温石なる
「しかし、まだ正式には王女ではない。もうしばらく慎みを保つことだ」
扉の近くで外の気配を窺っていたラアトが、低い声で言った。
どうやらもう部屋の外には誰もいないようだ。
「王女になりたいとは思っていません」
「まだそんなことを言っておるのか。もはや決まったようなものだ。あの馬車に乗った瞬間からな」
「そうかもしれませんけど」
メルテアはがくりと項垂れる。
ラアトの言う通り、ストロゼアの王女になることからはすでに逃れられそうになかった。
たとえ王城を離れたとしても、王女の肩書は残ったままとなるだろう。
あの日、あの馬車に乗った瞬間から、そうなるように仕掛けられていたのだ。
着替え終えたメルテアは、暖炉の前の椅子に移動する。
シェトレが後に付き、メルテアの乱れた髪を整えはじめた。
そうして手入れをするのは、メルテアとシェトレの日課となっていた。
メルテアはシェトレに甘えられるし、シェトレはメルテアを磨く楽しみを味わえる。まさに一石二鳥の時間なのだ。
その間、ラアトが声をかけてくることはない。
メルテアの居間に多くの書物を持ち込み、勉学に励んでいた。
なんでも三百年間の歴史と、新たな知識を知りたいらしい。
勤勉なその姿は、邪王と呼ばれたザルバラアトとは思えなかった。
「メルテア様も鍛錬の時間ですね」
ラアトの姿を見て、シェトレが笑う。
シェトレはラアトのことを、文武両道の貴人として見ているらしい。
邪王であることを除けば実際そうだなとメルテアも同意していた。
まだ短い付き合いではあるが、ラアトの助言は非常に的確で、無駄がないのである。
「あんなに勉強したくはないのだけど」
「メルテア様はとても聡明ですので、きっとすぐに追いつかれます」
「そんなの無理よ」
ラアトは三百年封印されていたとはいえ、意識があったらしい。
つまり実質三百歳を超えている。どうしたってラアトの老練さには敵わないだろう。
そう思っていることに気付いたのか。ラアトがメルテアを睨んできた。
メルテアも負けじと視線をぶつけ、にこりと笑う。
笑顔だけは自信がある。この七日間、狂うほどに練習をつづけてきたからだ。
それから結局、メルテアは勉強をすることとなった。
すでに文字を読むことは出来るようになっていて、今は書く練習中である。しかも、綺麗に。
「字には人柄が滲み出る。王族の書く字は、美しくなければならぬ」
五日前。適当な字を書いたメルテアをラアトが叱りつけた。
初めて字を書いた紙は、暖炉に捨てられた。
それ以来、メルテアは徹底して美しい字を書くよう努めた。
捨てられた悔しさもあったが、新しいことが出来るようになる喜びもあった。
「メルテア様の字は本当に綺麗ですね」
「本当? お世辞じゃない?」
「いいえ。ラアト様も褒めておられました」
「意地悪なラアトまでも言うなら、そうなのかな。だったらシェトレ姉様、こういうのを書きたいのだけど……」
「……どれですか? ……ええ、そうですね。とても良いと思います。今夜もきっと冷えることでしょう。私もメルテア様にお付き合いいたします」
シェトレが微笑む。
メルテアは大いに張り切り、字の練習を再開した。
その日の夜。
吐く息と静寂が白く凍るころ。
メルテアの寝室の扉が静かに開いた。
扉の前にいた衛兵二人が驚き、扉を開けた者の顔を覗き見る。
「……ど、どうかされましたか!?」
衛兵が思わず声をあげた。
開かれた扉の先に、メルテアとシェトレが立っていたからだ。
メルテアは大声をあげた衛兵の口に指を当て、「静かに」と声をかけた。
驚いた表情のままの衛兵二人が、一拍置いて口を噤み、頭を何度も縦に振る。
「いつもお勤めご苦労様です」
メルテアは用意していた小さな厚手の袋を衛兵に手渡した。
袋の中には暖炉で焼いた温石が入っていた。
袋を手にした衛兵が感激し、身を震わせて礼をする。
袋には小さな紙も添えられていて、メルテア直筆の礼文が短く書かれていた。
衛兵が何度も礼を言う中、メルテアは小さく頭を下げて寝室に戻った。
扉を閉める直前、シェトレが衛兵の傍へ寄り「他言無用でお願いします」と伝えた。
すると衛兵たちの頭が再び何度も縦に振られた。
その日より。
メルテアは凍えるほど寒い夜だけ夜中に起き、衛兵に温石を手渡した。
そうすることにラアトは渋い顔をしたが、メルテアが執拗に願ったのでついに条件付きで認めた。
その条件は、毎晩行わないことと、必要以上に言葉を交わさないことであった。
「あまり目立たぬほうがいいのだがな」
「だけど、こんな寒い中で私の寝室をずっと警護させるのは悪いです。まだ王女になったわけでもないのに」
「だからこそ見張っておるのだ。内も外もな」
「ああ、もう! そういうのはどうだっていいんです。私が一か月後どう思われるかより、衛兵さんたちが今夜風邪をひかないほうが大事でしょう?」
そう言ったメルテアは、今夜も暖炉に温石を入れる。
シェトレも手伝い、温石を入れる袋を準備してくれた。
呆れるラアトをよそに、メルテアの良い噂はさらに広がった。
他言無用にしてほしいと願ったシェトレの気配りが、兵の心に深く刺さったからであった。




