パープル・ドラゴンの悲劇
さてドラゴンにはさまざまな色をしたのがいるものですが、そのなかでもムラサキ色をしたやつはたいそう性悪なのだと、かの『オズの魔法使い』の作者であるL・フランク・ボームが述べています。
ですが読者のみなさまには、あまりパープル・ドラゴンというのになじみがないのではありますまいか。レッド・ドラゴンなら炎を吐くというわかりやすい特徴がありますし、ブルー・ドラゴンはたいがい水属性や冷気属性ですね。でもパープル・ドラゴンというのはパッとしない存在になりがちです。毒属性だとかませのイメージがいなめませんし、闇属性がある場合はたいていブラック・ドラゴンが担当することになるでしょう。
いみじくもボームの紹介におけるパープル・ドラゴンも、性格の悪さや食い意地のきたなさばかりが目だって、色がムラサキ色であることの真価を発揮しないままにやられてしまいます。せいぜい、その血がラズベリー・ジュースである、というていど。もちろん、ひと死になどもってのほか、陰惨さの翳がない明るいおとぎ話であるボームの世界で、ドラゴンの邪まさを十全に発揮することはゆるされなかったのでしょうけれど。
そんな「グリム」の力がおよばぬ平和な国に、エロくやらしく……じゃなかった、清く正しく美しいお姫さまがおわしました。その上この姫めっぽう強いのです。剣を把りて無双、弓矢を射放ちて百発百中、馬を駆っては持ったままあがり三ハロン独走――とまあ、武芸百般向かうところ敵なし。
「わが夫となるは、われよりも強き殿がたのみ」
と十四のころに高らかに唱えまして、はや五年。歳を重ねるごとに姫の腕前はますますあがり、国内の勇士はもとより、諸国の王子ものこらず白旗をかかげる始末でありました。このままでは嫁きおくれてしまうと、姫の父母たる両陛下が悩み顔になるのも無理からぬことであります。姫ときたら、もはや挑んでくる婿どの候補も、挑むべき強大なライバルもいないのに、毎日のお稽古を欠かさないのですから。
「姫や姫、剣や馬術の練習ばかりしていないで、そろそろ花嫁修業をだね……」
とうとう国王陛下がお話を切りだしたのは、姫の二十歳の誕生日も近づいてきた春のある日のことでありました。だんだん顔をあわすとお小言が増えてきた両陛下をふだんはさけていた姫ですが、剣のお稽古をするために近衛騎士団長のもとを訪ねなければならなかったので、まちかまえていた王陛下につかまってしまったのです。もはや剣で姫の練習相手になるのは、国じゅうに騎士団長どのしかいなくなっていたので。
姫は一瞬だけほおをふくらましましたが、すぐににっこりとほほえんで王陛下に向きなおりました。とても愛らしい笑顔で、王陛下もつい厳しい表情をゆるめてしまいます。
「父上、おとといおめしになられたウサギのキッシュは、いかがでしたか?」
「おととい――ああ、うむ、そういえばキッシュがあったな。料理長の作ではなかったようだが……もしや、あれは姫がつくったのかね?」
「お味はいかがでしたか?」
「滋味ゆたかで、濃密であった」
「それは、美味しかった、という意味でよろしいでしょうか?」
姫は小首をかしげます。生まれながらの高貴な身の上、宮廷料理以外を口にしたことのなかった王陛下はしばらく眉根を寄せていましたが、言葉がみつからない、といった感じでうなずきました。
「余の食べつけておる味ではなかった。だが、まあ、美味かったといえばそうだろう」
「よかった。材料のウサギもわたくしが狩りで獲ってきたものだったのです。お料理はできる、と認めていただけるようですね」
「姫や、そなたは猟師や木こりの奥がたになるわけではないのだよ。あのウサギのキッシュが悪いという意味ではないが、内親王としての作法を覚えなければ」
「父上はすこしお考えがお古いのではありませんか?」
うら若き姫は世の娘子が石頭の父親に対して使うときの常套句を向けましたが、今日の王陛下はちょっといつもより真顔です。怒っている、というよりは、苦笑気味のなだめるような表情でしたが。
「古いのは余の頭ではないのだよ。国民のほうがそうしたことにはうるさいものだ。やれ伝統だ格式だ品位だと、なにかにつけて王侯の身を縛りつけておきたがる。自分たちは進歩的に好き勝手やるが、王族が開放的に振る舞うのはゆるせない、というわけさ。……まあ、しかたがないがね、国家のスポンサーは彼らだ。民が税を収めてこそ国は成り立つ。こづかい銭を出すがわが、受け取るがわの使途に口を出すのは無理のないことだよ。浪費されては困るが、王家の威厳ひとつも保つことのできない、甲斐性なしの三流国民だと異邦人に思われるのはもっと癪だというわけでね」
「国民のご機嫌とりをするために、わたくしは自分より弱い殿がたに嫁いで剣も弓も捨てなければならないとおっしゃるのですか」
姫は柳眉をさかだてて不満を表明します。ですが、王陛下は穏やかにほほえむのでした。姫もオトナの仲間入りをしていてしかるべきお齢になっているのですから、世の中のしくみを呑みくだして、ときには妥協する必要もあると理解しなければなりません。
「そのいいかたは身も蓋もない。だが端的にはそういうことだよ。国民が期待するのは、愛すべき美しくてかわいらしい姫だ。王立騎士団の先頭に立つ戦姫というのは……需要の向きが皆無というわけではないが、一番人気とはいかないな。あいにくと姫はわが王家ただひとりの継承者。跡取り息子も、わかりやすいプリンセス役を引き受けてくれる姉や妹も、どちらも準備できなかった両親を恨むかね?」
「父上、母上をお恨みするなんて、そんな、めっそうもない」
「それでは、父と母の顔を立ててもらえるかな?」
娘もオトナの事情を理解してくれたかと、王陛下は胸をなでおろします。いっぽう姫のほうは、愛らしくも意味ぶかげな表情を満面に浮かべるのでした。
「民が望む姫らしい姫、ですわね。承知いたしましたわ父上、きっと、みなの付託にこたえてみせます」
ちょっと姫のものいいが気になった王陛下でしたが、どうやら上々らしい娘のごきげんに水をさすのもはばかられたので、そのままお話をおしまいにしてしまいました。
……ところが、さあ大変! あくる朝、姫の姿はお城から、影も形ものこさずに消えてしまっていたのです。
☆☆☆☆☆
ところは変わりまして、ここは王国のすみっこもすみっこ、へんぴな山奥の洞窟です。コウモリ以外に住むものとてなかったこの洞窟を、二年ほどまえからドラゴンが巣穴として使うようになっていました。どこからかともなくヨタヨタと飛んできたこのドラゴン、おどろきあわてるコウモリたちに、
「恐れることはない。わしは隠居暮らしをするためにやってきたのだ。鳥もかよわぬこの寒野、おなじ天舞う眷属として、わが無聊をなぐさめてくりゃれ」
と、いかにも枯れきった長老のような言葉をかけて、そのまま洞窟のいきどまりに鎮座ましました。コウモリたちも、そもそも無法な乱暴者なんてやってこない山奥とはいえ、ドラゴンがいれば用心棒にはもってこい、より安心だと歓迎します。ときどきヤマブドウなんかをみつぎものにさしだしたりして、たよれるあたらしい住民をうやまっておりました。
ですがこのドラゴン、じつは隠居するような歳じゃありません。まだまだひよっこの、悪いことをしたいさかりの若いドラゴンなのでした。そしてウロコはムラサキ色。そう、この悲劇の主人公、パープル・ドラゴンご当人(ご当竜、でしょうか?)の登場です。
性悪で陰険なパープル・ドラゴンが、しかも老けこむにはまだまだほどとおい若い竜が、どうしてこんな山奥で早期リタイアを決めこんでいるのかというと、それにはふかい理由がありまして――
おだやかな山奥のゆったりしたときの流れは、ドラゴンの凶猛さすら丸めるもので、早朝を告げる鳥の音もなく、ただ夜の終わりにしずしずと洞窟へ帰ってくるコウモリたちの声なきささやきばかりがひびいて、そのムラサキの身を起きあがらせます。人間とちがってドラゴンは聴覚がすぐれているので、コウモリたちの発する超音波もよく耳に入って、目覚ましにしては少々騒がしいくらいなのですが。
「ふゎぁ……今日も、よく寝たわい」
「ほんとうに、よくおやすみでしたわね」
起き抜けにいきなり話しかけられて、パープル・ドラゴンはびっくりぎょうてんはねあがりました。そして洞窟の天井にしたたか頭をぶつけ、ときならぬ地ひびきに、寝入ろうとしていたコウモリたちがあたふたと飛びまわります。
「ひひひひひひ……姫さま!? このようなド田舎に、いったいどのようなご用件で御行幸おあそばしますか?」
そう、お城から姿を消した姫が、パープル・ドラゴンの洞窟を訪ねていらっしゃったのです。なにを隠そうこのドラゴン、いぜん悪事を働いていたころ、腕だめしにちょうどいい相手がいたぞとばかり、姫に襲われたことがあったのでした。姫を襲ったわけではありません。姫に襲われたのです。そしてコテンパンにやられてしまいました。
ですが心やさしい姫のこと、もう悪事はしないと誓ったパープル・ドラゴンをゆるして、命だけは助けてあげたのです。貯めこんでいた財宝はもとの持ち主に返したり貧しい人々に与えたりして、パープル・ドラゴンは裸一貫、山の洞窟へ引退したのでした。
ぶるぶるとふるえるパープル・ドラゴンに対し、姫はにこにこと笑顔です。
「もちろん、あなたをさがしてやってきたに決まっているでしょう?」
「わしのことをさがして……つ、つまり、やはり王者の証として、竜殺びとの称号を欲しておられるのですな。……くっ、殺せ」
ムラサキ色の全身をわななかせながらも、パープル・ドラゴンはいさぎよく首を討たれるべく身を伸ばしました。性格も顔も悪いドラゴンですが、頭は悪くありません。この姫さまにはぜったい勝てないと、一度戦っただけでよくわかったのです。実力の差はざっと三倍、ドラゴンが三倍強くなるには百年かかります。百年後には、人間の姫はもうこの世のひとではありません。つまりパープル・ドラゴンは姫に勝つことができないのです。
ひとりで勝手に話をすすめてなっとくし、首をさしだすパープル・ドラゴンの姿に、姫のほうは大きな眼をしばたたかせました。
「あなたは、あれからなにか悪いことをしたのですか?」
「めっそうもない。じらい二年間、ずっとこの洞窟で、コウモリだけを相手にしずかに暮らしております」
「それなら、あなたを罰する理由はありません。王族たるもの、約束は守ります」
「では、いったいわしにどのようなご用事が……?」
ようやく話がふりだしに帰ってきて、姫さまはにっこり笑顔にもどりましたが、
「あなたに、わたくしをさらったことにしてもらいたいのです」
と、内容はとんでもありません。パープル・ドラゴンは首をぶんぶんと振って、姫のむちゃくちゃぶりをたしなめます。
「わしにもう二度と悪事をしてはならないとお命じになっておきながら、いまさらになってそのような大それたことをせよとおおせになられても困りますぞ。だいたい、わしに姫さまをさらうだなんて、できるわけないではありませんか。だれも信じませんよ、あなたのほうが強いとみんな知っている」
「そこはあなたは『悪いドラゴン』なのですから、わたくしの隙をついたとか、眠り薬を一服盛ったとか、そういうことにすればいいのです」
「ひどい、それだと、まるでわしが大悪党のようじゃありませんか。だいたい、そんなうわさ話を流して本当にみんなが信じてしまったら、国じゅうどころか世界じゅうから、悪のドラゴンをやっつけて姫さまをお救いしようという連中が押しかけてくる。わしはぶつ切りにされてしまいますよ」
パープル・ドラゴンは無実の罪を着るよう提案してくる姫に、口をきわめて抵抗します。ドラゴンだって命はおしい。いえ、千年だって生きていけるのですから、人間よりもわが身がかわいいもの、それがドラゴンなのでした。
人間の王子や騎士はなにかにつけてドラゴン退治をして英雄になりたがりますから「大義名分」をくれてやったらえらいこと。以前のパープル・ドラゴンも、たまたま姫がきてくれなかったら、どこぞの聖騎士さまの獲物にされていたことでしょう。若気のいたりの代償で死んでいただろうところを、姫に助けてもらった身である、ということはパープル・ドラゴンも内心ではわかっていました。
「だいじょうぶですよ、諸国じゅうの勇士という勇士は、みんなわたくしより弱いのですから。そのわたくしを捕まえるほど悪がしこいドラゴンに、挑む勇気などありません」
姫は笑ってそういいましたが、パープル・ドラゴンは皮肉な調子で反論します。
「そりゃあ、姫さまをお嫁にするための儀式なら、正々堂々、一対一ですがね。なにせわしは悪いドラゴンということになるのですから、ひきょうもラッキョウもありません。騎士団の精鋭が百人千人、魔術師ギルドのトップが援護について、果てはAPFSDSを装填した擲弾筒兵が一個連隊攻めてくるに決まっています。……ああ、ドラゴンだとわかる死体がのこればまだいいほうだ、きっとハンバーグの材料にもならぬ、ひき肉どころかすり身にされてしまうにちがいない。わしは三日もあとにはかまぼこだ」
「それはかわいそうに」
べつにこのドラゴンが憎たらしいと思っているわけではない姫は、よってたかってむごたらしく殺されてしまうというパープル・ドラゴンの主張に心を痛めました。しばしのあいだ考えぶかげなお顔をしてから、ぽん、と手を打ちます。
「では、こうしましょう。声明はわたくしが公表します。さらわれたわけではなく、わたくしがみずからの意志であなたのもとに身をよせたのだと、はっきりさせます。理由は、あなたこそがわたくしの夫としてふさわしいと判断したからです。わたくしを娶りたいと思う殿がたは、一対一で正々堂々、あなたと戦って勝たねばならない、ということにしましょう」
「……ごじょうだんでしょう?」
目が点になったパープル・ドラゴンは問いかけましたが、
「あなたはわたくしより弱いですからね。たしかにわが夫たる資格はありません。これはちょっとしたうそになってしまいますね」
と姫さまが愛らしい表情のままそんなことをいったので、今度は大口がぽかんと開きっぱなしになってしまいました。おずおずと、訊ねてみます。
「軍隊をさしむけて多勢に無勢ならともかく、一対一となると、今度はほんとうにだれも挑んでこない可能性がありますが……?」
「そのときはそのときで、かまいませんわ。わたくしは自分より弱い殿がたに、自分の意志に反して嫁ぐ気はない、というだけですから」
「……つまり、ご自分よりも弱いのだけれど夫にしたい紳士の目星が姫さまにはおありである、と、そういうことですか」
いたずらの現場を押さえられてしまった童子のように、姫はびくりと眼を瞠ってパープル・ドラゴンを見返しました。ドラゴンというのは、基本的には頭がよくて勘もするどい生きものなのです。
「そ……そこまでおみとおしであれば、このさいはっきりとお願いしますわ。わたくしがそのかたと結婚できるように、協力していただきたいのです」
赤らめた顔をうつむかせ、姫はもじもじと真の用件をきりだしました。パープル・ドラゴンの脳裏に『衝撃! 姫さまロイヤルビッチ発覚!!!』なんて、三流ゴシップ誌の見出しみたいな大文字が浮かびましたが、ここで姫を怒らせて斬り殺されるのはいやなので黙っておきました。
王家のしがらみと、以前に姫自身がかかげた条件が重なって、恋路をはばむ障害物となってしまっているのでしょう。ビッチ呼ばわりは短慮というものです。
ため息をひとつついて、パープル・ドラゴンはうなずきました。
「……しかたありませんな。わしは殺されても文句がいえないところを、一度あなたにゆるしてもらっている。この一身命は姫さまのものです、おおせのままにいたしましょう。ですが、ここはごらんのとおりわびしいところです。姫のお暮らしにはたいそう不便ですが」
「それはだいじょうぶ。自分でいうのもずうずうしいですけれど、わたくし、これでけっこう人気はあるのです」
そういって、姫はいたずらっぽく笑うのでした。
☆☆☆☆☆
姫の突然の声明発表は、たちまちのうちに王国のみならず、周辺諸国じゅうを大騒動にまきこみました。姫の母上である王妃陛下はショックのあまりお倒れになってしまいますし、王陛下は「もはや身分はこだわらぬ、人間でさえあれば。すみやかにドラゴンを討ち殺し、不肖のバカ娘を連れ帰ってくれたまえ」と、怒りにふるえてコメントを述べられました。
市井の人々も、顔を合わせばその話題でもちきりです。
「ちかごろの若い男が情けないばっかりに、姫さまもとんだイロモノに走ったものだなあ」
「ドラゴンの嫁になりたいだなんて難儀な性癖の姫のために、わざわざ略奪婚しようと竜退治に挑むやつなんかいるのかね」
「つぎの王さまの地位が手に入るんだ、命をかける価値はあるんじゃないか。おれはやらないけど」
「そもそも姫が本気であんなことをおっしゃるとは思えません。なにかふかい理由でもあるのか、あるいはだまされていたりするんじゃないでしょうか」
「なーに、演出だよ演出。あんまり強くて嫁のもらい手がなさそうな姫さまをむかえる、とっておきの花婿がじつは準備されてるのさ。王子や騎士の身分じゃないから、お膳だてが必要ってところだろうよ」
「それはそうとして、姫さまはパープル・ドラゴンの洞窟にいらっしゃるのでしょう? あのあたりはただでさえ人里はなれてへんぴなところ。姫さまにご不便をかけるようなことがあってはいけない。食べ物とか、お着替えとか、お届けしなければ」
「……む、そういえば、そうだったな」
「私の商会はかねて王室御用達の品々をあつかっております。さっそく姫さまのおんために身のまわりの品をお送りしましょう」
「ドラゴンの洞窟に行ってまでお城とおんなじじゃ、おもしろみに欠けるなあ」
「おらが畑の野菜さ、姫さまにめしあがっていただくええチャンスずら」
「姫さまをめぐってドラゴンと挑戦者の決闘が行われるんだろう? 見物客が大勢くるだろうし、あのへんにはなんにもねえし、いい商売になりそうだ」
……二週間もすると、パープル・ドラゴンの洞窟とその周辺は、御行幸離宮と大キャラバンのバザーが合わさったような、とんでもない賑わいとなりました。
ちょっとした日々のまかないは自分を慕う国民たちがどうにかしてくれると内心期待していた姫ですが、さすがにここまで豪勢なことになるとは思ってもみなかったこと。びっくりして仮納証書(なにせお金は持ってきていません)をしたためようとなさいましたが、商人たちは首を横に振ります。
「諸国じゅうから、ひまなやつは残らず、ひまでないやつだって無理やりひまをひり出して、姫がいずれの勇士のお嫁になるか、見届けるためにやってきます。いい商売をさせてもらうわけですから、このくらい、ショバ代として安いものでさあ」
なかなかどうしてしたたかで、ご自身もすこしばかりあこぎなことをしている手前、姫も強くはいえません。せめて商人たちのもくろみどおり、見物客がたくさんきてくれるよう願うしかありませんでしたが、さて、ほんとうにドラゴンをやっつけて姫をお嫁にむかえようという勇士はやってくるのでしょうか?
ドラゴンの洞窟が賑わっていると、うわさ話を聞いた見物客のほうはすぐに集まってきました。ですが、挑戦者はなかなか現れません。お祭り会場のようになっている洞窟のまわりの出店で飲み食いをし、大道芸を見物したりと、お客がすぐに飽きてしまう心配はなさそうでしたが、それが四日、五日となると、間持ちがしないなあ、と商人たちは悩みはじめることになりました。
姫のほうも、このままだれもこなかったらどうしよう、パープル・ドラゴンのことがけっして嫌いなわけでもないからこんなことをしてみたけれど、ドラゴンのお嫁に本当になってしまうまではいいとして、父上と母上を悲しませたままではよくないな、と、なにも書きおきせずにお城を出てきてしまったのをすこし反省していました。
……そんな、六日めの朝のこと。
ついに旗印をたなびかせた騎馬行列が、パープル・ドラゴンの洞窟がある山へ向かって行進してくるではありませんか。かかげられているのは、リアジュマ騎士団の一番隊長、モーティどのの旗でありました。モーティ隊長は以前に姫との結婚をかけて馬上槍試合にのぞみ、姫の華麗な槍さばきの前に敗れておりましたが、今度の相手は姫ご本人ではありません。パープル・ドラゴンが姫さまよりは弱いと知られていますから、モーティ隊長もつぎこそ勝ちめがあるのではと考えたのでしょう。
ようやく登場した挑戦者に、まちくたびれた見物客たちはやいのやいのと喝采を送りました。洞窟の前にたどりついたモーティ隊長は、馬にまたがったまま、名乗りをあげます。
「われこそはリアジュマ騎士団一番隊長モーティなり! パープル・ドラゴンよ、姫を返すのだ!」
やっぱり悪役にされてしまっているパープル・ドラゴン、姫のほうへ小声で訊ねました。
「どうなさいますか姫さま? 八百長試合でわざと負けてもわしはかまいませんけど」
「モーティ隊長も悪いお人ではありませんが、わたくしの意中の殿がたではありません。大けがをさせないように、やっつけてしまってください」
「……簡単におっしゃいますなあ」
姫におよばないといってもモーティ隊長は槍の名手、パープル・ドラゴンにとっては手強い相手です。ため息をつくパープル・ドラゴンをしり目に、姫はにこやかに洞窟の入口から姿をあらわされます。
「モーティ隊長、よくお越しくださいました。ちょっと勘違いをなさっているようですが、わたくしが先日公表しました声明に、いつわりや他意はございません。パープル・ドラゴンさんがまやかしの術を使ったとか、そのような事実はないのです。正々堂々、一対一で勝負をするとお約束をしていただきたい。だれもパープル・ドラゴンさんに勝てないのなら、わたくしは本当にパープル・ドラゴンさんの妻になるつもりです」
「わがリアジュマ騎士団はみな姫のために命を捨てる覚悟があるのですが……そうおっしゃるなら、名誉にかけて決闘に応じましょう」
ちょっと不服そうながらも、隊長は手を振って、引き連れてきた騎馬軍団を見物客たちのほうへ退がらせます。騎士団の一部隊が全員襲ってきたらとても勝てないパープル・ドラゴン、ほっとして洞窟から長いその身をはい出させました。
「では……いざ、尋常に勝負!」
姫がかけ声をかけると、モーティ隊長は裂帛の気迫とともに愛馬を駆り、猛然と槍をかまえて突っ込んできます。田楽刺しにされてしまうと、パープル・ドラゴンは背中の羽根をばたつかせて空中へ逃れました。隊長がとおりすぎたうしろへ着地して、鼻から煙をふきかけます。
パープル・ドラゴンの鼻息は、馬酔木のように馬や牛を酔っ払わせるにおいがあるのでした。モーティ隊長の愛馬はたたらを踏み、首をぶんぶんと振ってどうにかふらつきをおさえようとしましたが、腰に力が入りません。
走れなくなってしまった愛馬から飛び降り、モーティ隊長は槍を投げつけました。油断していたパープル・ドラゴンの羽根は槍に貫かれ、地面にピンどめされてしまいます。さらに隊長は腰の剣を抜き、ヤァと斬りつけてきました。
空を飛んでのみかわしを封じられたパープル・ドラゴン、必死になって牙で隊長の剣に咬みつきます。もうすこしで上下のあごが泣きわかれになるところでしたが、どうにか奥歯で剣をはさみこむことができました。すかさず両腕をのばして隊長の兜を脱がせ、するどいしっぽの先を彼ののどもとへと突きつけます。
「そこまで! パープル・ドラゴンの勝ち!」
勝負あったと、姫が右手をあげました。牙がぐらぐらになってしまったパープル・ドラゴン、ひぃひぃと息をつきながらへたり込みます。負けたはずのモーティ隊長のほうがしっかりと立っているありさまです。
それでも試合としてはパープル・ドラゴンの勝ちは勝ち、モーティ隊長は頭をさげ、リアジュマ騎士団は悄然と引きあげていきました。
どうやら、パープル・ドラゴンは大して強くないみたいだぞ――そんなうわさが広まって、三日もすると、もしかすると勝てるのではなかろうかと思った挑戦者で、長蛇の列ができるようになってしまいました。
☆☆☆☆☆
それから一週間後――
立てつづけに挑戦者を退けてはいるものの、パープル・ドラゴンはもうボロボロです。両の翼は槍や弓矢に貫かれ、剣で裂かれてボロ布のよう。もう飛びあがることはできません。牙はサメのようにどんどん生えてくるのですが、休みのない連戦で抜けてしまうほうが多いので、残りは四、五本です。全身のウロコも半分以上はがれてしまって、パープル・ドラゴンというより、マダラ・シロムラサキ・ドラゴン(素肌は白いのです)といった感じ。
あわれな姿となっていましたが、腐ってもドラゴン、今日も全員挑戦者を撃退していました。本日最後の相手は全身をぴかぴかの鎧でおおった重騎士でしたが、むしろてかげんしなくてよいので、とうとう竜の吐息を使ったのです。
鎧も手にしていた巨大な戦斧もあっという間に溶けてしまい、パンツ一丁になった騎士どのはあわてて白旗をあげました。パープル・ドラゴンの血はラズベリー・ジュースですが、そのエキスを練りあげたブレスは、鉄が溶けてしまうほど強酸性なのです。
死にかけのドラゴンが最後の手段を放ってくると、明日からは挑戦者がためらうようになるでしょう。もっとも、竜の吐息は一日に三回しか使えないということを、怪物にくわしい賢者であれば知っているはず。四番めをめぐって、順序あらそいがはじまるかもしれません。
「牙とウロコが生えそろうまで、お休みにしましょうか? たしか、休みがないだなんて、ひと言もいっていなかったはずですよね」
パープル・ドラゴンの体調を気づかって、姫がそんな提案をされました。ご自身が強すぎるので気にもとめていなかったことですが、連続で何十人もの勇士を相手に戦えばボロボロになるのが当然なのです。まして、大けがさせないよう、てかげんしながらとなればなおのこと。
「なあに、明日の挑戦者はいまのところ五人だけ。強そうなのは四人で、ひとりはひ弱そうな坊やでしたぞ。どうにかして一回勝てれば、三度は吐息を使ってしまえばいい。坊やにはいまから勝ったも同然です、ご心配めさらず」
六人めがきたらどうするのか考えもせず、パープル・ドラゴンは伊達を気どって強がってみせましたが、姫のほうははっとお顔を変えました。
「ひ弱そうな坊や……まさか、ガリメネ学院のシュノー助手では?」
「はて、そんな名前だったような。たしかそのへんに、挑戦者名簿がありますぞ」
わずかでも体力を回復させるために横になったまま、パープル・ドラゴンは書台のあたりをしっぽで指しました。姫は名簿をめくって、ふるふると肩をふるわせます。
「シュノー……きてくれたのですね」
「姫さま、もしやそのひ弱な坊やが意中の……?」
パープル・ドラゴンがおずおずと訊ねると、姫は頬を染めながらもはっきりとうなずきます。
「はい。シュノーは武芸はさっぱりですけれど、賢く、優しく、なによりも王となるにふさわしい意志の強さがあります。以前はわたくしが失敗したのです、結婚の条件となる競技を、武道や馬術からしか選べなくしてしまったので」
「なるほど。それではどうしますかな、明日の一番手にシュノーどのを指名して、わざとやられてしまえばよろしいでしょうか?」
「いえ、それはよくありません。まずはほかの四人と勝負して、正々堂々退けてから、シュノーと対決にのぞんでください」
姫はあくまで、作為はあれど不正はなしにことをすすめたいようでした。パープル・ドラゴンにとっては難儀なことです。
「……まあ、四人には、がんばって勝ちましょう。ですが、シュノーどのとの勝負は八百長にならざるをえないのではありませんか?」
「名簿でほかの四人についても確認しました。いまからちょっとだけ特訓をしますから、つきあってください。ドラゴンならではの力を使わなくても、勝てるようになります。シュノーとは武術ではなく、チェスで勝負をしてもらえますか。もちろんてかげん抜きで。それで、もしあなたが勝ったなら、わたくしは本当にあなたの妻になりますわ」
「はあ……。わしは、けっこうチェスも強いのですぞ。なにせ山の暮らしは時間ばかりあまりますからな」
じつは唯一の趣味がチェスだったパープル・ドラゴンはそんなことをいいましたが、
「シュノーは自分と互角にチェスが指せる相手がいなくて退屈しています。あなたが強ければ強いほどけっこう。さあ、立って。まずは、ほかの四人に確実に勝てるようになってもらわなければ」
と、姫は凛々しくも剣を抜いて手まねきをします。
……夜明けまでつづいた姫の特訓は、パープル・ドラゴンにとって、これまでの人生……もとい竜生でもっともつらく苦しい時間となりました。
そして明くる日――
モーティ隊長より二倍は強かったであろう四人の挑戦者を、パープル・ドラゴンは自分で信じられないほどあっさりとくだしていました。姫がすこし武芸を教えてくれただけで、パープル・ドラゴンは恐ろしいほど強くなっていたのです。同じ技を使えるようになれば、人間よりはるかに堅牢で反射も早いドラゴンであれば、より強くなるのは当然なのですが。
こんなに強くなっていいのかな、また悪事のかぎりを働いても、今度は負けないのじゃないか――なんて、眠っていた野心がふと頭をもたげるほどでした。
なにせモーティ隊長より二倍強いということは、姫にはまだおよばないまでも、いままでのパープル・ドラゴンならてんで歯が立たないはずのつわものぞろいだったのですから。
見物客たちも、昨日までとはまるでちがうパープル・ドラゴンの動きにどよめいています。
「……なんか、ドラゴンがめちゃくちゃすばやくなってないか?」
「いや、体さばきがよくなったんだ。もともと人間よりずっと筋力が強いし、目方も重たいんだ、さばきがよくなればあのくらいするどい動きになる」
「とうとう本気を出すことにしたってことかい?」
「うーん、昨日まで実力を隠してたっていうふうにはみえなかったけどなあ」
観衆がざわめく中、昨日より強くなっているのがあきらかなパープル・ドラゴンの前へ、シュノー助手はおそれる様子もなく最後の挑戦者としてすすみ出ました。
行儀よく一礼して名乗ります。
「ぼくはガリメネ学院のシュノーともうします。ところでパープル・ドラゴンさん、あなたはご自分と勝負をせよというだけで、なにで競うかは指定なさっていませんよね?」
「よいところに気づいたな坊や。わしとしても、坊やのような弱っちそうな人間を力でひねりつぶしてもおもしろくない。謎かけや芸術作品で競いたいのなら、受けて立とう」
姫からはチェスで勝負といわれていましたが、パープル・ドラゴンはノリでそれらしいセリフを口にしていました。なんとなく、いかにもドラゴンっぽいことをいってみたかったのです。
シュノーはめがねを光らせて、しばし考えてから口を開きました。
「そうですね……。謎解きや詩で勝負というのもおもしろそうですが、勝敗の基準がすこしあいまいかもしれません。チェスはどうですか?」
「ほう。わしもチェスは得意だ。なにせ相手を殺さないように気づかいをせんでもいいからな。もしかするとふつうに戦うより強いかもしれんぞ?」
そらきた、と、パープル・ドラゴンは長い首を洞窟の中へ突っ込み、入り口に準備しておいたお気に入りのチェスセットをくわえて、シュノーとのあいだにすえました。
盤はざくろ石、青の駒はサファイアで、赤の駒はルビーでできています。真ん中のくびれがバネ弁になっている、一方向にしか流れない砂時計がふたつついていて、時計台をひっくり返すと、自分の砂はとまって相手の砂が落ちるようになっています。王さまを詰まされるか、時間切れになったら負けです。
「すてきなチェスセットですね。……どちらが先手なんですか?」
駒が白と黒ではないので、シュノーはそう訊ねました。パープル・ドラゴンはよくぞ訊いてくれたとうきうき答えます。
「じつはこの砂時計、片方だけすこし砂がすくないのだ。先手を選べば持ち時間が減ることになる。好きなほうを選びたまえ」
ずいぶん前に手に入れたチェスセットでしたが、これまで対戦で使ったことがなかったのです。相手がいなかったので。そのかわり、すみずみまで調べてありました。砂時計を横からのぞきこんで、シュノーもなっとくの顔になります。
「時間と手番がバーターになるのなら、どちらでも変わりはなさそうですね。選択はあなたに任せます。ただ……手番と色が関係ないなら、ぼくは赤を使いたいな」
「よかろう、わしが青を持つ。時間をもらおう、きみの先手だ」
バネをとめていたピンを抜いて、パープル・ドラゴンはシュノーをうながしました。シュノーはすぐにdポーンを二マスすすめて時計台を返し、パープル・ドラゴンも時間を使うことなく定跡どおりに指していきます。
……お昼すぎにはじまった対戦でしたが、まわりがすっかり暗くなっても決着はつきませんでした。最初の一局は引きわけで、先手後手をかえながらつづけた三番もすべて流局となりました。パープル・ドラゴンもシュノーも、お互いに尋常の局面にかんしては研究をつくしていると認めあうにいたります。
「お強い……あなたほどの指し手は、はじめてです」
シュノーは楽しそうにそういいました。チェスで実際に他人と対局するのは初体験のパープル・ドラゴンほどではないけれど、彼もずっと手ごたえある相手をもとめていたのです。
「わしはきっと世界で一番チェスがうまくなっただろうと勝手に思っていたが、チェスがこんなに上手な人間もいるのだな」
いままでは教本をたよりに、右の脳みそと左の脳みそ、あるいは頭の脳みそと腰の副脳で対局をしていたパープル・ドラゴンは、他人と指す楽しさにすっかり魅了されていました。こんなにおもしろいなら、ずっと山奥に引っこんでいないで人里のチェス道場にかよっていればよかったなあと思ったりしながら。
……定跡を離れた展開となった五、六局めも流局で、見物客もさすがに眠たそうになってきました。なにせ、半分以上の人には、なにがどうなっているのかさっぱりなのです。それなりに詳しい人たちからしても、ふたりの応酬の意味がわかるのは、十手もすすんでからようやくのこと。そして、現在の局面についてはやっぱりわからないのでした。姫もチェスのことがいくらかわかるようですが、武芸ほどお得意ではないようで、解説陣といっしょに首をひねっています。
七局めになって、パープル・ドラゴンはちょっといじわるをすることにしました。千日手にならないようにしながらも手早く指しつづけて、シュノーの時間切れをさそうことにしたのです。シュノーは着手してから時計台を返しますが、パープル・ドラゴンは鉤爪のついた手で駒を動かし、同時にしっぽで台を返すことができます。
ノータイムでお互いに指しても、シュノーの砂はパープル・ドラゴンより何粒かずつ多く減ってしまいます。
ふつうなら決着がつく手数になっても、局面はまだ中盤ともいえない膠着状態でした。時計の砂は、シュノーはそろそろ半分で、パープル・ドラゴンは全然減っていません。このまま局面がすすまずに時計台をひっくり返す数ばかり増えていけば、決戦前にシュノーの砂はなくなってしまいます。
シュノーは一度手をとめて、じっくりと考えました。それから、ナイトを自分のeポーンの前にすすめたのでした。パープル・ドラゴンのdポーンの右ななめ前です。
ポーンはすすめるのは前だけですが、相手の駒はななめ前でしか取れないという、基本の駒のくせにひねくれた動きをします。パープル・ドラゴンはシュノーのナイトを簡単に取れるのですが、そうするとdポーンはシュノーのeポーンと正面からにらみあいになるので、もう動けなくなります。そしてパープル・ドラゴンは、自分のdポーンの左ななめ前にビショップをおいては引っ込め、ルークをおいては引っ込めたりさらに横へ動かしたりして、時間を稼いでいました。シュノーの手に乗れば、ナイトをただで取れるけれど、時間稼ぎはもうおしまい、ということです。
パープル・ドラゴンは考え込んでしまいました。ナイトを取ればぜったいに得です。ですが、時間稼ぎ作戦はこれまでとてもうまくいっていました。それを捨ててまで数の有利を取るべきでしょうか?
考えて、考えて……あっと思ったときには、パープル・ドラゴンの砂はシュノーと同じくらいまで減ってしまっていました。これまでの作戦は水の泡です。
ええい、もう一度同じだけ時間稼ぎをすればいい、と、パープル・ドラゴンはナイトを取らないことに決めて、ルークを盤面中段へとすすめました。
シュノーはすぐにつぎの手を指します。パープル・ドラゴンのdポーンの真うしろ、ナイトのにらみが利いているところに、クイーンが飛びこんできました。パープル・ドラゴンは取らないでいたナイトをポーンかルークで取ろうかと考えましたが、シュノーのクイーンは横へ動いてビショップを取ってしまい、しかもその手が王手になることに気づきました。防いでいるうちにクイーンはつぎの狙いをつけてきて、パープル・ドラゴンのナイトは攻めではなく守りに忙殺されるでしょう。
パープル・ドラゴンはシュノーのクイーンの横に自分のクイーンを寄せましたが、シュノーはまったく迷わずクイーンどうしを交換することを選びました。シュノーのクイーンがパープル・ドラゴンのクイーンを取り、パープル・ドラゴンがルークでクイーンのかたきを討ちます。そして、そのルークをすかさずシュノーのナイトが取ったのです。
「……あっ」
いままでなら簡単に読めていたところでしたが、盤面より砂時計のほうに目がいっていたパープル・ドラゴンはらしくない見落としをしてしまいました。思わず声が出ます。
こうなるとシュノーががぜん優勢です。ただルークのぶんを得しただけでなく、ナイトがパープル・ドラゴンの陣地を完全に引き裂いています。シュノーの攻めが冴えわたり、防戦むなしくパープル・ドラゴンのキングは盤面のすみっこで行き場をなくしてしまいました。チェック・メイトです。
ときは真夜中の十二時になろうというところ。パープル・ドラゴンが頭をさげ、シュノーがうなずくと、洞窟のまわりは大歓声に包まれました。姫その人以外にはだれにも打ち破れなかったパープル・ドラゴンに、ひ弱だけれど賢い少年が知略のゲームで勝利を収めたのです。
検討陣は自分らで囲んでいた継ぎ盤をほうり出して万歳三唱をはじめてしまいましたが、チェスの腕前はそこそこの姫からみても、シュノーのナイトを見逃して以降のパープル・ドラゴンは精彩を欠いていました。みんなが勝者をたたえる中、姫はパープル・ドラゴンのほうへ近寄って訊ねてみます。
「ひょっとして、最後はわざと負けてくださったのですか?」
パープル・ドラゴンは首を左右に振りましたが、その声は蚊の羽音のようにかぼそくて、姫以外にはだれにも聞こえませんでした。
「いいや、むしろ逆ですよ。シュノーどのに勝とうとして、考えすぎてしまったのです。わしは……姫のことを本当に好きになって……」
ウロコのはげた首すじを赤くして、パープル・ドラゴンはもじもじとそういいました。姫のほうは、花が咲いたような笑顔になります。
「ああ、よかった。こんなわがままにつきあわせてしまって、嫌われてしまうのじゃないかと思っていました。夫はきっと、またあなたとチェスを指したがります。そのときはいっしょに遊びにきますし、ぜひ、城へもお越しくださいね」
「こんなあばら家ですが、また御行幸いただけますならば恐悦至極にぞんじます。お招きいただきましたあかつきには、かならず馳せ参じましょう。……おしあわせに、姫」
長い首と大きな頭を低くしてパープル・ドラゴンが祝福すると、姫はそのワニみたいな鼻づらにひとつキスをしました。
「ほんとうにありがとう、パープル・ドラゴンさん!」
そして、姫はシュノー助手……いえ、シュノー次期国王のほうへと走っていきました。
姫の背をみおくって、パープル・ドラゴンは、今度はだれにも聞こえない声でこうつぶやいたのです。
「……やれやれ、罪なおかたですよ、あなたというひとは」
☆☆☆☆☆
チェスが好きなドラゴンに守護された王国は、その後何百年にも渡って繁栄することになります。代々の王子はムラサキ色のドラゴンからチェスを、姫は武芸を教わる――そんな不思議な習わしがある、とあるお国の昔話でありました。
おしまい