ち込んでいたら慰める側に徹するのだが、たまには、一緒に堕ちてドロドロになってしまっても、いいかも知れない。
そんなことしても何も得られないのは分かっているし普段なら絶対しないのだけれど、そう思ってしまうくらいには、ユリコの精神は萎れているみたいだった。
「全部うまくいってる人なんていないもん。話しちゃおうよ」
アヤミの言葉に、うん、と声だけで返す。
……全部うまくいってる人なんていない、か。
先ほど見かけた美男美女カップルも、推しを生み出したイラストレーターも。実はユリコには計り知れないほどの苦痛や悩みを経験していたりするのだろうか?
「そうだといいな」と思ってしまう自分の心の中には、最低最悪の嫌なやつが住み着こうとしているみたいだ。
他人に負の感情を向ける暇があったら楽しいことに時間を使ったほうがいい。普段ならそう思って気持ちを切り替えるユリコだが、今は嵌った深みから抜け出せなかった。
20分かかってうどんを完食したのち、お会計を済ませて店を出た。新宿駅の方まで歩こうか、と言われて頷く。
「それで、ユリの話、聞きたいなぁ」
アヤミが二の腕をつついてくる。
「どうしようかな……」
「待って。二の腕細くない?私の片手で一周するんだけど」
「え。アヤちゃんの手が大きいんだよ」
ユリコの二の腕を掴んだアヤミの親指と中指の作る輪っかが完全に閉じている。ユリコが自分の二の腕を掴んでも0.7周しているかいないか程度しか届かず、絶対に一周には到達しないので、アヤミの手が大きいだけだと思う。
「なんで二の腕こんなに細いのに胸あるの?私の二の腕あげるから胸ちょうだい」
「昔太ってたときから痩せたら何故か胸だけ残ったの。あと習い事辞めたら二の腕の筋肉が消えた。アヤちゃんは知ってるでしょ」
「高校の時の話?」
「うん」
「高校のときも細かったよ。ユリ」
「でも、今より6kgぐらい体重多かったよ」
「そんなに違うの?今が痩せすぎなんじゃない?」
「それは絶対ない。見た感じ普通でしょ?」
「えー、そうかなぁ」
「………」
ユリコはどうやって話題を変えようか考えを巡らせた。
親友相手でも、体型の話を人とするのは苦手だ。コンプレックスは人によって違うし、人が努力せずに持っているものが自分は努力しても手に入れられなかったりするし。自分自身の嫌なところも「個性」として大らかに受け入れられている人同士でない限り、この不毛な話題は絶妙に互いを傷つけるだけだ。
ユリコは太ももの付け根が太かったり胸板が薄くて鎖骨の下に肋骨が浮いていたり手足が小さいのがコンプレックスだが、人には「膝下細いから羨ましい」「胸板薄くても胸あるからいいじゃん」「手足小さい方が可愛いよ」などと言われる。
うわべだけのお世辞で傷を舐め合っているのか、お互い傷に塩を塗りこんでいるのか判断がつかないようなセンシティブな慰め合いは避けたくなってしまう。
ユリコは自分の二の腕の太さについて考えたことがなかった。骨が細いので手首や指など一部分は明らかに華奢に見える自覚があったが、他の部分は細いとも太いとも思っていない。そもそも細いだけがいいことだとは思わない。
そんな風に考えているなかで、頓着していない部位に関して他人からの羨望を受けてしまうことほど気まずいものはない。
「うーん。ユリ、いつも緩めの服で腕も足も全部隠すから印象薄いけど。でも細いよね?前に温泉行った時びっくりした」
「……あんまり自分では気にならない、って感じ。太ももの付け根とか太いし」
自分では気にならない。体型に関して一般的で客観的な判断をさせまいと、自分の主観を押し出した。が、話題に消極的な姿勢を見せても、8年来の友人にはユリコの思惑は通用しない。稚拙な自己防衛は見透かされてすらいるのだろう。
「太ももの下は細いでしょ?細いところ出せば細く見えるからいいじゃん」
「……そうかも。賢いね」
曖昧に返すユリコに、アヤミがふふふと笑った。
彼女自身はユリコとはまた違う体の部位に関してさまざまなコンプレックスを抱えていて、いつも肩幅やら胸の小ささやらを嘆いているのだが、それをカバーする服を選んだり自分に合うものを考えたりするのが上手だ。今日はスクエアネックの桜色の薄いセーターに黒いタイトめなスカートを履いていて、長くて綺麗な首が強調されているし、本人がいつも気にしている下半身の重たさはよく隠されている。と思う。
「自分がより可愛く見える方法を探すのって、けっこう楽しいよ」
アヤミは明るい口調で言った。普段はどちらかというとネガティブ寄りな思考が多いアヤミにこんな前向きなことを言われるとは思っていなかったので、ユリコは目を瞬いた。
……ユリコを元気づけるためだけにそう言っているのだろうか。だとしたらこの友人は人が出来すぎている。
「そうなんだ……」
自分のルックスが客観的に見てどうかは置いておいて、ユリコは自分の顔が好きじゃない。いいなと思う服を着ても、鏡の自分を見ると違和感しか感じなくて手が出せなかったり、憧れるような化粧品も使いこなせなくて顔が変になったり、そういう経験ばかりのお芋寄りのユリコでも、アヤミのようになれるのだろうか。
……っていうか、なんでこんな話になったんだっけ……。
話題ってすぐ飛ぶよなぁとぼんやり思っていたら、ぽんぽんと頭を撫でられた。
「計算高く生きちゃおうよ。自分の魅せ方を研究してさ。ユリはもともと可愛いんだから、なりたいようになれるよ」
「………」
アヤミが明るく話せば話すほど、ユリコの心の中で燻っていた汚泥のような感情が沼の底まで引きずり降ろそうとしてくるようだった。
「可愛くしてもさ……」
ユリコはつい、そう呟いた。
可愛くして何になるの?
投げやりにそう頭の中で叫ぶ。
前までは少しばかり身だしなみに気を遣っていた。
推しがかわいいから。推しがふわふわした可愛い服を着て、身だしなみに気を遣っているから。
ユリコは俯いた。
それなりに可愛くなりたいと思うし、それなりに自分のことを好きになりたいと思っている。だけどそれらの感情に「美波カノン」が密接に関わりすぎていて、今のユリコがどう足掻いても、向上心や前向きな気持ちに負の感情が絡みついてくるのだ。
「……悩んでるのはそういう系?今好きな人いたっけ?誰かに嫌なこと言われた?」
見かねたアヤミは察したのか、ユリに暴言を吐くような輩は私がぶっ飛ばしてやると拳をつくった。
「ううん。そういうのじゃない」
「あ、そうなの?とりあえず話してみてよ」
「多分、アヤちゃんが考えてるよりすごくすごくしょうもないんだけど、それでもいい?」
「いいに決まってる。私たち、友達8年目だよ?」
女同士の傷の舐め合いが今、始まる。
ユリコは恥を晒す覚悟を決めて、狭い空を見上げて口を開いた。
「私、オタクでしょ」
「うん。そうだね」
「すごく好きなキャラがいるでしょ」
「うん。あのゲームのお花の妖精ね」
「……私、大好きな推しのことを好きでいるのが……辛くなってるの」
言葉にしたらこんなに簡単だったのか、と思うほど、シンプルな言葉が口から転がり出た。
つい書くのが楽しくてうだうだ続けてしまいましたが病みパートはようやく次で終わります。