粗相
上段に戻ってすぐ、メルテアはひどい疲労感を覚えた。
どうにも食欲が出てこない。この後に控えている最下段の挨拶回りが気を重くさせていた。
とはいえ帰るわけにもいかないと分かっている。
なんとか心身の回復を図ろうと、メルテアは席に戻ってすぐ、シェトレを呼んだ。
「疲れすぎて食欲がないの。減らしてもらえるように伝えてくれる?」
「畏まりました、殿下」
シェトレは心配そうな表情を浮かべ、すぐに使用人たちへ伝えて回る。
しかし、その想いが裏目に出た。メルテアが失敗したと気付いた時には、もう遅かった。
メルテアに食事や飲み物を持ってくる使用人が、明らかにひどく緊張している。
皿一枚置くだけでも、手が震えているのが見て取れた。
――誤解させてしまったのかな……。
心配そうにしていたシェトレのことだ。食事を減らしてと伝えただけでなく、細心の注意を払うようにとも伝えたことだろう。
その想いが良い意味で伝わるかどうかは、受け取り方次第だ。
最悪の場合、王女が気分を害していると思わせた可能性もある。
しかも今のメルテアは普通の外見ではない。
自分でそう思うのもなんであるが、髪が光っている者など人の領域を超えている。
神に近い存在と勘違いしている者もいるだろう。
困ったなと、メルテアは配膳している使用人に目を向ける。
すると、今まさにメルテアの飲み物を持ってきている使用人と目が合った。
「……あ」
思わず声をこぼす。
その声が、ダメ押しとなった。
かすかに震えていた使用人の手から、グラスが落ちる。
慌てて掴み直そうとした使用人が、体勢を大きく崩した。
勢いが余り、使用人の身体がメルテアのほうへ転がり込む。
ガシャン、ドン、と。
ガラスの割れる音と、鈍い音が大広間にひびいた。
空気が凍りつく。
多くの人の目。一斉にメルテアのほうへ向けられた。
メルテアのドレスが、赤紫色に染まっていく。
とはいえ、血ではない。
グラスに入っていた果実のジュースの色だ。
だがそうと分かっても、大広間の空気が和らぎはしなかった。
次第に人々の目は、メルテアから事を起こした使用人へ向けられていった。
「……大丈夫!?」
凍りついた空気を最初に破ったのは、メルテアの声であった。
メルテアの前で転がったまま呆然としている使用人の手に触れる。
使用人の手からは血が流れ出ていた。割れたグラスで切ったのだ。
メルテアは使用人の傷をナプキンで押さえ、ラアトを呼んだ。
「怪我をしているわ。早く手当てをしてあげて」
「メルテアは良いのか」
「私はどこも怪我してないわ。早くして」
「……分かった」
不服そうにしたラアトが使用人を睨みつけながらも抱きかかえる。
使用人は動揺が収まらないのか、ラアトに抱えられて大広間を出て行くまで呆然自失としていた。
ラアトと入れ替わるように、シェトレがメルテアの傍へ駆けつける。
ユーファとリリナもシェトレとともに入ってきて、メルテアに怪我がないか確認しはじめた。
「濡れただけよ、シェトレ」
「新しいドレスを用意します。一度控室へ参りましょう」
「そうね。その前にシェトレ。ラアトのところへ行ってきてくれない? 使用人の手当てを頼んだのだけど、ラアトが必要以上に使用人を叱らないよう、見張ってほしいの」
「叱るのは当然のことです」
「あの一瞬だけで、叱る以上の咎めを受けているわ」
「畏まりました」
一礼したシェトレがラアトを追いかけていく。
メルテアは立ち上がると、未だに固まっているエルダたちに一礼した。
するとようやく我に返ったエルダとテンドラがメルテアの傍へ寄った。
遅れてオウラも、やれやれといった表情でゆっくりと近付いてくる。
「この場は私どもが収めますので、殿下はどうぞ控室へ」
「ありがとう存じます、国主様」
「先ほどの使用人に対する過分な気遣い、感謝いたします」
「私が緊張させてしまったのです。彼女がこれ以上咎められないよう、配慮願います」
「御意に」
エルダが礼をしたのを見てから、メルテアは大広間から退室した。
退室直前に大広間でざわめきが上がる。
しかしすぐにエルダが声を上げ、貴族たちを鎮めた。




