田中百合子はオタクです
自己紹介パートです。
西暦2023年、3月1日。
小さな島国である日本の首都、東京都。時刻は18時過ぎ。ユリコは人の波に揉まれながら電車を降りてホームに降り立った。改札を通り、エコバッグを取り出しながら、駅前のスーパーに吸い込まれるように入っていく。
ミルクココアの粉、キムチ鍋の素、売れ残って割引になっている国産豚肉2パック、チョコレート、木綿豆腐、四分の一サイズの白菜、卵、バナナ、ヨーグルト、牛乳……。何日分なのか、いつ何を食べるのかなんて深く考えずに食材や日用品を色々適当にカゴに入れて、長蛇の列に並んでお会計する。
2769円。
思ったより高くなってしまった。いつもは2000円ギリギリ届かないぐらいの範囲で食材の買い物を済ませているのだが。ココアを買ったりしたからだろうか。……でも、週に一回とか、この曜日とか、決めて買い物しているわけではなく、寄りたい(もしくは、寄らないと家に食べるものがない)時にスーパーで買い物をしているので、平均して週の食費を計算するといくらになるのかは把握していない。お金持ちでもないし、ちゃんとお金を管理すべきなのに、いつもこんなことばかりしてしまう。
窓沿いのサッカー台で買ったものをエコバッグに詰めて、顔を上げる。ガラスに映った自分の顔を見て、内心ため息をついた。
自分の顔は別に好きじゃない。スタイルも。
田中百合子。2000年2月17日生まれ。23歳。女。
身長156cm、体重47kg。お尻と太腿の付け根のお肉は気になるが、そこさえ隠せばそこそこイイ体型に見える(はず)。だがユリコは胸が小さい女の子が好きなのでFとGを行き来する自分の胸がもっと縮んで欲しいと常々思っている。
白い肌、黒髪ストレートのボブに、大きめで丸っこいタレ目。俗に「たぬき顔」と言われる顔だが、奥二重で隈が濃いのと不器用なせいで化粧が映えない。「今は自分のポテンシャルを活かすことができていないだけ。本当なら私はもう少し可愛くなれる……クマを消して涙袋さえ作れたら」と、必死に眉毛の左右の形を整え、目の下にある中途半端な薄さのホクロをコンシーラーで消し、まつ毛だけ上げてアイメイクを諦め、死んだ顔色をチークと口紅で蘇らせながら毎朝自分の顔に向かってボヤくのが習慣(涙袋をメイクで作る練習はしていない)。
エコバッグを肩に掛けてスーパーを出て、横断歩道を歩く。ベッドタウンなのもあって、周りはスーツの人間が多い。自分が私服OKなところで働いてる社会人に見えてるといいな、となけなしの虚栄心を胸に抱え、今日も自己嫌悪に押し潰されそうになりながら家へと歩いていた。
ユリコはまだ働いていない。
いや、働いてはいるのだが、正社員じゃない。
……志高く進学した大学院での生活で大怪我を負い、研究を続けられる気がしなくなって休学、なんとか職を探し、大学院を中退して、娘に甘い親に「働くまでは家賃を出してあげる」と言われ就職までの期間も都内の一人暮らしを許された状態で、税理士の事務所手伝いとカフェの店員を掛け持ちしてフリーターのように過ごしている。
今決まっている就職先での仕事は9月からだ。修士1年目で大学院卒業を諦め始めた頃にはもう4月採用の職の募集はほとんどなく、なんとか秋から働けるところに滑り込んだ。仕事が始まるまではまだ半年ある。始めたら、もう少しはプライドのある女になれるだろうか。自信もなく、これといった特技も好きなことも勉強への強いやる気もない。人生のほとんどをなぁなぁで生きてきたせいで、自分はひどく中途半端な人間である気がする。
足音が響きやすい階段を忍び足で登り、アパートの2階に着いてドアの鍵を開ける。角部屋だが、隣の一軒家と隣接距離が近すぎて、カーテンを開けると知らない子供の部屋が見えるし、朝は誰かの目覚ましアラームが30分ぐらい鳴り響いている。
部屋の中に入って見回せば、女子が1人で暮らしていると分からないように常に締め切っている可愛げのないグレーのカーテン、ガムテープで塞いだ郵便受け、劣化して黄色いエアコン。そこまで自分の好みに沿っているわけではないが住めば都、ユリコは狭いワンルームもそれなりに気に入っていた。
片付けもゴミ捨ても洗濯もサボりまくりなのでとても散らかってるのだが。
洗ってある鍋がない!キムチ鍋にしたかったけど、今から洗い物は面倒だな……。
脱いだ服をベッドの上に放り出してTシャツとホットパンツに着替え、買ってきた冷蔵品を冷蔵庫に仕舞い、青いバナナを一本剥く。酸っぱくて硬かった。
スマホを鞄から出してスマホスタンドに置き、カーペットに足を伸ばして座り、いつもやっているソシャゲ『フラワーフェアリーズ伝説』にログインした。
「はぁ……カノンちゃん、今日もかわいいなぁ」
ゲームのホーム画面でこちらをじっと見つめてくるのは、白い肌に猫みたいなつり目、リボンのついたハーフツインのお団子がチャームポイントで、くるくるの金髪を靡かせている美少女だ。ワンピース型の紺色の制服に身を包んだ少女が、ゆっくり瞬きをする。
『おかえり、司令官』
ツンと大人びた雰囲気の表情をする女の子から、幼めで可愛らしい声が聞こえてくる。
「んふ……」
かわいー!!!
毎日、毎度、このゲームにログインするたびに眺めて声を聞いているキャラだが、何度でも床に身を投げ出して新鮮な雄叫びを上げたくなるレベルで好きだ。
ユリコは自分がキモオタである自覚がある。だが、今は部屋に1人なのでどんなに自分がキモくても問題はない。鼻から抜けてこぼれる笑みとにやける口もとをそのままに、時々ホーム画面に戻って美少女を見つめながら、朝クリアできなかったデイリーミッション達成のためのルーティンをこなす。
美波カノン。ユリコのいわゆる“最推し”であり、史上最も貢いだキャラクターであり、人生の支えである。
ソシャゲを掛け持ちで数個やっているし、家庭用ゲーム機のゲームも色々なタイトルをプレイしている。アニメや漫画も流行りものや友達がハマったものは齧ってみる。声優も好きだし、イラストレーターも好きだし、3次元のアイドルも好きだし、エンタメ系や美容系の動画投稿者も好き。だが、色んなものに手を出しているユリコは基本的に全てを広く浅く愛でるだけで満足しており、ガチャは出るまで回せば排出率100%だとか、アイドルのコンサートのための遠征とか、そういうことはしない。
収入的にも、月のオタク代は多くて2万が限界だ。できれば1万以内に抑えたい。最推しであるカノンの限定衣装が実装されたり、新しいグッズが出たりする日を夢見つつ、コツコツとオタク用のお金を貯めている。
「……はぁ、かわいい」
横向きのスマホの画面の中にいる金髪の女の子をじっと眺める。薄い紫の瞳は中に花が閉じ込められたように可憐で、手で梳いたら指にくるんと巻きつきそうな金髪は柔らかく艶めいている。こんなかわいい顔をしているのに身長は168cmもある設定で、そのギャップもとてもいい。
しばらくそのまま最推しの姿とボイスを堪能し、噛みごたえのあるバナナを貪りながら別のソシャゲにログインした。
楽しいところだけやって、報酬の石を受け取って、動画サイトを開く。よく見ているチャンネルの更新がなさそうなことをチェックして、やることが思いつかなくなって再び『フラワーフェアリーズ伝説』を開いてホーム画面のカノンを眺める。デイリーミッションが終わっていないソシャゲもあるが、今日はこれでおしまいだ。
義務感が出たら趣味じゃないと思っている。楽しむことができず、時間が無為に消費され、それでもやらないと、と思わされてしまうものがユリコは好きではない。
連続ログインボーナスとか、ウィークリーミッションとか、好きなら推しの楽曲は全部知らないといけない、とか。
好きなキャラのピックアップガチャを待って、石を貰うためにワクワクしながら毎日のログインボーナスを受け取ってミッション達成に励んでいるならいい。気持ちが高まって、好きなアイドルの曲やPVを一気に全部摂取するのはいい。それはユリコにとって必要な輝かしい集中力で、何も生み出せない自分の時間を豊かにするものだ。
だが、それが一転して、「これをやらないと貰えない」「見ないといけない」「買わないといけない」など、急かされるような焦るような気持ちを抱くようになったら、ワクワクの気持ちが再び戻ってくるまでは無理に触らないようにしている。
言ってしまえばユリコは少し飽きっぽいのだ。自分がずっと同じものに継続してハマることのできる自信がなくて、オタクだがどのコンテンツも深入りしないようにしている。
飽きっぽいだけでなく、一応いろいろ経験もしたうえでこのオタクスタイルに落ち着いた。
4年前まではもう少し熱を入れてアイドルを応援したり、動画投稿者の動画を心が傾くほど試聴したりもしていた。だが人は変わるもので、本人の別の一面を知ったり、炎上したりなど、見た瞬間に急に応援する気持ちが少なくなってしまう出来事に巡り合うことが多く、いわゆる“3次元”の対象を本気で推すことは自分には難しいなと思う場面に何度も出くわしてきた。
人は生き物。当然である。生きているのだから失敗するし、成長するし、自分とは違うものを目指している。だから基本的にユリコは3次元の推しは深入りせずに見守るだけと決めた。過度に追いかける事はせず、SNSや動画サイトで見かけたら「可愛いなぁ」「幸せになってほしいなぁ」と思いながらまったり見る。好きな曲や素敵なアルバムがリリースされたらCDを買う。全部は買わない。
3次元に対して、2次元は裏切らない。キャラクター自身が炎上したり、最初に明かされた設定と齟齬がでてくるということがあっても、少なくともそれは製作陣や運営のミスであり、キャラクター自身は悪くないからだ。それをデザインしたイラストレーターが炎上したり、声優が問題を起こしたとしても、それはそれ。多数の人の技術と協力のもとに命を吹き込まれたそのキャラクターは悪くない。そう思って2次元に信頼を寄せてはいたが、ユリコは実体のないものに何でもかんでも捧げられる技量はなかった。面白いゲームはいくつもあって、ずっと同じものを続ける自信がないからだ。
そんなユリコのオタクとしてのスタンスから唯一外れているのが、美波カノン。花の妖精たちが領土や資源を求めて戦うスマホゲーム『フラワーフェアリーズ伝説』のキャラクターだ。
このキャラクターだけは、ユリコが人として過ごすうえでの模範として日々の支えにしており、狂ったようにグッズを集めたり、普段はソシャゲのマンスリーパックを買うのも渋るユリコがガチャに万札を突っ込んで「完凸」したキャラクターである。
『美波カノン』は、ユリコの人生を彩ってきたものであり、オタク以外の趣味にも影響を与えた偉大な存在であり、生きるモチベーションを保つための精神的支柱でもある。
4年近くそうして過ごしてきたので、彼女のいない生活はもう考えられない。
……もし、『美波カノン』へ抱いているこの感情が崩壊したら、私は生きていけない。
そう思うほどに、ユリコは『美波カノン』が大好きだった。