推しをデザインした神絵師の奥さんが推しに激似かもしれない件について
ユリコは2000年生まれの23歳だ。妄想が暴走しがちな悩み多き乙女で、オタクで、そして大学院を中退している。半年後には社会の歯車に組み込まれる予定で、どんな人も完璧ではないという観点からみればしっかりと凡庸の評価がつく一般人だ。
天才的に得意な分野などもなく、大して好きでもない学問を修めてその末に大学院を中退したし、仕事を決める時は楽しさを捨てて安定を選んだ。
学生らしい恋愛もちょっと大人に踏み込んだ恋愛も、辛い片想いもそれなりに経験してきたが、今は彼氏なし。募集をするのも疲れて最近の人間関係は専ら仲のいい少数の女友達とつるむだけになっている。
「………。」
「………。」
ユリコは遊び人ではない。容姿端麗な知らない人を口説きたいと思ったことはないし、興味のない人と色々お喋りを続けるようなバイタリティはないし、不必要に愛想を振りまくのも苦手だ。昨日は電車の中で泣いている子供とそれに困っている母親を見つけて勇気を出して微笑みながらポケットティッシュを渡したが、心臓がバクバクになって気がついたら間違った駅に降りていた……という自分だけが恥ずかしい事件を起こした。
それが今、目の前に、こちらを無言で見つめている初対面の男の人がいる。
もちろん知り合いではない。
ユリコがナンパされた訳ではない。
しかもその男の人の左手の薬指には、暗めの橙色の照明を反射する金属の輪っかが着いている。
「……えっと、な、何か苦手な物ってありますか?」
親友と話す時よりも少し高めのよそいきの声を出そうとしたら掠れてうわずった。緊張しているのが相手に伝わっているだろう。
そして、えっと、と小さい声でつぶやく相手が緊張しているのも伝わってくる。
ユリコはオタクだ。広く浅く色んなものを嗜むのでひとつのジャンルに深くハマることは少なく、ゲームは好きな動画投稿者がプレイするタイトルのものをサラッとやって、漫画やアニメは友達が嵌っているものを見る。3次元のアイドルも好きだが、コンサートに行ったりファンクラブに入ったりはしていない。
だが、人生を捧げたいと思うほどに大好きな推しキャラがひとりいる。ソシャゲのキャラクターで、ゲームにほとんど課金しないユリコが万札をぶちこんで“完凸”までガチャを回し育てて愛でているキャラクターだ。出会ってから毎日の心の支えにしていた。
……数週間前に色々あって、4年近く人生の柱にしていたオタク趣味から一気に心が離れてメンタルがぐちゃぐちゃになっていたのだが、今現在、別の方向から訳のわからないことが起こっていて、ユリコの頭はぐちゃぐちゃになっている。
今。
ユリコの目の前には。
愛してやまない最推しキャラクターのデザインをしたイラストレーターが、目の前にいるのだ。
サイン会があったとか、個展があったとかではない。
ここは焼き鳥を売りにしているチェーン店で、ユリコは注文用のタブレットに手を伸ばしているところだ。そしてユリコと男は向かい合って席についている。今日は金曜日で、時刻は18時をまわったところ。週末夜の喧騒の中、ユリコと目の前の男のテーブルにだけ異様な空白めいた沈黙が浮いていた。
「特にないです……あの、貴女が好きなものを頼んでください」
男は控えめに、居心地悪そうに隣のテーブルに視線をやったりしながら口を動かす。ぎこちない動きでユリコを見つめた男は、ユリコが見つめ返すとすぐに目を逸らした。
「とりあえず、何皿か焼き鳥頼みますね。枝豆も。飲み物は……お酒……」
顎下までの長さのまっすぐな黒髪を何度も耳にかけ直しながら、ユリコはまた男に視線を送る。
「いや、お茶で大丈夫ですよ……」
お互い語尾が消え入りそうな弱い声で相手を伺う。親友が今の自分を見たら大笑いするだろう。このテーブルの滑稽さに誰も気がつかないといいが。
ユリコは注文するだけで時間を消費するのは無意味だと思い、口では控えめに尋ねながら指はテキパキと動かしてモモをタレと塩両方、レバーのタレ、塩のねぎまを注文した。
「ビールは苦手ですか?お酒弱かったりは」
注文画面で自分用にウーロン茶をタップしたら、緊張と動揺が頂点を突破したのか急に冷静になってきた気がした。
酒に弱いと言われなかったら男のぶんは勝手にビールを注文しようと指を構える。
「お酒は普通で……ビールも飲めますけど……今日は……」
「飲みましょう。酔いすぎないように数杯までで私が止めますから」
それに、私が奢りますから。
男は困ったようにすみません、と小さな声を出す。
本当に困り果てている様子なので申し訳ない気持ちになる。仕方がないだろう。
ユリコは目の前の男を推しをデザインしたイラストレーターだと分かっているのだが、向こうにとってユリコは本当にただ唐突に話しかけてきて焼き鳥屋に引っ張り込んできた見知らぬ女である。
事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもの。妄想癖の気がある自分でも思いつかなかったような意味の分からないことが現実になることは、本当にあるらしい。
「知らないひと相手の方が逆に話しやすいかもしれませんよ。その、誰かに聞いてほしいことがあったら、なんでも仰ってください。黙って聞いてますから」
前世で積んだ徳が今世に影響するのだとしたら、いったいぜんたい前世の己は何を成したのだろう。悪行か善行か、それだけでも教えてほしい。でないとこの現状がご褒美なのか罰ゲームなのか全く分からないからだ。……いや、どう考えてもご褒美ではない……。
運命というものがあるのだとしたら、私は何をするべきなのだろう。
……1時間ほど前に。
ユリコは、推しをデザインしたイラストレーターが離婚話を切り出されているところを目撃してしまったのだ。
地球。
生命たちは踊るように繁栄と滅亡を繰り返し、その灯火をふりまきながら散っていく。運命に手を貸す神は姿を隠し、弱きものはひたむきに己の生活を紡いでいくほかない。ここはそんな世界だ。
厳しい自然に揉まれながらも、人間という生き物は、脳と手先から捻りだした道具を使うことで、地球上のわりとどこにでも蔓延っている。いつしか人間の敵は人間となり、同じ人間同士で癒しを求めたりモフモフに癒しを乞いながら生きるようになっていった。
人間は1人では生きていくことはできない。人間の時代を築いてきたものの多くは人と人との愛憎渦巻く感情を礎にして技術とともに成長し、現代でも巨大に聳え立っている。
建築物、医薬品、衣服、食品……生活に絡むどれもが時間をかけて人間の手によって発展してきたものだ。先人たちに感謝することを忘れながらも、私たちは日々、様々な利便性を享受して過ごしている。
ドロドロとした感情が絡んでいるのは、芸術も例外ではない。その芸術の端っこにあるサブカルチャー……いわゆるオタク文化も、もちろんだ。
芸術に昇華されるものとオタクに分類されるものの違いって何だろう。突き詰めれば色々あるが、ユリコはそのひとつに「作者が鑑賞者と同じ時代を生きているか否か」があると思っている。
時代を超えて、”理想”の人物を追い求めた画家や彫刻家は数多と存在する。機能性など関係ない芸術だからこそ、彼らの心の底に色濃く燻る現実離れした情景は人を惹きつける。どれだけお堅い人でも、言語化し得ない深層に理想への憧れを抱えているからだ。数百年前の美人画のもつ普遍的な麗しさに魅入られる人の多さがそれを物語っている。と、ユリコは勝手に思っている。
だが、オタクの文化は現代で、現在進行形で進んでいくものだ。常にその最先端に立って見えるのは、願望や欲望がありのまま透けたイラスト、音楽、漫画、小説。それらに潜む製作者の欲求は大別すれば名画と同類なのに、どうしても生々しく感じて、大きな声で「これが好き」と言うのは憚られてしまう。作者がSNSか何かでリアルタイムにそのひと自身のことについて言及したりしていると、余計に。
そんな考えを持っているユリコはオタク文化が根付いている今でもオタクであることを人に言うのは恥ずかしいと思ってしまうたちで、オタクであることはごく少数の親友以外には隠しながら生きてきた。
3次元の推しは炎上するし、2次元の推しは作者の性癖が透けている。
ユリコは深入りしないように広く浅くオタクをするように気をつけてきた。
そんなユリコにも、愛してやまない推しキャラクターがいた。
否、今もまだ好きだ。
何もかもが憧れのようにキラキラして見えるキャラクターで、辛いときもそのキャラクターに想いを馳せれば頑張ることができたし、そのキャラクターのことを考えれば楽しい気持ちになることができた。
例えば、化粧。社会人の義務みたいな気がして数年前までやりたくなかったけど、モチベを上げるために自分の推しキャラクターがどんな化粧をしてどんな化粧品を持っているのか、どんなケアをしているのかを考えて調べたらいつの間にかメイクの魔法に魅入られて、友達とのショッピングで化粧品を試したり、メイクの動画を視聴するのが楽しく感じるようになっていた。
ユリコが人生で最も推しているキャラクターは、ユリコの今までの習慣を形づくり、ユリコのオタク以外の趣味まで全て構成してきた。そういっても過言ではないほどに、ユリコは己の最推しキャラクターのことが好きだった。
そこまでその最推しキャラクターに入れ上げることができたのは、そのキャラクターが魅力的なキャラをしていたことに加えて、全体的に清楚系に見受けられるデザインをしていたことが大きいだろう。無論それだけではないのだが、生憎今は推しの好きなところを脳内で並べ立てている場合ではない。
目の前の現実に目を向ける。自分の向かいに座っている男は困ったような顔でユリコを見つめていた。無意識だろうか、自分の左手の薬指に嵌った指輪を右手で触っている。
本当に、どうしよう。
占いなんて信じてないし、必然の出会いも運命なんてものも存在しないと思ってた。だけどこんな変な状況、誰かが仕組んだとしか思えない。むしろ、誰かが仕組んでいてほしい。
「……とりあえず、名前を聞いてもいいですか」
存外、男の人の中では声が高いほうだと思う。そんなことを思いながら、背筋を伸ばしてしっかりと相手の目を見つめた。
「ユリコです。田中百合子」
〜推しのイラストレーターの奥さんが推しに激似だったら萎えるなと思っていたら、創造神が離婚を切り出される場面に遭遇してしまいつい慰めに駆け寄ってしまったけど、どうしよう〜
お読みくださりありがとうございました。
3000〜4000字くらいで区切って適当にポンポン上げていきます。あまりここで受けるような話ではないかと思いますが、物好きな方、お付き合いいただけると幸いです。