前奏曲、フーガと前奏曲
防音壕を出て耳栓を外すと、茶色い耳垢のかたまりが一緒になってずるりと抜けた。私は茹でた巻き貝をナイフで剥くさまを連想し、顔をしかめて地面に捨てた。肝は苦いから嫌いだ。
通りに建てられた蓄音塔の周りには早くも音機技師たちが集まって、今年の蓄音量を確かめようとしていた。彼らは蓄音技術を進歩させようと開発に勤しみ、自分の街区の塔の蓄音量をほかと競わせては一喜一憂している。
馴染みの技師がこちらに気付いて、手を振る。
「よう、先生! 今年もだよな?」
「ありがとう、お願いするよ。また後ほど」
人々の話し声。馬のいななき。鳥のさえずり。すべてが鮮やかに耳へ入ってくる。歩いているだけで、しみじみとした喜びが彼を満たす。
何せ、一週間もの間、何も聞こえなかったのだ。より正確に言えば、何重にも防音ドアをつけた地下壕で耳栓を付けていてもなお耳を聾するほどの轟音に、全てが塗りつぶされていた。
真っ先に壕を出て駆け回っていたのだろう、教区の子どもたちが前からやってきて、私を取り囲んだ。ペーレ、ペーレ、と私を呼び、口々にいろいろなことを聞いてもらおうとする。私はにこにこしながら耳を傾けていたが、教会の前に大きな穴が開いている、とひとりが言いだしたので、思わず素頓狂な声を上げてしまった。
「本当かい」
「おっきい穴ぼこが開いてたよ、ペーレ」
急いで駆け付けると、教会前の広場にすり鉢状の穴が開いていた。見ている間にも石畳がパラパラと底へと落ちていった。
下がっているよう子どもたちに言い含めて近寄ると、土が焦げる匂いが鼻に刺さった。そのうち瞼を開けていることもできなくなり、腕で顔をかばった。
穴の縁にしゃがみ込んですり鉢を覗き込んだ私は、目を瞠った。
底に、人が立っていた。
あの子の名前を呼びそうになって、首を振った。全然似ていない。若すぎる。少年のようにも、少女のようにも見えた。その裸身は、穴のほうぼうに残る熾火に照らされて、微かに金色に輝いていた。息を殺して見下ろしていると不意にこちらを見上げた。短く切りそろえられた髪がひとふさ、赤い唇の上にぱさりと落ちた。
「確かなんだな」
親分は、頰を上気させてオルガン台に上がってきた。私は演奏台の前に座ったまま黙って、彼に「拾得物」を指し示す。司祭に借りた、修道士の衣を着せてある。
「あのクレーターを見たでしょう。しかもこの子には、性器が付いていません。男のものも、女のものも」
「それだけか?」
私は鍵盤の方に向き直った。親分ならそう言うだろうと思って、オルガンをあらかじめ暖気していたのだ。音色を変える音栓を手早く引き出して弾きはじめると、親分はすぐに的を得たようだった。
「この曲は……」
それは、私が作曲した八分の九拍子のゆるやかな前奏曲だった。
微動だにしなかった「拾得物」が、はじめて親分の前で反応を見せた。演奏台の近くによろよろと歩み寄り、手元を食い入るように見つめてくるのを感じる。
それもそのはず、この曲の主旋律は、〈お通り〉をどうにかこうにか録音して採譜したものだ。とはいえ、完全に採譜出来たのは最初のフレーズだけだったのだが。
「ペーレ! 背中が膨らんできたぞ」
普段は雷神のように振舞いオルガン工房の徒弟たちに恐れられている親分が、この時ばかりは慌てふためいていた。私は微笑んで、前奏曲を弾き続けた。私もさっき同じように驚いたばかりだ。
譜面台の横に嵌め込まれた鏡越しに、様子を見守る。
布が裂ける音が控えめに響く。親分がいよいよもって息を呑んだ。突然、鏡の中で光彩が爆発する。私は目を眇める。ステンドグラスから差す光が、背から生えた構造体に乱反射している。よく見れば、一本一本が長さの違う金属の管であることがわかるはずだ。
前奏曲を弾き終えるころ、頭の位置が高くなった。背伸びをしたわけではない。浮き上がったのだ。
「ほら、言った通りでしょう。私が拾ったのは確かに天使の子どもです」
鍵盤から身体を離して向き直ると、親分は腰を抜かしていた。思わず、床を汚していないかと心配した。
「どうするつもりだ。この子を」
「私が預かります」
「預かるって、どこに」
「コンセルヴァトワールの教授室にでも」
馬鹿を言え、と喚いてから親分は自分の口を手で塞いだ。それから、声を殺して私に詰め寄った。
「生きた天使を保護したなんて話、聞いたことがない。それも、秘匿するだと? もし聖職者の誰かが知ったら」
「教皇庁で飼い殺しにされるでしょうね。神父にはこの子の正体はまだ教えていませんけれど」
「俺が告げ口するとは思わないのか」
「それはだって、あなた、サタンに魂を売ってでも知りたいでしょう。この子の身体のことを」
親分はこめかみを青筋を立てながら口を開けたり閉じたりしていた。罵倒も思い浮かばないほど混乱しているらしい。ちょっと愉快だった。
私は構わず演奏台を降りて、天使の僧衣を捲った。元より裸だった天使は気にした風でもなかった。
「この部分。わかりますか? この、右の翼の、橈骨と言うのでしょうか。拉げてしまっているでしょう。その他にも何箇所か。落下の衝撃でしょうね」
「治せってのか?」
「まさかできない? 我が国いちのオルガン設計者のあなたが」
「阿呆を言うな! 試してみなけりゃ分からない。それに、やってどうする」
「いつかの〈お通り〉のときに、天に返しましょう。動物園に送られるより愛護精神に溢れた行いでしょう」
親分は、もう沢山だ、と喚いて耳を塞いだ。教会付オルガニストにあるまじき言葉だとは自分でも思う。
ぐちぐち言いながらも、結局は承諾してくれた。
親分はオルガン室を降りる時に、「なあ…」と遠慮がちに訊いてきた。
「あいつ、似てないか。お前の、その……」
「別人です」
親分は神妙な顔で、そうか、とだけ言って、降りていった。
当面の間、工房で預かってもらうことになった。徒弟たちには、前の戦争で酷いトラウマを負った親戚の子だと言い訳したらしい。
親分は演奏のほうはからきしなので、翼を出すために私が弾く必要があった。それも、例の曲をはじめとして〈お通り〉の際に採譜した素材を使った曲を聞かせる必要があった。
国中のオルガン建造に関わり国境を越えることすらある親分と、教会付オルガニストとコンセルヴァトワールの教授、それから作曲家を兼務する私だった。なかなか気の長い作業になるだろう。
親分が外へ工事に行くときなど工房で預かるのが難しい日には、私が教会のオルガン室やコンセルヴァトワールに連れて行った。教授室で待っていてもらうこともあったが、講義室に座らせたり、時にはレッスンに同席させたりもした。
「……オルガンの起源は紀元前に遡ります。古より、〈お通り〉の際に墜落した天使の屍体は、その外殻の強固さゆえに居住地や倉庫として、大型のものとなればそのまま街として利用されました。翼管は鋳金の技術の発達にしたがって笛に加工されるようになり、その頃にはもう長さの違う笛を横並びに束ねた「パンの笛」が作られていたことが知られています。そして紀元前二六四年、水力のふいごで風を送り、手で弁を開閉する水オルガンが開発されました。それは天使の発音機構を、機械の力によって模倣するはじめての試みでした。……」
その日は、新学期に入って初めてのオルガンの授業を、私が勤める教会で行なっていた。何も初回から遠足をしたかったわけではなく、コンセルヴァトワールの礼拝堂が作曲の授業のために使われていたのだった。何に必要なのやら、とは思いつつも、オルガン科の生徒たちは、よその国から来た「足踏みオルガン教師」の私がいるゆえに、様々な不遇を被っている。
「……宗教音楽にオルガンが取り入れられるようになったのは十三世紀ごろですが、その後ルネサンス期に様々な音色を使い分けるための音栓機構ストップ・アクションが確立されました。その後バロック期のドイツで興ったオルガン筐体の巨大化は、教会の巨大化と切っても切り離せぬ関係にありました。それは天使の体内を模倣する試みに他なりません。……」
退屈な音楽史のおさらいだが、学期の始めには必ずこの話をするようにしている。オルガンを弾く上で絶対に知っておかなければならないことだと思うからだ。
「……革命によって国内の教会は『貴族的』であったがゆえに破壊されましたが、今世紀に入ってから教会の再建が進み、ネオ・ゴシック様式の教会が各地で建造されました。
オルガンを弾く時には、必ず教会建築のことを知っておかなければなりません。現代のオルガンは、時には教会ばかりでなく周囲の建物まで揺らす力を持っています。この教会はバシリカ様式を持っていますが、これも天使の右翼と左翼を再現したものであるとされています。…
…」
それから、生徒ひとりひとりに少しずつ演奏をしてもらう。今日の課題は、私が作った主題を指定した調に変えて、二分程度の即興演奏をしてもらうこと。多くの子供たちはそういう訓練をしていないため戸惑っていたが、とりわけ優秀な者がひとりいて、私はうれしくなった。
授業が終わったあと、その生徒が声を掛けてきた。
「ぼく、この近所に住んでるんだ。日曜の弥撒にもよく来るし。ぼく……先生のオルガンが好きだ」
「本当かい。ありがとう」
私は目線の位置までしゃがみこんで、微笑んだ。彼は、恥ずかしいのだろうか、少しまごついていた。
教会に集まった生徒たちを見渡したとき、子供が混じっている、と思った。珍しくはない。自分もそうだった。そういえば、何年か前には十歳で入学した子供がいたはずだ。
微笑ましくもあり、悲しくもあった。なぜ、こんなに小さな頃から音楽に全てを賭けなければいけないのだろう。本当に自分の意思でここにいると、誰が言えるわけでもなかろうに。
授業中に音楽以外のことを多く話すのは、父親に神童ピアニストとして見世物にされた子供時代と、その後の労苦を思い出すからだった。
「先生、〈お通り〉の録音を持ってるんですよね」
今度はこちらがまごつく番だった。
「誰に聞いたのです」
「蓄音塔の技師に。ちょうだい、って言ったら、先生が持ってるよ、って。ねえ先生お願い、聞かせてよ」
「駄目だ」
「お願いってば。じゃなきゃ、持ってるって言いふらす」
この糞餓鬼、と言い掛けて、私は深く息を吐いた。交渉を持ちかけてくるとは、大した神童ぶりではないか。
天使が飛来してきて上空を埋め尽くすと、地上の大気は天使の発する音で満たされる。この国ではこの現象は〈お通り〉と呼ばれている。今世紀に入って急速にこの莫大な振動をエネルギー源として利用する技術が発達し、今や蓄音塔なしに私たちの生活は成り行かないだろう。
この数十年来、フォノトグラフによる記録を技師に密かにお願いしていたのだった。生半な調整では、ただ単に最大音量が入力されつづけていたことを示す直線が出てくるだけなので、きちんとしたデータが取れるようになるまでにはしばらく掛かった。それを解析してパンチカードとして出力し、ロールピアノならぬロールオルガンとして再生する装置を作ってくれたのは、何を隠そう、親分だった。
「教会のオルガンを改造? そういうのって職権乱用って言うんじゃないの?」
生徒が呆れたようにそう漏らした。耳が痛かった。
パンチカードはオルガン室に隠していた。部屋を出るときに天使の様子を見たが、ぺたぺたとパイプを触っているだけだったので放っておくことにした。
「通してみるかい」
カードを掲げて見せると、子供らしい喜びようでそれを受け取った。音量を調節するスリットの一つを指し示す。そこの隙間が、差込口だった。
音栓が音を立てて変わる。カードにはレジストレーションの情報までもが書き込まれている。事情を知らない人が見たらポルターガイストの仕業と思うかもしれない。
「いいか、何か異変があったらすぐに、君の耳を塞ぎますからね。機構も停止します」
「なんだよ、ケチ。それじゃ意味ないじゃん」
〈お通り〉の間じゅう人間が地下壕に避難しているのは、天使の合唱が鼓膜が破壊されるほどの大音量だからではない。むしろ、鼓膜が破れた程度では聞こえなくはならず、骨を伝って聞こえるらしい。
天使の歌声を直接聞くと、魂が持って行かれ、戻ってこなくなると言われている。あまりの至福ゆえとも、あまりの苦痛ゆえとも言われている。〈お通り〉の間に外に出て行った者は忽然と消えて、帰ってこない。
ただの噂だ。なんせあまりに記録がない。
「君の安全のためです。仕方がないでしょう」
控えめに、音が鳴りはじめる。
期待に顔を輝かせていた生徒の顔が、すぐに失望に暗くなる。
「全然気持ちよくないじゃん。何これ。壊れてない?」
思わず、ニコニコしながら生徒の肩を叩いた。
リズムも和声もあったものではない。数匹の猫を黒鍵の上で遊ばせながら、数人の男が白鍵に拳を落とし続けたら、こういう感じかもしれない。音程が西洋の音階に強制的に補正されているだけまだ聴きやすい、と思う。
「そうかもしれません。技師と工房の親分、どちらかの作った機械が未熟であり、これは正しい再現ではないという可能性は非常に高いでしょう。でも、判別しようがないんですよね。何てったって、直接聴けないんですから。でもね……」
私はカードを取り出し、演奏台に座った。音栓を手早く引き出して基本の響きを作り、弾きはじめる。
「こうやって使うんですよ。聞いてごらんなさい……」
再生された歌の旋律を、再現する。手が足りないので演奏はできないが、全て頭に入っていた。それをより現代の旋法や拍子に近い形にして主題にし、三声のコラールに仕立てる。
「先生、これって……」
右手。左手。足。壁に沿って建てられたパイプを通って、建物を響かせ、旋律が繁茂する。移調。反転主題。十字架のフィグーラを入れる。対旋律に。「第三の手」の歩みに。
構築性の頂点へと昂ぶるフーガは、しかし前奏に過ぎない。
これは神の言葉を導くための儀式だ。
「先生、先生!」
生徒が私の肩を揺さぶっていた。我に返った私の目に映ったのは、苦悶の表情を浮かべながら身体を押さえる、天使の姿だった。
演奏を中断して駆け寄り、ジャケットを掛けてやる。シャツの背中の部分が不自然に隆起しているのを、見られやしなかったろうか。
「先生、この人は……」
「私の友人です。戦争帰りで、体調が悪くてね。……申し訳ないけれど、今日は帰ってください」
「でも」
「なあに、問題ないですよ。さあ、帰った帰った」
子供が下へと続く階段を降りていくのを見届けて、うずくまる天使を助け起こし、シャツを脱がす。
溜めていた力を解放するように──服を破らないように我慢していたのだろうか?──勢いよく展翅する。この前見たときの二倍くらい、大きくなっていた。成長したのかもしれない、と思い、慌ててひしゃげていた箇所を確認した。親分の処置が功を奏し、歪んだりせず真っ直ぐ大きくなっていた。安堵した私は、天使の額から汗を拭いてやった。
汗?
汗を掻いているところなど、見たことがなかった。それに、こんな、苦しそうというか──人間臭い表情を見たのも初めてだった。
「一体何が……」
返事のように、ぶう、という音が聴こえた。
私は立ち上がり、後退った。
例えるならば、フルートの三十二フィート管のような。豊かで澄んだ、バロック・バリトンのような。そういう音が、明らかに、翼から発された。
「そりゃお前、あれだろ。第二次性徴」
心配になって親分を呼びつけると、うんうんと頷きながらそんなことをのたまう。
「真面目に考えてくださいよ。ねえ」
天使に同意を求めると、困ったように、ぼ、と音を鳴らした。
日に日に男性らしくなっている、と私の目には映るが、体内に大きな翼を格納するのだから外殻がより逞しくなるのが道理だろう。そもそも他の天使の姿というのは、かなり信憑性に欠けるスケッチでしか残っていない。
それ以外にも、色々な変化があった。
翼を自分の意思で──意思の内容自体は私には計り知れないわけだが──出し入れできるようになった。
音楽の好みが広がったのか、天使由来ではない音楽にも興味(?)を示すようになった。
翼を出さなくても浮遊できるようになった。ただ、横でオルガンを弾いてやっているときの方が飛びやすそうだった。というか、教会の天井を突き破りそうな勢いで飛び始めたので慌てて弾くのをやめて、オルガンのそばに戻ってきてもらった。
「そろそろ行けるんじゃないか?」
「そうかもしれないですねえ」
それで、次の〈お通り〉の時、私は天使を教会の庭に出して、お別れをした。
「そろそろ君の仲間が上空を通過するそうですよ。きっと今のきみなら合流できるでしょう。元気でやるんですよ。その服は持って行って構いません。私のじゃないしね」
握手をすると、天使はまた困ったような顔をして、ぷい~と高い音を鳴らした。
私は見えなくなるまで手を振って、そのまま防音壕へ行った。
暗がりの中で、夢を見た。
あの子の夢だった。
あの子は、塹壕にいた。日の出とともに出撃するのであろう。合図のラッパを待っている。何十人もの戦友とともに、銃を握りしめて、蹲っている。行かないでくれ、と私は叫ぼうとするのだが、風が強すぎて、あの子の耳には届かない。
行かないでくれ、お願いだ。
曙光が地平線を割る。ラッパが鳴ろうというまさにその時に、砲弾が塹壕を粉々に砕く。
夢は途切れない。
行軍中に奇襲を受ける夢。
海軍に入れられて沈没する夢。
様々な戦死のイメージが私を苦しめる。
あの子が最後に作った課題を、私はまだ手元に置いている。不出来な変奏曲だった。あの子に作曲の才能はなかった。それを一番わかっていたのは、誰よりも熱心だったあの子自身だ。
退学して出征する、と聞いたとき、私は引き止められなかった。あの子は晴れやかな顔で教授室を辞去した。
馬車を送り出したとき、何かが終わってしまった、と思った。
だから、あの子の家族から戦死の報告を受け取ったときも、不気味なぐらい冷静だった。
殺したのは私だ。
もう何年も作曲をしていない。
私は苦しみ続ける。このうめき声は、防音壕にいる限り、誰にも届くことはない。誰にも見えはしない。
防音壕から帰ってくると、教会の前の広場に穴が増えていた。全裸の天使を、今度はあの子と見間違えることはなかった。
またしても呼びつけられた親分は天使の身体を確かめて、今度はどこも壊れてないと太鼓判を押してくれたが、どうしたらいいかはわからない様子だった。
「もっと成長しないと上まで行けないのかねえ」
そうだろうか、と私は思った。あの、屋根をぶち破りそうなほどの速度で、天蓋まで到達できないなんてことがあるだろうか。
「どうして成長したのかわからないんだろ」
「そうですねえ。様子見かなあ」
自由に飛べるようになった以上、もはや教会ごときが嗅ぎつけたところで捕獲できはしないだろう。そう思った私は、天使を特に監視せず、自由にさせるようにした。しかし、天使はだいたい私の周りをうろちょろしていた。そして、側溝に嵌ったり、柱にぶつかったりしては、私を困ったような顔で見つめるのだった。
ある日、教授室で事務仕事をしていると、天使が音もなく入ってきた。私は老眼鏡を下にずらして、その姿に目を走らせた。ジャケットがひどく汚れている。茂みで動物でも追いかけていたのかもしれない。また、いつもの困り顔をしている。
「ああ、もう。手間の掛かる子だ」
ジャケットを受け取ってソファに置いた。天使がまだ気が晴れていなさそうな様子なのを見て訝しんでいると、唐突に両手で腕を掴まれ、息を呑んだ。こんなことは初めてだった。そのまま、ピアノの方へとぐいぐい引っ張られ、座らされた。天使は私を促すように、蓋を開けた。
「弾いてほしい?」
切羽詰まった目でこちらを見下ろしてくる。
思いつく限りの曲を弾いたが、その度に手を掴まれた。そのうち、苦しげな音色で、聞き覚えのある旋律が聞こえてきた。私が最初に弾いてみせたあの前奏曲だった。
「ああ、これですね。いいですよ」
私はその曲を最初から弾きはじめた。途中まで弾いたところで、手を掴まれた。これじゃなかったのか、と顔を見上げると、身体の中から最初から弾いたところまでが響いてきた。私がオルガンで演奏した時と、音色までそっくり同じだった。
なるほど、教えてほしいということか。
一度で、というわけにはいかなかった。短いフレーズに分割して、間違いなく再現できるようになるまで繰り返させた。
前奏曲を教え、続きのフーガを教えた。こちらが驚くほどの根気強さで、順繰りに覚えた。一人でフーガまでをつっかえずに演奏できるようになったとき、私は思わず彼にハグをしてしまった。
「いいことを思いつきました! 合奏をしましょう……この曲は最初、足踏みオルガンとピアノの二重奏のために書いたものなんです」
私は楽譜入れから自筆譜を引っ張り出した。天使はこちらのアイコンタクトを察して、一緒に始めることができた。
オルガンで一人で弾くために編曲した譜面と、私がもともと書いた譜面では、音が重なる部分も多い。驚くべきことに、同じ音型を奏でていることを察知すると、それを抜いた。
「はは、すごいですね。さすが天使」
天使の顔が、昔通りの無表情に戻っていた。翼がひとまわり大きくなったかもしれない。もしかして、この表情は、天使なりの上機嫌なのだろうか。
シンプルなA─B─A形式の曲だった。フーガまで弾いたら、最初の前奏曲を繰り返すだけのはずだった。
それが、フーガの最後の和音を鳴らしたときに、予期していない音が鳴りはじめて、私は手を止めた。
「違う、違う。せっかく良かったのに。……また今度、続きをやりましょう」
立ち上がって蓋を閉めると、天使はまた、あの困り顔をしていた。
数日後、親方に偶然会った。私は興奮気味に天使と合奏したことを話した。親方は、靴で足元の石を転がしていた。
「あんまり思い詰めんなよ」
最後まで聞いて、親方はやっと顔を上げた。気遣わしげだった。私は口を噤んだ。
次の〈お通り〉の日、私は防音壕に入らなかった。
天蓋まで行くには、下からの支えが要るのかもしれない、と思ったのだった。音の支えが……その為には、私が演奏する必要があった。オルガンロールでも十分だったかもしれないが、不安があった。
「さあ、弾きますからね。きちんと飛ぶんですよ」
オルガンの張り出しから、教会の入り口に向かってそう叫んだが、天使はまたあの顔でこちらを見上げているだけだった。
すでに、教会全体が震えるほどの音圧が、大気を揺らしていた。私は鼓膜を保護するために濡らした綿を詰めて、その上に布を何重にも巻いていた。それでも、無事でいられる気は全くしなかった。すでに、あまりに激しく全身を揺さぶられているので、気が触れそうだった。
音量を最大解放したオルガンの振動が、そこに加わった。オルガンの音は、これだけの防備をしても、きちんと聞き取ることができた。何という恐ろしい楽器を触ってきたものか、と私は思った。
色々考えたけれど、あの曲を弾くことにした。
あの子にいちばん力を与えられる曲だという自負があった。
前奏曲を弾き終わるころには身体の感覚がなくなっていたけれど、私は幸せだった。
私は、神のものを神に返すことができる。
私は正しいことをしたのだと思える。
あの子はもう飛び立っただろうか。天蓋に辿り着いたころだろうか。仲間の元に戻れて、幸せだといいのだけれど。
ああ、そういえば、あの「今度」は来なかった。最後まで覚えて欲しかったけれど……でもきっと、今ごろは音楽に全身で浸っているのだろう。私には一生聞くことのできない、至福の音楽に。
フーガの最後の音を伸ばしているときだった。突然視界が陰った。目を上げると、天使がそこに立っていた。幻覚かと思った。そう思いたかったのだが、ぷう、と間抜けな音が聞こえてきて、急速に目が醒めるのを感じた。
「どうして……」
翼が白金色に輝いていた。大気に満ちる天使たちの合唱と共鳴しているのかもしれない。
弾くのをやめようとすると、指を重ねて無理矢理弾かせようとしてきた。指まで覚えていたとは、と場違いな感動を覚えていると、教授室でいちど遮った旋律が翼から聞こえてきた。
寄る辺なさを喚起させるような十六分音符のパッセージが二回繰り返され、縺れあうような転調をしながら下降してくる。天使は私の隣に座って足鍵盤でバスを弾き、主音を鳴らした。導かれるような思いで、私は鍵盤に手足を戻し、前奏曲を弾きはじめる。
翼から、パッセージが流れ続ける。それは前奏曲の旋律に時に絡み、時に離れ、長調と短調をゆるやかに行き来し、表情を変える。まるで、悲しみの聖母の周りを飛ぶ、慰めの天使たちのようだった。
これを聞かせたかったのか。天使の方を振り返ると、嬉しそうに微笑んでいた。
最後の音を二人で鳴らした。音の余韻が醒めたころ、天使は私の頭を抱いて身体の中の音を聴かせた。気まぐれに始まり唐突に区切りを迎える、無限旋律。童謡のように愛らしい節回しは、時に謹厳な終止法に回収される。レチタティーヴォのようだった。
私には痛いほどに分かった。地上と天の間に引き裂かれる苦悩を伝えようとしているのだ。
「迷っているなら戻りなさい。ここは君のいるべき場所ではありません」
そう言うと、天使は首を振った。その微笑みに、あの子の姿が重なった。
それでは、これはまるで、遺言ではないか。
地響きがして、それから天が裂けるような音がした。見上げると、天井が崩れて、こちらに向かって落ちてくるのが見えた。
穴の向こうに、天使の大群が犇いていた。空は暗くなり、翼だけが輝いている。生きている間に〈お通り〉を目にすることがあるとは、という場違いな感動が、私から死の恐怖を奪った。
「逃げなさい!」
天使を突き飛ばした。びくともしなかった。天使は内緒話でもするように私の耳に唇を寄せてきた。
目の前が暗くなった。
それは天使が翼を広げて私を包み込んだからだった。
そのままの状態で、私は教会の中で発見された。崩落した天井が私にぶつかることはなく、天使は私の身体を包み込んだまま石化していた。
あとになってそれを知った私は、半狂乱になって泣いた。失ったものを投影した挙句、救うことにまた失敗する。愚かではないか。
しかし、悲しみに浸る間もなく、別の苦しみが私を満たしていた。
私の中で、旋律が荒れ狂っていた。天使の遺言が千々に千切れて、より良い形にしてもらうのを待っているような状態だった。……気付けば、弦楽器とピアノの五重奏が完成していた。直視できないほどの苦痛から救済を絞り出して、紙の上にこぼすような作業だった。この作品は、初演でスキャンダルを巻き起こした。曰く、私はついに生徒と不義をおかした、と。馬鹿馬鹿しい。弁解する気も起こらなかった。
親分に打ち明けたら、呵々大笑した。
「何も悲しむこたない。覚悟の上で地上に残ったんだろうさ」
「どういうことです」
「お前を孕ませたかったんだよ」
馬鹿なことを。私が憤ってみせると、親分は揶揄うように私の肩を叩いて工房へ帰った。内心、そうかもしれない、と納得していた。天使に男女はないのだから、その表現はあまり適切ではないのだけれど。
日曜の弥撒を終えて、私は教会を出る。
教会の前の広場の穴はすっかり修復されて、花が植えてある。礼拝を終えた近所の人々がベンチの周りでたむろしている。喜捨を求める傷病兵に、子供が親から小銭をもらって分け与えている。
広場の中の道を歩き、足を止める。
道との境目のあたりに、天使の石像が置いてある。石造りのオルガンの前で、演奏台に身を乗り出すようにして、翼を丸い形に広げている。子供たちが代わる代わるそのモニュメントに入って、弾き真似をする。子供は天使の翼に抱かれているような格好になる。
お前が俺より先に死んだら、と親分は神妙な顔をして言ったものだ。──お前の石像を作って、あそこに嵌め込んでやるよ。
悪い考えではない。子供たちから遊びを奪うのは申し訳ないが。
私は広場を抜け、歩きはじめた。
石で作られた譜面には、天使が作った変奏曲が刻み込まれている。
黄色いベスト運動の最中にサントクロチルド聖堂に行ったりモンパルナス墓地に行ったりしたパリ旅行の思い出です。(大嘘)