友達の姉は結婚する前に家と車を買ったらしい…
2023年、3月1日。
1人のオタクが発狂した。
もともと胸を盛られた華奢なキャラやゴリラのように描かれる細マッチョキャラのファンアートなどを見て日常的に発狂するオタクではあったが、推しが亡くなったわけでも引退するわけでもないのに、妄想癖が暴走しただけで、立ち直れないほどの大ダメージを心に負った。
2023年、3月8日。
ユリコは1週間寝込んでいた。
寝込んでいたというより、家で倒れていたというのが正しい。病気ではないし、バイトにはちゃんと出ている。けれどそれ以外は、どこにも行かず、ほとんど何も食べず、どんどん荒廃を増していく部屋の床に倒れていた。
家に体重計がないのでわからないが1週間でめちゃくちゃ痩せたと思う。母親の癌が発覚したときと同じぐらい、いまの自分は元気がない。多分。
この1週間の間、シャワーだけは浴びていたが、服は可愛くも何ともない楽なだけの適当な服を着ていたし、化粧をするどころか日焼け止めも塗っていない。大好きなゲームでさえ、最低限のログインしかしていなかった。
親友に相談しようかと思ったが、何で落ち込んでいるか説明するのが恥ずかしくて何も言えなかった(自分が大ダメージを受けた原因となる妄想がしょうもない幻想であることは頭では理解しているのだ)。立ち直る方法も思い浮かばないまま、無気力に無意味に一週間を過ごしてしまった。
このままではいけない、と思いながらも、何をしても楽しくないので気を紛らわせることすらできない。今までの生活に推しが浸透しすぎているせいで、何を考えても何を見ても、推しの姿がちらついてしまう。
そして最終的に、あの日得てしまった最低な空想に辿り着く。
「人生の支えにしてきた推しが、イラストレーターの配偶者への劣情をもとにデザインされていたらどうしよう」
オタク以外の趣味っぽかったものに目を向けても、悪夢からは逃れられない。化粧に興味を持ったのも推しの使いそうな化粧品が何かを妄想し始めたのが発端だし、一人暮らしにしては沢山持っている本だって、推しのモチーフになったクレマチスの花に関するものばかり。フライパンを見ても推しの好きな料理を練習した記憶が蘇り、玄関のスニーカーを見れば推しみたいにスタイル抜群になれないかなと甘い夢を見てランニング用に購入したことを思い出す。
何を見ても軽い吐き気がしてくるような精神状態で、心を殺して最低限の愛想笑いを振り撒きながらバイトに行くので精一杯だった。
スマホが震えて、画面に目をやる。
メッセージアプリからの通知が見えた。
『ユリ!明日、思ってたより早く終わりそうだから、16時に新宿でもいい?』
高校以来の親友……アヤミからのメッセージだ。
『うん。分かった』
そう返信して、服の散らかったベッドに倒れ込む。
明日は前々から彼女と新宿で夕飯を食べる約束をしていたのだ。あまりに自分が落ち込んでいるので気が乗らなかったが、孤独で寂しい気持ちもある。行こうと思っているお店はうどんの店なのでなんとか胃に入る気がするし、なんと言っても相手は気心の知れた友達8年目のアヤミ。どこまで重い話ができるかは向こうの精神状態によるけれど、出たとこ勝負でどうにかしよう。
平気なフリをするのは得意だ。親友相手でも、悩みがバレないように明るく振る舞うことは何度かやってきた。
『新宿駅で待ち合わせよう。迷子にならないように、自分のいる場所がわからなくなったら動かないで、私に連絡してね』
『わかった。ありがとうユリ』
アヤミは普段、新宿駅を利用していない。しかも新宿に行くのは3回目らしく、そのうえ方向音痴なので、すこし心配だ。ユリコも新宿のプロを自称できるほど詳しくはない。新宿にはよく行くのだが、新宿のプロであるもう1人の親友、レイカに着いていっているだけなので、記憶に頼っていいものか怪しい。
……まあ、何とかなるか。
その楽観思考が今の自分にまだ存在していたことに驚きながらシャワーに入って、1週間ぶりにちゃんとヘアトリートメントを使った。
2023年、3月9日。
久しぶりにただの黒いトレーナーとズボンではなくワンピースに袖を通した。生地はグレーなのだが、赤の花柄で、袖や首元がフリフリしていてユリコの好みより華やかすぎるのだが、友人や家族からは「それ似合うよ」と好評なので服に困ったときはこの一張羅のワンピースを着ている。
正直花柄を見るだけで推しのクレマチスの妖精「美波カノン」を思い出してしまって嫌なのだが、腐ってもユリコはすこし前まで週7で研究漬けだった理系学生である。
かわいい服など数着しか持っていない。
ましてや春のこの時期は一番着る服がない季節だ。このワンピースを着てアヤミと30回ぐらい会っている気がするが、それも仕方のないことである。
電車を一度乗り換えて、地下鉄で新宿駅に出る。時刻は15時40分。アヤミを改札前に迎えに行くつもりで、すこし早めに来た。違う路線を使っているアヤミに会いやすそうな場所まで移動して、人の邪魔にならなさそうなところでスマホのメッセージをチェックしながら待つ。
16時3分。ユリコの想定と違う改札を出て迷子になりかけていたアヤミを拾い上げて、駅を出て歩き始めた。
他愛もない話をしながら、いろんな人とすれ違って歩いていく。アヤミが辺りを見回しながら呟いた。
「新宿とか渋谷ってさ、案外、海外からの観光客多いよね」
「ね。爆買い目的じゃなさそうな人も多いよね。スクランブル交差点とか大人気だし」
「ここにいる人たちは新宿御苑の方から歩いてきたのかなぁ」
「あー。そんな気がしてきた」
本当に海外からの観光客が多い。信号待ちで立ち止まり、2人してキョロキョロと観光客の数を数えた。
「ねえユリ、あそこのカップルすごい美男美女だ」
アヤミに囁かれて示された方向を見ると、確かに見目麗しいカップルがいた。観光客のようだ。ウェーブした長い茶髪を風に靡かせてニコニコしている美女と、「ハンサム」という形容がピッタリな感じの美男。
「本当だ。あのお姉さん、すごく素敵」
「ね。楽しそうだし、かわいいカップルだ」
「同じ方向行かないかなぁ」
「あー……曲がっちゃう」
手を繋いで楽しそうな眼福カップルが去っていくのを見送る。日本旅行だろうか。楽しんでくれるといいな、とぼんやり考えていたら、少し上(アヤミは身長が165cmあって、ユリコより10cm近く背が高い)からぽつんと、言葉がこぼれてくるのが聞こえた。
「人って結局、みんな2人で生きてるよね……」
遠い目をした表情でそう言われて、ユリコは一瞬、心臓を掴まれたような気になった。
「急にどうしたの。深夜テンションにはまだ早いよ……」
思いのほかアヤミの言葉が自分の心にも突き刺さった気がする。自分のこともアヤミのことも誤魔化すつもりで、ユリコは弱々しく返事をした。
「だってこの世界の真理じゃん。お店着いてから話そうと思ってたんだけどさ、聞いてよ」
「うん。何」
アヤミもちょっと病んでる系の精神状態みたいだ、と分析して、とりあえず聞き役と慰め役に徹しようと構える。現実から逃げてオタクのしょうもない戯言ばかり言うユリコと違ってアヤミは本当に人間関係や将来のことで悩んでいるので、心に傷を負っているときはしっかりした慰めが必要だ。
「小さいほうのお姉ちゃんが彼氏さんと家買ったの」
「え!?」
アヤミには4歳上の医者の姉、1歳上の看護師の姉がいる。小さいほうのお姉ちゃんというのは、一個上の看護師のお姉さんのことだ。看護学校に通っていて、学生時代に付き合った彼氏さんとずっと続いている、看護師カップルだ。
「あのちょっと危なそうな彼氏さんと!?早まらないほうがいいって」
ユリコは思わずそう言ってしまった。アヤミのお姉さんの彼氏は話を聞く限り悪い人では全くないのだが、学生の頃から周囲に「結婚するならああいう子がいいと思っていた」「理想の妻になってくれそうな人だ」と言っていたことがあるらしく、ユリコは勝手に「彼女を理想の女に仕立てようとコントロールしたいのでは?」「つまりモラハラ男とかそういうのに変身するのでは?」と、お得意の妄想を拗らせて、会ったこともないアヤミのお姉さんとその彼氏を心配していた。
「いや、危なくは……いい人だけどね。お姉ちゃんも結構悩んでたけど、決めたみたい」
「それは分かってるけど……24だよね!?色々早くない!?」
「なんか、彼氏さんのおばあちゃんが亡くなって、家と土地を相続?したい人がいなかった?みたいな感じで。彼氏さんはそれを手放したくなくて、本当はすごく高い土地だけどお孫さんなら割引しますよって言われて、無理やり買った……みたいな。よく分からないんだけどなんかそんな感じ」
「お姉さんそれでいいの?」
「話し合いはしてたよ」
「籍入れるって決めてあったの?もう入れるの?」
「入れてないよ。まだ予定も立ってない。でも、車も買ったの」
「車!?」
結婚してない状態で家と、車!?
自分の想像できない生き方だ。ここ最近で一番ビビった。
「え、彼氏さんボンボンじゃないよね?まさかローン組んだの!?」
「うん。看護師とか公務員とかってローン組みやすいんだって」
そうじゃないよ!とユリコは新宿の大通りで盛大にツッコミを入れた。
「外堀完全に埋められてるじゃん!」
ユリコは、結婚は人生の墓場だと思っている。これは退学前に所属していた研究室の教授の受け売りだ。現在彼氏のいない23歳が何を言うのかと思われるだろうが、男社会の理系の現場でそれなりに男性諸君のボヤキを聞いてきた上での結論なのであながち間違いではないと思う。
研究室のおじさん先生から若めの准教授と助教、博士課程の先輩。修士の同期に、学部の後輩。ユリコが在籍していた研究室は、女はユリコだけで、あとの15人は全員男だったのである。
「早まらないほうがいいって。絶対。もう遅いと思うけど」
「私もちょっと心配ではあるんだけどね。でもお姉ちゃんなりの結論出たっぽいし、口は挟まないけど」
「にしても、早くない?!」
「大学院生からしたら、ね。お姉ちゃんは看護学校だったし、もう社会人だし」
「そっかぁ……」
「私、結婚を考えるどころか、長続きした彼氏すらいないのに」
「アヤちゃんは仕方ないよ……」
沈んだ声を出すアヤミのくりくりした目を見上げる。彼女は鼻が高くて大人っぽい顔立ちで背も高いのだが、瞳はやけにあどけなく、黒目がちにくりっとしていてかわいい。
……アヤミも色々、どうしようもないことで悩んでいるみたいだ。
アヤミは浪人しているので、ユリコと同い年だけど今は学部の4年生だ。修士に進学するので来月から大学院生である。そして先月、マッチングアプリで付き合った彼氏と別れて(アヤミはマッチングアプリで3人ほど彼氏ができたが、全員、3ヶ月で終わっている)以来、彼氏が欲しくてもこんなふうに血眼になって探すのはもう嫌と嘆いてマッチングアプリを止めている。
しかも、共学とは名ばかりの男だらけの大学で過ごしてきたユリコと違ってアヤミは女子大に通っているので、あと2年はマッチングアプリなどを使わないと碌な出会いがない。アヤミに出会いがないのは仕方ないことだが、一個上の姉がサクッと社会人になってサクッと結婚しようとしているのを見ると焦るのだろう。
……4つ上の医者の姉のほうはまだ結婚していないはずだけど、そういう問題ではないんだろうな……。
と、思っていたら。
「大きいお姉ちゃんのほうも最近また彼氏できてさ、惚気てくるから嫌なんだよね」
「あぁ……心中お察しします」
想像するだけでもう、可哀想だ。
目的の店に到着したので一度話を止め、16時30分というあまりにも早い時刻に、夕食のうどんを求めて店に入った。