Que Será, Será -1
会社に勤めてた頃は朝5時起きが当たり前だった。
私のシフトは6時30分開始で、18時30分終了、休憩は適宜勝手にどうぞ。でも休憩してもいいなんて言ってないって感じだし、繁忙期は22時越え、そうでなくても20時終了とか当たり前だった。
ブラックもブラック。
そんなとこ早く止めりゃよかったじゃん?
人はみんな私の話を聞くとそう言うんだ。
でもな、高校出たてだし、コミュニケーション能力は低い、手に職はないって状況で、それでも自分一人倹しくすれば生きてくに越したことないお賃金をいただけるって状況をどうやって手放せる?
悪いのは世間を知らない、社会的常識も知恵もない私だってずっと思ってた。いや、今でもそう思う。
そこから、必死で働いて、どうにかこうにか国家資格やそれに類する資格をそれなりに取ることが出来た。
実はその仕事方面なら、どこかの講習で講師になれるだけのキャリアも付いた。
で、このパンデミック。
働いても働いても予測利益は下方修正、回復の見通しも立たない。そのうえ上司からはパワハラ・モラハラ・セクハラ、サービス残業込みで月の労働時間は350時間超。
部下もいたけど、労働時間なんか私と同じだし、彼女は気が弱くて言い返せないタイプだったから、それを背中に庇って孤軍奮闘してて。
ある日、ついに奥歯が砕けた。
ばきって。
口の中で嫌な音がして、次に口一杯に広がる鉄錆の味と匂い。生臭さに洗面所に駆け込んで、ゲロったら真っ赤だったわ。
応急処置に綿を噛んで止血して、働き続けること20時。当然歯医者なんか開いてないんだよ。
翌朝病院に行きたくても、私と同じ時間に出勤できる人間はいない。いたんだけど、社長の息子の嫁さんなので以下略。
その時、ふつりと私の中で何かが切れた。
もう、よくね?
私、こんな頑張らんでよくね?
歯が、しかも奥歯欠けたのに病院にも行けないってなんなん?
馬鹿なの、死ぬの?
私、過労死する気なの?
馬鹿じゃん。
『覚醒と引き換えに奥歯が砕けるって、何処の世紀末覇者なんですか?』
「そんなエピソード、あったっけ?」
『え? 知りませんけど、なんか若冲さんてそういうトコあるから』
「どこです? 私、か弱いですよ」
『全国のか弱い人に謝ってもろて』
「そこまで!?」
まあ、たしかにか弱くないわ。
だって世の中にそんなに傷つくことってないんだもん。
取り乱すのは、親愛の情がある肉親と友人・知人が亡くなった時だけでいい。
あとは「サヨナラだけが人生さ」だ。
『……なんというか、若冲さん揺らがないから』
「ネットでもリアルでも揺らがない事には、物理的な意味でも定評ありますけどね」
『このパンデミックで運動できなくて太りましたよね、お互い』
「あるぇ? 謎の連帯感」
いや、うん、大丈夫。
会社辞めたけど、買い物行くのに近場だったら歩くことにしたから。大丈夫、多分、きっと。
でも恒例のオンラインノンアルコール飲み会のツマミは珍味・豚揚皮で、何となく腹回りがたぷんとしてる気はする。
画面の中の彼女・ミュシャは、今日は長い髪をおさげにしてた。それが揺れるたびに、膝の上にいる猫の目線が揺れた。
私は、揺らがない。でも、折れた。
違うな、ミュシャ風に言えば「覚醒」したんだ。
私は彼女のこういう言葉のセンスが好き。
そしてそのセンスが余すところなく発揮される、彼女の書く小説も。
『ところで、若冲さん。それ、何を食べておられるんです?』
「ん? 豚の皮……の素揚げ?」
『硬そう』
「硬いですよ。バリバリ」
『どこで買うんです?』
「成城石井とかカルディとか久世福商店とか?」
パッケージを手に取れば、生産地は鹿児島にあるらしい。
一つ摘まんで口に入れれば、ガリッという硬い食感と、豚の油に塩のうま味が口に広がる。本当に硬い。ある程度噛んだら、ウーロン茶で流し込むんだけど、今日のウーロン茶は白桃ウーロン茶だ。台湾雑貨のお店で買ったやつ。
そう言えば、ミュシャが首を捻った。
『若冲さんってカルディとか成城石井とか、よく行くんですか?』
「あそこ、調味料めっちゃ売ってるじゃないですか」
『ああ、そうなんです? 私、カルディはコーヒーくらいしか思い浮かばなくて』
「焼いて食べるチーズと、カズチー最高ですよ」
『カズチーのお噂はかねがね』
「え? 恭しい……」
『だって淑女なので。大事なことだからもう一回言いますが淑女なので』
「そこに痺れもしないし、憧れもしないし、ちょっと何言ってるか判んないですね?」
『ええ~』
「『ええ~』って思わぬ反応」
お互い画面越しに顔を見合わせてクスリと笑う。
リアルで会えなくても、この程度の気安い会話を交わすことが出来る友人がいる。それは十分リアルが充足してるってことだ。楽しいじゃん。
けど、それは置いといて。
多分ミュシャは他に聞きたいことがあったんだろう、少しばかり首を傾けて「どうしたの?」とサインを送れば、彼女は液晶の中で大きくため息を吐いた。
『実は私、あんまり食にこだわりが無くて……。明日から両親がちょっと旅行に行くので、私は留守番するんですけど、その間の食事をちゃんと摂れって言われちゃって』
でも、作るの面倒くさい。
ポロっとでた言葉に、私は大きく頷いた。
自分のためにしかしない料理ってのは、余程料理が好きでもなけりゃ面倒くさい以外の何でもない。
気持ちは解る。そう言えば、ミュシャも大きく頷いた。
『ですよねー! 面倒くさいですよね! 仲間ー!』
「そうですよ。一食ぐらい抜いたって死にはしないんだから!」
『ですです! なんなら三食食べなくても……』
「え? それは無理」
『え?』
思わず真顔になる私に、戸惑うミュシャ。
これ、もしや、この人、本当に食に興味のない人だったか。
このタイプは本当に食に興味が無くて、下手すると食べなくても大丈夫を繰り返すタイプだ。これはアカン。
「ミュシャさん、マジもんでしたか」
『てへ? 今、語尾に星付けてみたんですけど、解ります?』
「いえ、全然。っていうか、あんまり食べないとお星さまになりますよ?」
『それはまだ嫌ですねぇ。折角人生楽しんでるのに』
「なら、一食位ちゃんとしたものを食べないと」
『普段は親・兄弟が声をかけてくれるんですけど、タイミング悪く兄弟も仕事で……』
「それは……」
困ったな。
私も最近は面倒で一日二食の時なんてざらだし、人の事は言えない。言えないけど、何も食べないではいられないんだよね。
となると、さて。
ちょっと画面そっちのけで対策を練っていると、画面のミュシャが困ったように眉を下げる。
ああ、もしかしてお節介か。
お節介だった時は、お互い遠慮しないでそう言い合おう。彼女と小説を書くにあたって、そう決めたことがあった。それは今でも守られているし、私も守っている。
踏み込み過ぎたんだろうかと、口を開きかけた時だった。
『あのぉ、若冲さんってお料理お好きです?』
「……好き、ではないですが、冷蔵庫やら冷凍庫にある物だけで何か作れと言われても困らないだけの腕はあります。美味しい美味しくないは別に考えて、ですけど」
『ああ、そうなんですね。じゃあ、あの、オンラインで同じもの作って食べるとか、やってみませんか?』
「へ?」
『いや、料理も好きじゃないし、そんなにご飯食べたいとも思わないけど。若冲さんとオンラインで料理作って、オンラインで食事会とか面白そうかなって』
モジモジと恥じらうというのか、我がまま言っちゃったという雰囲気と言うか、そんなものを画面のミュシャから感じる。
私の答えなんて、そんなもの。
「面白そうですね。やりましょう!」
そう返答した私だったけど、明日は早起きしてキッチン回り片付けなきゃいけない事に、内心超焦った。
お読みいただいてありがとうございます。