考えすぎて世界の裏側にあるものを見てしまう人は発狂します
深夜2時をまわっても、配信は続いていた。ジャス眠太郎さんとコウタロウさんは高校の頃に絵を描いていたツールや放課後の時間の使い方等、昔の話に花を咲かせている。ユリコが絵描きについて詳しくないだけなのか世代が違うからなのかよく知らない単語も飛び交っているが、昔を懐かしがる2人のイラストレーターは楽しそうだ。
作業中に聞く音楽から食べるお菓子の話になり、最近見かけない駄菓子から子供の頃好きだった食べ物の話へ、話題がどんどん飛んでいく。ジャス眠太郎さんは「話題が尽きるか眠くなったら配信終了しよう」と言っていたが、神イラストレーター達の会話はまだまだ尽きないだろう。
明日はバイトがないので寝坊しても平気だ。『私はそろそろ寝る』とレイカから送られてきたメッセージに『おやすみ』と返しながら、この配信の最後までお供しようと決め、片付けと掃除の手を進めた。部屋は全然掃除が終わったとはいえない景観をしているが、ユリコ的には床に散らばっていたものが少なくなってきたと手応えを感じている。カーペットにコロコロをかけて、スマホを持って綺麗にしたカーペットに仰向けになる。
『華奢で儚げな雰囲気あるけど足がけっこうムチムチでかわいい?コウタロウさんの絵か……たしかに。おしりムチっとしてるね。かわいい』
話題転換の合間に、ジャス眠太郎さんがコメントを拾っている。ユリコはじっくり画面の中の女の子を見つめた。
たしかに、コウタロウさんの絵は華奢な女の子が多いイメージだが、よく見ると腰回りがけっこうしっかりしている。
『コウタロウさん、昔よりお尻大きめに描くようになった?って聞かれてるよ』
顔は映っていないのにニヤニヤしているのが伝わるような口調で、ジャス眠太郎さんがコウタロウさんに話を投げる。
『あはは……最近は結構いいなって思い始めて』
『コウタロウさんでも豊満の誘惑には勝てない?』
『俺でも、って。どう思われてるの、俺』
『コウタロウさんって、なんか……こう、清くて澄んだ感じの絵が多いからさ。たまに下心が見えると人間だなって思って安心するんだよね』
配信中の男たちは深夜のテンションが混じり始めたのか、人間の浅いところにある欲望の混じった話題もチラホラと浮かぶようになってきた。
『フリーランスになってからは絵柄だけじゃなくてコウタロウさんの“癖”もちょっと出始めたよね。5年くらい前からだっけ』
すごくどうでもいいけど、ジャス眠太郎さんの声、3才年下の従兄弟に似てるように思えてきた。
『フリーランスになったのは6年前かな。好きなものを描かせてもらう機会も増えたし、確かにそうかも』
6年前か。
6年前の今日はまだギリギリ高校生だったな……。
両親が機械に疎くて、実家にWi-Fi等はなかった。パソコンも動作が重たくて長時間使うことは少なかったのもあり、高校以前のユリコはネットサーフィンなどが容易にはできなかった。それに、高校時代は真面目だったのでそれなりに勉強に時間を割いていた。
家庭用ゲーム機はあったがスマホのゲームはやっていなかったし、SNSもやっていなかった。コウタロウさんやジャス眠太郎さんのことを全く知らなかったどころか、家のゲームを少しやるだけでオタクではなかったと言っても過言ではない。高校まであまり遊ばなかった反動もあってか、大学に入学するときは、一人暮らしでゲームやスマホで遊ぶぞ!と意気込んでいたのが懐かしい。
大学に入ってからは色々あった。同じゲームを好きと言っていた同クラの人に話しかけたら色んなオタク沼に引き摺り込まれたり、サークルの人間関係に揉まれたり、彼氏ができたり別れたり、3次元の推しが炎上したり、高校以来の親友がBL好きだと発覚したり。
そこから大学院に入って、怪我して……。
………。
自分の人生を振り返ったら悲しくなってきて、現実逃避しようと作りつけのクローゼットの中にしまってコウタロウさんのイラスト本を手に取った。
コウタロウさんのイラストが載っている本は3冊持っている。
一冊は同人イベントで頒布されていた、版権キャラクターを色々描いている本。これは最推しである美波カレンの絵が載っているので、墓まで持って行くと決めているバイブルだ。
もう一冊は、他のイラストレーター何人かと合同で展示会をしたときの目録的な本。展示もされていたコウタロウさんのイラストが数枚収録されている。
そして最後の一冊が一番新しく、2年前の個展で買ったもの。コウタロウさんのオリジナルイラスト作品集だ。また本出してくれないかな、と思いながら、2年前のイラストを眺める。
そして、ほんとだぁ、と呟いた。
4年前、大学に入学したときにちょうどリリースされていたスマホゲーム『フラワーフェアリー伝説』で美波カノンに出会い、それまでは「有名イラストレーターの1人で、たまにアニメのファンアートとかを描いている、絵柄が好みな人」だったコウタロウさんが「推しをデザインした神で、過去のイラスト作品も把握しておきたい人」に変わった。それ以前のコウタロウさんのイラストも含めてその時期に一気見したせいか、コウタロウさんのイラストは「全体的に細身で華奢、淡い色合いの髪や瞳の女の子を描く」というイメージが形成されていた。のだが、2年前のイラスト本をよく見ると、新しい作品になるにつれて女の子の腰まわりがしっかりして、隠れている太ももが太く描かれている傾向が強くなっている気がする。「コウタロウさんの描く女の子は華奢」というイメージが強すぎて全然気づかなかった。
己の観察眼を恥じながら、ふと気になって美波カノンの立ち絵を見る。ゲームのホーム画面では上半身しか映っていないので、実はカノンの下半身は毎日目にするようなものではない。
「……意外とあるなぁ」
腰の上に金具がついた制服や立ち絵の姿勢のせいかなんとなく細いところが強調されているが、現実的に考えたら、胸の小ささの割にお尻は結構あるような気がしてきた。
別にそれだけでこのキャラクターに対する感情が変わったりすることはないのだが、コウタロウ氏はお尻好きだったのか……とどうでもいい考えが湧いてくる。
『コウタロウさんが今まで一番怖かったゲームって何?』
『えー……何だろう。なんか全体的に、ホラーだって分かっててやるよりも、怖いと思わずにやってたゲームで急にホラー展開始まる方が心の準備ができなくてビックリするかも』
『ああ、分かる気がする。子供向けゲームだったりしてもさ、一個ぐらい不穏で怖い雰囲気の街とかあったりするよね』
『うん。ああいうの心の準備ができてないと足止まっちゃう』
『気持ち悪いドラゴンは真正面から戦えるのに?』
『気持ち悪いのと怖いのは違くない?』
『あー、そっか、そうだね。……コウタロウさん、コメントで怖がりでかわいいって言われてるよ』
『怖いんだから仕方ないじゃん……怖がりだとかわいいって何』
『コウタロウさんもホラー怖がってるキャラとか見たらちょっとキュンってするよね?』
『それはそうだけどさ……』
配信の会話をぼんやり聞き流す。
ふと、気になってきた。
コウタロウさんがお尻好きになったの、何でなんだろう。
魅惑的に人を惹きつける漫画のキャラクターに惚れたとか?
ゲームで色気のあるキャラクターにでも巡り逢ったとか?
モデルさんか芸能人を見ていて良さに目覚めたとか?
……それとも。
嫌な考えが頭をよぎって、ユリコは息を止めた。
それ以上考えたらだめ。自分の脳内に制止をかけようとしたが、そう思えば思うほど止まらなくなる。
……。
………奥さんのお尻がグラマーで、魅力的、とか。
水に浸した紙に文字が浮かび上がるように、その考えが脳内に広がった。
ああ、辿り着いてしまった。体から血の気が抜けていくような感触がする。さあっと指先の温度が引いて、動けなくなった。
こうなるともう、妄想の暴走は止まらない。
たとえば、奥さんについて魅力に思っているところが欲望や性癖としてイラストに反映されているとして。
………じゃあ、私の最推しは。
美波カノンは。
どんな欲望が投影されているのだろう。
ユリコの悪い癖だ。考え事をしているとどんどん妄想が飛躍していって、何もされていないのに勝手に孤独を感じたりダメージを受けたりしてしまう。考えれば考えるほど深みに嵌って、抜け出せなくなっていくのだ。
ユリコは「何に気が滅入っているのか」さえ分かれば対処法も自ずと思いつくタチで、わりと自分で精神を保つことができるタイプだ。傷つきはするのでメンタルが強いと言えるかは分からないが、自分の思考回路をきちんと分析すれば、数日はかかるものの自力で復活できる。凹んでも、大抵の場合は1人で立ち直って強くいられるのがユリコの数少ない人に誇れる強みであった。
だが、それも今回は例外かもしれない。
信仰であり人生の支えである最推しへの感情が揺らぐことは、生きるための精神の土台が崩壊するのと同じだ。好きであればあるほど、その気持ちが別のものに変換されるときのダメージは巨大になる。
「……嫌だ……」
本人が、そう言っていたわけでもないのに。
これは完全にユリコの一人相撲、考えすぎて自分の首を自分で締めているだけ。
性癖が変わったといって、それが配偶者の身体的特徴から影響を受けているとは限らない。現実と空想をカッチリ分けている人だっている。
それにイラストレーターのような職は性癖が滲んでいることを生かせばより仕事が舞い込む可能性だってあるはずだし、己の性癖を仄かに香らせたほうが有利に働くだろう。基本、好きなことを仕事にしている方々なのだから。彼らにとって性癖は商売道具たり得るツールだ。
というかそもそも人間なんだし、ゲームとか、漫画のキャラクターとかって、そういうものじゃないか。
残っている理性で現実を俯瞰して眺めようとしても、パンクした思考回路は正常には戻らない。焦燥感に駆られた脅迫じみた思考回路は、わずかに残った冷静さを嘲笑するように滑り落ちて、暗闇に落ちていく。
知ってしまったものを知る前の状態に戻すことはできない。
何に於いてもそうだ。辿り着いてしまった結論がどうしようもないほどに現実であった場合、どう足掻いても反証することはできないのだ。
……推しを通してイラストレーターの妻が見えるような気がしてしてくる、なんて。
そんなの嫌だ。こんな考え、大好きなキャラクターや設定の練り込みをした製作陣に失礼だし。イラストレーターやその家族にも失礼だし。
こんなふうに考えてしまう自分が嫌だ。
だけど。人生の支えと思って愛でていたキャラクターでも、知らない男が知らない女に向けた愛の面影が透けて見えたら、もう今までのようには愛せない。
思考の悪循環は止まらない。もうぐちゃぐちゃだ。
ユリコはカーペットに倒れ込んだ。