開門橋での待ち人
セフィーユはロズベルト子爵家の一人娘で、数年前に母が他界し父と暮らしていたのだが、この度その父も他界してしまい父の弟に子爵位を譲り平民になった。
この国では女性は爵位を継げないが婿を取れば問題はない。しかしセフィーユは子爵家を継ぐつもりはなかった。
勿論、爵位を返上することもできたのだが、それは出来ない理由があった。
だから前々から貴族になりたがっていた叔父に爵位譲渡の話をすると、喜々としてセフィーユが差し出した必要書類へ次々とサインをしてくれ、先程漸く全ての引継ぎが完了したのだ。
「隣国か……、とにかく頑張って生きていかなくちゃね。使用人のみんなが私のためにって残してくれた金貨もあるし、きっと何とかなる!」
パシンっと頬を両手で軽く叩き、少しの間潮風に吹かれながら佇んでいると、海の国境と呼ばれる開門橋へ辿りついた。
外海へ出る船の乗客は、湾の出口である岬と岬の先端に造られたこの開門橋で身分証を提示しないと、国外へ出られない仕組みだ。
セフィーユも財布の中へ忍ばせていた、つい先日出来上がったばかりの平民の身分証を取り出す。
開門橋は名門サクシード侯爵家の管轄であり関所もかねている。
サクシード侯爵領はロズベルト子爵領の隣地に面しているため、セフィーユは幼い頃から侯爵家の方々と親しく交流をしていた。
だが貴族でなくなったセフィーユは彼らともう気安く会うことはできない。ましてや隣国へなど行ってしまえば、二度と会うことはないだろう。
次第に大きくなっていく橋には侯爵家の紋章が刻まれていて、その紋章を見ると胸が切なく痛んだが、身分証を握りしめると、慌ただしく整列する人の群れに順序よく並んだ。
通行検めの騎士へ身分証を見せると、何故かセフィーユの顔と身分証を見比べた侯爵家の騎士が表情を強張らせ、個室へ来るように促される。
周囲が騒めく中、言われるまま騎士についてゆくセフィーユだったが、もしかして自分の身分証に何か不備があって出国できないのではないかと、内心は気が気ではなくなっていた。
(せっかく計画通りにいっていたのに、どうしよう……)
じわりと嫌な汗が浮かんでくるセフィーユを他所に、騎士は豪華な意匠が施された扉の前で立ち止まると、緊張したようにノックをする。
すると内側から勢いよくドアが開かれ一人の男性が飛び出してきた。
扉の正面に立っていた騎士は普段から鍛えているだけあって、いきなりドアが開いたにも関わらず扉との衝突を回避していたが、少し後ろに控えていたセフィーユは、驚いた拍子にバランスを崩し倒れてしまいそうになる。
衝撃に備えてぎゅっと身構えたセフィーユの身体は、しかし次の瞬間伸びてきた腕にしっかりと支えられていた。
「セフィーユ! 間に合って良かった!」
「クレイン様!?」
微かなムスクの香りと焦ったような声音に、セフィーユは自分を支えてくれた相手を悟って驚きの声を出す。
顔を上げると思ったよりも近くに新緑の瞳があって、セフィーユはドキドキしながらも目の前の人物に問いかけた。
「どうしてクレイン様が……領主様自らが開門橋にいらっしゃるの?」
セフィーユの転倒を阻止したのは、この開門橋の管理をするサクシード侯爵家の若き当主クレインだった。
だが幾ら管理をしているとはいえ領主自ら開門橋にいることなど滅多にない。だからセフィーユの疑問は尤もなことだった。しかしクレインはセフィーユの質問に新緑の瞳をカッと見開く。
「どうしてって……セフィーユを迎えに来たんじゃないか!」
少しだけ語気を強めて応えたクレインだったが、驚いたように自分を見上げるセフィーユに、ハッとしたように慌てて彼女を支えていた腕を引っ込め小声で謝罪した。
「ごめん……怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ、ちょっと余裕がなかった」
「いえ、私の方こそお手を煩わせて申し訳ありません」
自身を支えてくれた手の温もりが消えたことに、一抹の寂しさを覚えたセフィーユが静かに首を横に振ると、とりあえず室内で話そうと貴賓室らしい部屋へ入室を促される。
通された部屋で勧められるまま豪奢なソファに腰掛けると、対面に座ったクレインが静かに微笑んだ。
「それでセフィーユはどうして隣国行きの船に乗っていたのかな? まさか私に黙って国外へ行こうとしてた訳じゃないよね?」
新緑の瞳にアイスグレーの髪を靡かせたクレインの笑顔はとても美しい。だが美しすぎるが故に何だか凄みがあって、セフィーユは視線を逸らした。
「それは……。私はもう貴族ではないですし、爵位を譲渡した今、国内にいるのも憚られましたので」
「私が守る! そう言ったじゃないか! たまたま私の従者が港町で君を見かけたからここで掴まえられたけれど、もしこのまま君が国外へ行ってしまい、行方が分からなくなったらと考えただけで目の前が真っ暗になる」
そう言うとクレインは自身の拳を握りしめる。
「セフィーユは! ……セフィーユは、私と離れても平気なのか?」
縋るように告げられた言葉に、セフィーユの心が揺さぶられた。
「クレイン様……」
「私は耐えられない。セフィーユ、お願いだから私から離れていかないで。どうか私と一緒にサクシード侯爵家へ来てほしい」
「でも……」
「承諾以外は聞きたくない。大体子爵家の借金だって我がサクシード家で立替えできたのに、君が嫌がるから我慢したんだ。これ以上は譲歩できない」
「申し訳ありません。でも借金を立替えてもらうことだけは、どうしても嫌だったのです」
セフィーユはそう言ってクレインを見つめると、小さく一つ溜息を吐いた。
セフィーユが爵位を返上できなかった理由、それはロズベルト子爵家に結構な額の借金があったからである。
借金は爵位を返上しても残る。しかし爵位を譲渡すれば子爵家の財産や屋敷と共に借金も譲渡されるのが決まりだ。騙し討ちみたいだがセフィーユは、ちゃんと叔父に譲渡の書類を確認させており、そこにはきちんと借金のことも記載されていた。
憧れの貴族になれることに浮かれて、中身をよく確かめることもしなかった叔父が借金に気が付くのはいつになるのか。気付いたところでどうしようもないのだが、あの叔父のことだ。セフィーユを捕らえて、無理やり娼館に売り飛ばす位のことはするだろう。
だから叔父が借金に気が付く前に出来るだけ早く行方を眩ませようと、セフィーユは隣国行きの船に乗り込んだのだった。
そもそもロズベルト子爵家の借金は叔父の散財が原因だ。
叔父も叔母も定職に就いたことがなく、セフィーユの父にお金を無心しては遊興を繰り返していた。
普段は王都の屋敷で暮らし、お金が無くなれば無心に来る。子爵家に滞在中はセフィーユや使用人を「田舎者」だと馬鹿にして傍若無人に過ごし、まとまった金をせしめるまで居座る。
父が弟である叔父に甘かったため我慢していたが、セフィーユと使用人は彼とその家族を好きではなかった。
セフィーユの父は、叔父が愛妾の子だからと正妻である祖母の命令で子爵家を出され、平民にされたことに負い目を感じていた。だから叔父に強請られるままずっとお金を渡し続けた。
叔父といえば、そんな父に感謝するどころか当然のように享受し、更には父に無断で子爵家の領地を抵当に借金を重ねるようになっていった。その結果が、今のロズベルト子爵家の財政状態なのだった。
クレインの新緑の瞳を見据えて、セフィーユは自嘲的に微笑む。
「我が家の借金は、散財しては毎回泣きついてくる叔父の借金を父が肩代わりしたことと、叔父が勝手に領地を抵当にお金を借りたために、それを取り戻すためできたものです。父は叔父に甘かったですが私は違います。私はどうしても彼らに仕返しがしたかった。自分で作った借金で苦しんでほしかった」
セフィーユはギュッとスカートを握りしめると、笑顔を貼りつけた。
「私は身内に報復をするような浅ましい女です。名門サクシード侯爵家へ招かれるような人間ではありません」
そう言って瞳を伏せたセフィーユに、クレインが眉を寄せる。
「セフィーユが報復を選んだことを私は否定しないし浅ましいなんて考えていない。……むしろ私はもっと手酷く奴らに復讐するつもりでいたのだから」
「え?」
クレインの言った意味が理解できずに、セフィーユは瞳を瞬いた。
平民だった叔父と侯爵であるクレインに接点などあるはずもないのに、どうしてクレインが彼らに復讐を考えるのかとセフィーユが訝しむと、絞り出すような苦々しい声が聞こえた。
「セフィーユ、君が叔父一家へ仕返しを考えた本当の理由を私が知らないとでも思ってる? 私のセフィーユに愚かにも手を出そうとしたあの出来事を」
ヒュっと息を飲んだセフィーユは、自分の喉の音が鼓膜を突き刺すような感覚を覚え身体が震える。
(まさか……クレイン様はあの事を知っているのですか?)
セフィーユが蒼白になった顔を上げると、先程まで浮かべていた笑みを消して無表情になったクレインと目が合い、ひた隠しにしていたあの事件が露呈していたことを悟る。
自分が平民になろうとも仕返しを望む程、セフィーユが叔父一家を嫌った理由……。
心臓の慟哭が響く中、セフィーユはあの日のことを思い出していた。