爵位の譲渡
質素なワンピースを着て、少しクセがある長いミルクティー色の髪をポニーテールにしたセフィーユは、小さな鞄と封筒を持って住み慣れた自室を後にした。
庶民が履く丈夫なブーツの足音がコツコツと廊下に響く。
階段を下りてエントランスへ行くと、派手な色のジャケットを着た叔父と、やたらと胸を強調したドレスを着た叔母が、そわそわしながら立っていた。
ルーズな彼らが約束の時間ぴったりに現れたことに少し驚くが、それだけ今日という日を指折り数えて待っていたのかと思うと、セフィーユは顔には出さないけれど少し笑ってしまう。
足音に気が付いた叔父は、ギラつく瞳に満面の笑みを浮かべて手を差し出してきて、叔母の天まで突き刺すような長いマスカラと濃いアイシャドウに彩られた瞳も、食い入るようにセフィーユの手にした封筒を見つめている。
セフィーユが黙って叔父に封筒を差し出すと、二人はひったくるように奪い中身を確かめた。
「うむ、うむ、うむ。では本日付で、このロズベルト子爵家の当主は私だと正式に受理されたのだな!」
「おめでとうございます、あなた! これで私も晴れて子爵夫人なのね! 夜会にお茶会に、あぁ、これから忙しくなりそうで大変だわ! ケイルの結婚相手も捜さなければならないし、ジュリアの嫁ぎ先も見つけなければ!」
叔父は十数枚ある書類全てを見ることはせず、最初の一枚だけを見ると残りをさっさと封筒へ仕舞いこみ、胸に抱き込んで感慨に浸っている。
その隣では叔母が大変だと言いながら満面の笑みを見せていたが、セフィーユと目が合うと不快げに眉を寄せた。
「それで? セフィーユはいつまでここにいる気なの? 貴女はもうこの子爵家とは縁を切ったのでしょう?」
「書類をご確認いただけたのなら、すぐに出て行きます。それでは」
淡々と答え立ち去ろうとしたセフィーユが玄関の扉へ手をかけようとすると、外側から勢いよく扉が開けられ派手な柄のジャケットを着た男と、これでもかと胸の谷間を強調したドレスを着た女が、バタバタと品のない音を立てて飛び込んできた。
不意に扉が開かれたので反射的に後退ったセフィーユの姿を、入ってきた女の方が見とめて、びっくりしたように目を瞬かせる。
「なんだ、セフィーユったら、まだいたの?」
「今、出て行く所です」
溜息を我慢したセフィーユが無表情で返事をすれば、男の方がくるりとターンをしながら流し目を作って言った。
「平民になって出ていく位なら僕と結婚すれば良かったのに、お前って本当にバカだよな」
「……」
「お兄様ったら、いつまでセフィーユなんかに拘ってるの? これから本物の美しい貴族令嬢達が、お兄様を待っているのよ?」
「それもそうだな。僕ほどの男が、何もこんな平民女なんか態々相手にする必要はないよな。これからは貴族の令嬢達を選び放題ってワケだし」
「そうよ! 子爵令嬢じゃなくなったセフィーユなんて何の価値もないんだから! それよりも身分が釣り合うようになった私を巡って、貴族の令息達が争ったりしたら困るわぁ」
無言のセフィーユをネタに喧しく騒ぎ立てているのは叔父と叔母の子供達、従兄のケイルとその妹のジュリアである。
二人とも両親譲りの金髪碧眼で美形といえば美形だが、自意識がやたらと過剰な上に思い込みが激しかった。
自分達の描く未来を想像して興奮したようにはしゃぐ二人を冷めた目で一瞥し、セフィーユが改めて立ち去ろうと反転すると急に後ろから鞄を引っ張られる。
危うく後ろへ倒れそうになるのをすんでの所で耐えたが、セフィーユの鞄はジュリアに奪われてしまっていた。
先程から出て行けと言いながら何度妨害すれば気が済むのかと、思わずセフィーユがジュリアを睨むと、視線を受けた従妹は鼻で笑った。
「セフィーユはもう子爵家の者じゃないんでしょう? だったらこの家の物は何も持ち出してはいけないのよ? そんなことをしたら泥棒ですもの」
「あぁジュリア、何て賢い子なの! そうよね。この娘は身一つで出て行くべきよね」
「それなら着ている服だってダメなんじゃないのか?」
「やだー! お兄様ったら! 流石に裸で放りだす訳には、いかないじゃなーい」
「その方が却って物好きな奴に拾ってもらえるんじゃないか? どうせ行く宛なんてないんだろう?」
ジュリアの言葉に叔母が同調し叔父が頷く。厭らしい目で今にも服を脱がそうとするケイルの手を振り払い、脱兎の如くセフィーユが屋敷を飛び出すと、後ろでどっと笑い声が聞こえてきた。
どうやら追いかけてまでセフィーユの服を剥ぎ取るつもりはないことに少しだけ安堵するが、自分の身体が小刻みに震えていることに気が付く。
こわばる心と身体を解すため深呼吸をして、ぎゅっと唇を噛みしめると、セフィーユは振り返りもせず生まれ育ったロズベルト子爵家を足早に後にした。
暫く街道を歩いていると、後ろから乗合馬車が走ってきたので手を上げて止める。
この時間に港町まで行く乗合馬車がこの道を通ることを知っていたセフィーユは、時間通りに来た馬車にホッとすると荷台に座った。
ちなみに馬車の代金はブーツの中に潜ませた財布から支払ったし、下着に隠しポケットを縫い付けて母の形見の指輪と数枚の金貨も持ち出し成功である。実はジュリアにとられたあの鞄には下着と本しか入れていなかった。強欲な叔父一家なので、きっと鞄は取り上げるだろうと予測していたのだ。
だが、さすがに服を脱げと言われたときには恐怖を覚えて震えてしまった。
セフィーユの頭に消え去りたい苦い記憶が浮上してきて、慌てて気持ちを切り替える。
「大丈夫……大丈夫。きっと上手くいくわ」
自分に言い聞かせるように囁き、鞄を開けた叔父一家のことを想像する。
あの鞄には昨日、薬で眠らせたメスの虻を下着の間に数匹潜ませておいたのだ。きっと今頃は、薬が切れてお腹を空かせた虻が目を覚ましていることだろう。
「虻って刺されると地味に痛いのよね。本番前のちょっとした悪戯心だったんだけど、激高して追いかけてきませんように……」
クスリと微笑んだ後、僅かに眉を顰めて小さく呟くと、セフィーユは馬車の外の景色を振り返る。
目を凝らして馬車の軌跡を眺めたが、どうやら追いかけて来る人影はなさそうで、逸る気持ちを抑えながら暫く乗合馬車にゴトゴトと揺られて港町へ辿り着くと、セフィーユは迷わず乗船場へ向かった。
今日は月に2回ある隣国への定期便が出ている日だ。
セフィーユはその乗船券を買い求めると出港間近の船へ飛び乗り、桟橋から船が離れた頃に深く安堵の溜息を吐いた。
「これで一安心ね。それにしても叔父たちは、あの屋敷に使用人が一人もいなかったことを不審に思わなかったのかしら? 大方、貴族になれると浮かれて気が付かなかったのね」
執事を含めた使用人達には、出来る限りの退職金を渡して昨日までに解雇していた。
叔父一家に仕える気はないという使用人達の意見を尊重した結果だ。
「まぁ、これから使用人を雇う余裕なんてないでしょうけど」
そう言って意地悪く笑うと、汽笛をあげて進む船の甲板の手摺に凭れるように寄りかかる。
「我ながら性格が悪いかな? でも、いい気味。他人の痛みを少しは思い知ればいい」
冷笑を浮かべ丘の上に小さく見える子爵家を眺めたセフィーユは、父が亡くなる以前から今日までずっと張り詰めていた日々を思い出していた。




