プロポーズ
「ケイルのことご存じだったのですね」
カラカラになった喉から擦れた声を出したセフィーユにクレインが悲痛な表情をする。
「あの時、助けてあげられなくてすまない。君があんな目にあった時に、傍にいてあげられなくてすまない」
「クレイン様のせいではありません。それに執事や使用人達のおかげで未遂で済みましたから」
未遂で済んだとしても婚約者でもない男に肌を見られたことには変わりない。いや、未遂で済んだということさえ言い訳に聞こえるのかもしれない。なにせ証明のしようがないのだから。
ぎこちない笑みを作るセフィーユにクレインは端正な顔を歪ませた。
「未遂だとしてもセフィーユが負った心の傷は計り知れない。セフィーユが自ら復讐を望んでいたようだったから我慢していたが、何度奴らを闇に葬ってしまおうと考えたか……。本当は子爵が亡くなった時点で君を迎えに行こうと思っていた。ただ準備にちょっと時間がかかってしまって……まさか、こんなに早く爵位を譲渡して子爵家から出るとは思わなかったから」
「早い方が踏ん切りもつきますし、また叔父達に強硬手段に出られたら困りますので」
「セフィーユが家を出る時は私の元を訪ねてほしいと言ったはずだが?」
「クレイン様にこれ以上ご迷惑をおかけしたくなかったのです」
「セフィーユ!」
心中の動揺を悟られないように淡々と返答をするセフィーユに、クレインは怒ったように彼女の名前を呼んだ。
その声音にビクっと肩を震わせたセフィーユが顔を上げると、目の前には怒声とは裏腹に縋るような眼差しで自分を見つめるクレインの姿があった。
「君があの忌まわしい事件で心に深い傷を負っているのは解っていた。だから君の心の傷が癒えるまで、いつまでも待っていようと思っていたんだ。でも私から離れていくのはダメだ。それだけは許容できない。……セフィーユは私と一緒にいるのは嫌?」
「そ、そんなことは……」
瞳を彷徨わせるセフィーユに、クレインは静かに、だがきっぱりと告げた。
「私はセフィーユを愛している。だから君には私の傍で幸せになってほしいと思っている。どうかサクシード侯爵家に来てほしい。私の大切な伴侶としてずっと一緒にいて欲しい」
クレインの言葉にセフィーユの瞳に涙が浮かぶ。
ケイルに襲われた時に咄嗟に声にならない声で助けを呼んだのは、父でも他の誰かでもなく諦めたはずのクレインの名前だった。
いつだって自分に優しかったセフィーユの大好きな人。
妹にしか思われていないと思っていたのに、両思いだったことに心が跳ねる。
けれどもう遅いのだ。
子爵令嬢ですらなくなった自分が侯爵であるクレインと結ばれることはない。全てはセフィーユが爵位を捨てても醜い報復を選んだ故に招いたこと。
でもその選択に後悔はなかった。忌まわしい過去を乗り越えるためには必要な儀式だと思ったのだ。
「申し訳ありませんが私はもう貴族ではありませんし、ケイルが私にしたことだって、いつ噂になるか分かりません。私はクレイン様に相応しくありません」
自分に言い聞かせるようにセフィーユが否定の言葉を口にすると、クレインが新緑の瞳の色を濃く染める。
「身分のことならどうとでもなる。あの事件だって気にしていないといえば嘘になるけれど、私がセフィーユを好きだという気持ちに変わりはないよ。それよりも私は君の正直な気持ちが知りたい」
「私は……」
言い澱むセフィーユにクレインが悲しそうに瞳を伏せる。
「セフィーユは私のことが嫌い?」
「嫌いなんてこと有り得ません! こんなに好きなのに……!」
クレインの言葉に、思わず本音が漏れてしまい慌ててセフィーユは口を噤む。
しかし確かに聞こえたセフィーユの言葉にクレインの顔がぱっと明るくなった。
「なら、私達が一緒になることに何も問題はないね」
「へ? いや、でも、それは、だから……」
にっこりと笑ったクレインはソファから身を乗り出すと、混乱して意味のない接続詞を並べるセフィーユの頬へ手を伸ばそうとして、ハっと止めた。
「ごめん。好きだと言われて、ちょっと浮かれ過ぎた。あんなことがあったんだ。男性に触れられるのは抵抗があるだろう」
セフィーユへ伸ばした手を引っ込めて、クレインは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「セフィーユに触れるのは、君の傷が癒えるまでちゃんと待つから安心して。何年でも待つよ。私は君が一緒にいてくれればそれだけで幸せなんだ」
そう言って優しく新緑の瞳を細めたクレインに、セフィーユは先程扉の前で助けてくれた時のことを思い出した。
あの時は転びそうになったセフィーユを支えてくれたクレインが、すぐに手を離したことに少しだけ寂しさを覚えたが、どうやらセフィーユを気遣ってくれてのことだったらしい。
そのことにセフィーユの頑なだった気持ちが融けてゆく。
「触ってくださっても大丈夫です」
「だが……」
「クレイン様だから触れてほしいんです。私の……好きな人だから……。ずっと、一緒にいてくださるのでしょう?」
「セフィーユ……そんな可愛いことを言われたら我慢できなくなる」
ソファから立ち上がったクレインがセフィーユの前へ移動し、躊躇いながらも手を差し出す。
その手に自身の手を重ねたセフィーユが微笑むと、クレインは極上の笑みを浮かべた。
「もう逃がすつもりはないからね。それと貴族とか平民とかって、侯爵家の権力を以てすれば関係ないんだよ。せっかくある力なんだから、使えるものは使わないとね」
不敵に笑って言ったクレインの言葉にセフィーユはキョトンと首を傾げる。
そんなセフィーユの手を引いて開門橋を後にしたクレインは、終始ご機嫌の様子でサクシード侯爵邸へ帰って行ったのだった。
クレインの言った意味が上手く理解できなかったセフィーユが、侯爵家の権力というものを身を以て知ることになるのはこのすぐ後である。