フィデルの婚約
1.
馬車はカラカラと心地よい車輪の音とともに屋敷の門をくぐり、庭の中央の道を通って正面玄関の前で停まった。
この屋敷の主が、妻と娘を連れて馬車に乗った客人を迎えに出ている。
フィデルは、両親と一緒に馬車を降りながら、屋敷の主たちへしっかりあいさつせねばと、緊張した。まだ少年のあどけなさが残るとはいえ、貴族たちの社会では十七歳ともなれば、ひと通りのあいさつが出来て当然だ。
今日ここを訪れたのは、この屋敷の主の娘、フィデルより1つ年下の少女カティアにお祝いの言葉を述べるためだ。カティアは、長年の願いが叶って、国王に仕える女官の一人として城で働くことになった。そこでカティアの両親は、この幸運を分かち合うため、親しい間柄の人々を招いてささやかな夕食会を開くこととした。
ただ、決して「おめでとうございます」とは言わぬよう、両親から念押しされている。カティアが女官として登用されたのは、老いた国王が病に倒れ、ずっと体調が思わしくなく、女官が増員されることになったからだ。国民全体が国王の健康を心配し、回復を祈っている中、これから国王に仕える者に対し、口に出しておめでとうとは言えない。
では、何と言うべきなのか?迷っているうち、結局言えたことは、両親が述べた言葉のあとに続いて、
「お、お招きいただきありがとうございます」
と、それだけだった。
その直後、フィデルは目線でしっかりカティアをとらえた。笑みとともに、「よかったね」と無言のメッセージをカティアに送る。カティアも控えめな笑顔で、ひとつまばたきをして、無言で「ありがと!」と返した。
ちょうど肩まで伸びたつややかな黒髪が風に揺れる。
二人は一年後に結婚することが約束されていた。
2.
フィデルとカティアが初めて出会ったのは半年ほど前だったが、親同士の取り決めによりすでにその一年前には結婚することが決められていた。どちらの親も、我が子について、容姿もまずまずだし、性格も穏やか、年齢相応の教養もあって、どこに出しても恥ずかしくないと自信を持っており、相手に悪い印象を与えることは無いと確信していた。二人は、その信頼を裏切ることなく、初めての食事会の時、恥じらいつつもまずまず打ち解けて会話をした。どちらの親も、婚約者たちが遠慮がちに言葉を交わしつつ相手のことをちらちらと見るその目の輝きに、満足のいく手応えを感じた。
言うまでもなく、結婚というものには、昔から厳格な決まりごとがある。どちらの家も貴族の列に加わって二百年以上経つ由緒正しい家柄となればなおさらだ。婚約していたとしても、親に無断で本人同士が直接連絡をとりあうことはできない。また、親と一緒に会う場合でも、親の目の届く範囲を出てはならず、本人同士二人きりで会うようなことは許されない。
ただ、フィデルとカティアの親たちは、今の時代もはや、そんな昔のしきたりを若者たちに押し付けるべきではないと理解していた。きちんと事前に親の許可を得れば、どちらかの屋敷の敷地内に限り、二人きりで会ってよいこととしている。
夕食会がひと段落したあと、二人はそれぞれの両親の許可を得て、二人だけで屋敷の庭園に出た。
「カティア、陛下のおそばに仕えるなんて、ホントすごいね」
ゆっくりと屋外の空気を吸いながら、庭園の片隅のベンチに並んで座る。
すでに陽は落ち、夕陽のわずかな残光はあるものの、美しい庭園は、ほぼ暗闇に覆われている。フィデルは持ち出して来たランプをベンチの足元において、空を見上げた。地上の近くにはまだ夕陽の赤が残っているが、空の中央にはもう星々がまたたいている。
「うん。楽しみだけど、緊張する。それになんか、大きな話というか、大事なことが続けてドンと来ちゃったから、なんか、なんていうか・・・」
カティアの声は不安げにかすれた。
カティアの屋敷に向かう馬車の中で、フィデルは母親から、カティアへの心づかいについて、たくさんのアドバイスを受けた。荷物があったら持つ。二人で並んで歩いているとき、もしドアがあったら、先にドアノブをつかみ、ドアを開けてカティアを先に通す。カティアのおでこ以上の高さにある物に手を伸ばさせてはならない、代わりに取ってあげる。といったこまごました要求事項を、馬車の振動によってほぼ全て忘れてしまったものの、
「カティアお嬢さまは今、あなたとの結婚と、偉大な国王陛下にお仕えすることと、人生をかけてやるべきことが二つ同時に現れて、不安になっているはず。あなたはお嬢さまに、結婚も大事だけど、今は陛下にお仕えすることを優先するように、ハッキリ言ってあげるのよ。それが今日のあなたの使命!偉大な国王陛下のために全てを捧げるのが、一番大事なことだから」
と言われ、ひざをポンとたたかれたことは覚えている。父親がそこだけ重々しくうなずいたのも見た。
十七歳の男子フィデルは勇気を奮い起こした。もっとも、こういう場合どのように奮起すればいいのか見当がつかないし、どのような言葉をつむぐべきか全くわからない。まばたきの回数が不自然に増えた。
「カティア。えと・・・カティア、」
「はい」
「大丈夫、僕たちの結婚のことは、気にしなくて大丈夫、いつでもいいんだよ!僕たち、まだ若いしさ。二、三年延びたって、ぜんぜん」
カティアは少しきょとんとしたが、すぐに微笑み、楽しげに切り返した。
「あら、結婚も大切よ。病に苦しむ国王陛下をお支えするのは大事なことだけど、あなたと結婚して、」
カティアは言いかけて、言葉につまった。何か熱いものが胸につかえる。
フィデルも「あなたと結婚」という言葉のリアルさに息をのんだ。
「あなたと結婚、して・・・どんな生活になるのか想像し出したら、とまらなくて」
終わりの方は、胸につかえた熱いものが喉をもしめつけ、ほとんど言葉にならなかった。
フィデルは、カティアと同じ恥じらいに目を回した。頭から湯気が立ちのぼる。ともあれ母親の言いつけどおり突き進むことしかできない。二人のことより陛下の方を優先させなければならない。
「こ・・・国王陛下は、今から六十年前、十八歳で即位なされた」
唐突に歴史を語り始める。カティアはあわてて姿勢を正した。
「その当時、イスパト国との戦がずっと続いていたけど、陛下はテナン川の会戦に勝利したことをきっかけに、和平交渉を有利に進め、即位から七年後、イスパトとの戦いを終わらせた」
となりの国であるイスパトとの間では、たびたび戦が起きる。しかし今の国王が和平を成立させて以降は五十年以上、平和が保たれていた。
「イスパトとの交流により、国は豊かになり、農業や建築の技術は発展し、すぐれた芸術作品がたくさん生まれた。そういうことも、全部、平和だったからこそ、陛下の強力なリーダーシップがあったからこそ。ひとつ残念なのは、王位の継承のこと」
今の国王は、六十歳の時、王位を息子に譲った。しかしその息子が病のため即位から五年で亡くなってしまう。その次の国王の座を巡って、王位継承者たちおよび貴族たちの間で争いが起きた。事態を収拾するため、一度退位した国王が、老体に鞭打って再び王座についた。
「陛下は今、七十を超えるご高齢でありながら、国民のため以前にも増して国務に励まれている。本当にすごいお方だ。ただ、やはりご無理をなさってしまったのか、病に倒れられた」
医師によると、心臓の病であるらしい。詳しいことは伏せられている。ともあれ陛下の身の回りの世話をする要員を増やすことになった。陛下のおそばに仕えるとなればもちろんまずは、家柄がよくなければならない。貴族たちの家柄を、七代八代さかのぼって調査した上で、選ばれた者たちの一人に、カティアが含まれていた。
「陛下のためとなれば、僕たちは全てを捧げなければならない」
フィデルは若干の自己陶酔によって、落ち着きを取り戻した。言葉に力が込もる。
カティアは、フィデルの言葉に釣り込まれるように、素直にしっかりとうなずいた。
「結婚の予定が延びるのは残念だけど、僕は待ってるよ。それに、君と同じ心で、君と一緒に、陛下の快復を祈ってる」
カティアはひとつの重荷が、砂糖をお湯に溶かすようにサラサラと消えていくのを感じた。結婚よりも国王陛下のことを優先すべきことは、親たちからもはっきり言われており、わかりきったことであったが、未来の夫の口から力強い言葉によってそれを聞くことにより、不安や迷いはこれ以上不要であることが確定した。
3.
カティアが城に勤め始めて一ヶ月ほどが過ぎた。
フィデルは今、城の謁見の間にひざまずいている。
謁見の間の床そうじに来たわけではない。この部屋を訪れる大臣や将軍たちと同じく、国王陛下に謁見を賜りに来たのだ。
昨日、フィデルの屋敷に国王からの使いが来た。
国王は、新しい女官たちの中で、特にカティアの働きぶりに感心しているという。国王はカティアに興味を持ち、その家族や友人のことなどを詳しく語るようカティアに求めた。その中で、婚約者フィデルの名が挙がった。陛下は、そのフィデルという若者にぜひ会ってみたいと望んでいる。
国王からの使者はそう説明した。
話を聞いて、フィデルの母は熱狂した。息子が国王陛下と直接言葉を交わす機会を得た。何という名誉か。また母は、わずかでも国王との間にコネクションができることについて、未来への想像をふくらませた。
謁見の間には、濃いグリーンのじゅうたんが敷かれている。そこにひざまずくフィデルの肩は小刻みに震えていた。国王に謁見し直接言葉を交わすなど、一族、友人たちの間で誰も経験したことがない名誉だし、光栄の極みだが、それよりわずかに、不安と恐怖が勝る。この機会に国王に気に入られようなどと思いあがった望みはかけらも抱いていないものの、逆に、万が一、礼を失するようなことをしてしまって、一族の名誉に傷をつけるようなことになったら?その想像が、彼をとらえて離さない。
部屋の奥のドアが開いた。
国王が座る椅子は部屋のずっと奥、フィデルが今ひざまづいている位置から五メートルは離れた、床が一段高くなった場所にある。
ドアの奥から誰かが現れ、その椅子に座った。
「面を上げよ。顔を見せてもらえぬか」
これが国王の声か。フィデルは腹をくくった。思い切って顔を上げる。
「そなたがフィデル・ボルマンだな」
「はい!」
国王は、平民とあまり変わらない簡素な衣服を着て、右ひじを椅子のひじかけに乗せ、前のめりになってフィデルの顔をのぞきこんだ。
フィデルは、昨夜遅くまで両親とともに、名乗りのときの長い口上を練習していたのだが、その成果はゼロだった。
緊張のあまり、何も言葉が出て来ない。
口をパクパクさせているうちに、国王が言葉をかけた。
「いくつになる」
「あ、はい、十七です」
国王は、フィデルの顔を見つめたまましばらく黙った。
七十八歳とは思えぬほど、肩や胸はがっちり幅広いし、白いひげは短く刈られて豊かに顔の半分を多い、声もよく響く。病気であるとは、とても信じられなかった。
国王の背後の壁には、王家の紋章が縫い込まれた紅い軍旗が斜めにかけられている。かつて国王はこの軍旗を掲げてイスパト軍と渡り合った。
「椅子を。この若者に、椅子に座ってもらえ」
部屋の両側には武装した兵士たちがずらりと並んでいる。その中の一人が急いで部屋を出て、しばらくすると椅子を持って戻ってきた。これは、国王と同じ視線の高さで会話することになるらしい。フィデルは恐縮のあまりよろめきながら椅子にストンと腰を下ろした。
「そなたの祖父のことを、私は覚えているぞ。いや、愉快なものだ。あのエンリコ・ボルマン男爵の孫と出会うことになるとは」
フィデルの全身に電流が走った。いかにも、エンリコはフィデルの祖父だ。槍の名手として、いくつかの合戦で手柄を立てたとは聞いていたが、国王と面識があったとは知らなかった。
「テナン川の会戦の終盤、敵の小部隊がわたしの本陣を奇襲してきおった。わたしも剣を抜いて応戦したが、あまりに突然であったし、敵兵の勢いに皆うろたえ、わたしも一瞬、死を覚悟した。そこへ駆けつけて来たのがそなたの祖父、エンリコだ。見事な槍さばきで暴れ回ってな。敵兵を蹴散らしてわたしが逃げる道を作り、私を守って逃走しながら、味方の加勢が来るまで奮闘してくれた」
国王は笑みを浮かべて、じっとフィデルを見つめた。
何か言わなければ、と思いながら、フィデルはどう会話に応じればいいのかわからない。
「フィデルよ、武術のほうは、どうだ?」
「は、ハイ」
「励んでおるか」
「は、ハイ。ただ、祖父ほどではありません。特に槍はあまり、得意ではありません」
正直に答えることしか出来なかった。
国王は丁寧にうなずいた。
「そうか。まあ、今は五十年前とは違う。槍をもって戦場で働くことも、もはやあるまい」
「は、ハイ」
フィデルは、国王の言葉を寛大なようにも感じ、フィデルの軟弱さに対する皮肉のようにも感じた。
「そう。カティアのことだが」
国王は、ふと思い出したかのように切り出した。
「そなたはカティアの婚約者であるそうだな」
「はい。・・・カティアは私の婚約者です」
ここは、呼吸を整え、力を込めてはっきりと言った。
「ふむ。フィデル、そなたに折り入って話したいことがある」
国王は左右の者を指図して、今度は小さなテーブルと、今フィデルが座っているものと同じ椅子を持ってこさせた。
フィデルの目の前に小さな丸いテーブルが設置される。
テーブルをはさんでフィデルと向かい合う位置に、椅子が置かれた。
国王はよろめいて立ち上がり、護衛兵の手を借りつつ、フィデルに向かって歩いて来た。
もしや、と心臓が高鳴る。
予想通り、国王は小さなテーブルひとつ挟んでフィデルの向かいに座った。
このように間近で国王の姿を見、言葉を交わせるとは。
緊張や不安を通り越して、呆然としてしまう。
「ひとつ、頼みたいことがある」
国王はテーブルの向こうからフィデルの目をしっかりと見た。
「これは、無理な頼みであるし、すぐには返答できないだろう。だが、よく考えて欲しい」
フィデルの心臓が急激に高鳴る。何を宣告されるというのか。
「私は、カティアを妻として迎えたい」
国王はしっかりと告げた。
「この命のあるうちに、カティアとの婚礼の儀を執り行いたい。フィデルよ。あの者との婚約を、破棄してもらえまいか」
思考が停止した。何を言っているのか理解できない。
数秒が経過し、国王の言葉を理解したとき、フィデルは椅子を蹴って立ち上がっていた。
言葉は何も出て来ない。ただ、侮辱された怒りを目に満々とたたえて、国王を上から睨みつけた。
慌てた兵士たちが、
「無礼者!」
と叫んで、ドッと四方から殺到し、フィデルを取り押さえようとする。
「待てい!」
国王は右手を掲げて一喝した。兵士たちの動きはフィデルにつかみかかる寸前でピタリと止まった。
「フィデルは正しい。誇りある人間なら、怒るのが当然だ」
国王の側近と思われる一人が進み出てフィデルのそばに立ち、語りかけた。
「フィデル・ボルマン。怒るのはもっともなことだ。ただ、陛下は気まぐれにおっしゃっているのではない。おぬしの立場も理解され、悩まれた末、打ち明けておられる」
フィデルは側近の顔もにらみつけた。いまだ言葉は何も出て来ない。ただ怒りに体が震えた。
「フィデルよ、これは命令ではない」
国王は側近の手を借りてよろよろと立ち上がった。
「今日はただ、お前に直接、私の気持ちを伝えたかったのだ。私はカティアを愛している。真剣に愛している」
その声の哀しげな響きに、フィデルはハッとして、怒りから我に返った。
「後日でよい。私の頼みに対する返事を聞かせてくれ」
国王は側近の肩につかまり、フィデルに背を向け、弱々しい足どりで静かにその場を去った。
4.
帰りの馬車の中で、フィデルは怒りと、後悔に身もだえした。
尊敬する国王陛下に対し、何という態度をとってしまったんだろう?
国王陛下は僕のことをどう思われただろうか?
よくその場で首をはねられなかったもんだ。
でも、どう振る舞うのが正解だったんだろう?
馬車が、ガクンと大きく弾んだ。車輪が小石にでも乗り上げたのだろう。
いつの間にか馬車は城下町を抜け、フィデルの屋敷へと続く林の中の道を走っている。
そう、どうすれば怒りを抑えられた?
理由もなく突然、婚約の破棄を迫られて、冷静でいられるわけがない。
いや、理由はあった。陛下は、カティアのことを真剣に愛していると言った。
・・・何なんだそれは!
七十八歳の老人じゃないか!
それが十六歳のカティアを、愛している?
王妃様は亡くなられているから、まあ、独身といえば独身とはいえ、子供もいれば孫もわんさかいる。
何か政治的な事情によって婚約が破棄されるというのならまだわかる。
しかし、いくら国王とはいえ、お前の婚約者が気に入ったからこちらに寄こせ、なんて横暴が許されるわけがない。
単に別れさせられるだけならまだしも、他の男に引き渡すなんて考えられないし、そんな屈辱は無い。
結局は怒りでいっぱいになった。
フィデルが両親の待つ自宅の屋敷に戻ってくると、すでに国王からの使者が来ており、客間で両親と話をしていた。
国王からの使者は若い女性だった。
スラリと細身で背が高く、黒髪に黒ぶちの眼鏡、国王の使者だけに知的で上品な雰囲気が漂う。
「初めまして、フィデル君。国王陛下からの使いとして参りました。クラウディア・ベームと申します」
クラウディアは微笑して髪を揺らし、真っ直ぐに右手を差し出した。フィデルは固い表情のまま、握手を交わした。
フィデルの母は、つとめて和やかに声をかけた。
「さあ、クラウディア様、おかけになってください。フィデル、あなたはそこへ座って」
客間には、ローテーブルを挟んで四人がけの長いソファが二つ向かい合わせで置いてある。
一方のソファにはクラウディアが一人で座り、その向かいのソファに、フィデルとその両親が並んで座る。
クラウディアはまず、国王の使者である自分の紹介として、簡単に自らの家系や職務経験の話をした。
国王の創業を扶けた重臣の一人の孫であり、国王の秘書および外交官として城に勤めている。
フィデルの父はいちいちうなずきながら感心して聞き、母は要所要所で感嘆のため息をもらした。
ただ怒りと混乱に包まれたフィデルだけは、ひたすらにクラウディアへ向けて闘気を発し、氏素性の話など耳に入れるつもりもない。
「国王陛下は」
自己紹介を終え、クラウディアは落ち着いた口調で本題に入った。
「決して無理強いをせぬようにと、固く私にお申しつけになりました。ボルマン家の方々ともよく話をし、ご納得いただくようにと」
「お気遣い、恐れ入ります」
父はかしこまって頭を下げた。
「国王陛下のためとあれば、もちろん、喜んでおおせの通りにいたします。カティアとの婚約は解消し、」
「僕はイヤだ!」
ピシリと鋭い沈黙が走る。
場は一気に緊迫した。
父は今にも怒鳴りつけそうな顔でフィデルをにらんだ。
それを制すように、クラウディアは、フィデルの方を向いてローテーブルの上に少し身を乗り出した。
「フィデル君。私は普段、カティア様が陛下のために洗濯や食事の用意をしているところをよく目にしています。話をしたこともあるわ。彼女は本当に素晴らしい。実直で、明るくて、それでいて思慮深いところもあって。あの子には、フィデル君のように、若くて、勇気のある男性こそふさわしい」
思わぬ褒め言葉に、フィデルはつい闘気を散らされた。
フィデルの母は、眉をひそめて小さなため息をついた。王城での今日の出来事、フィデルの感情的な振る舞いについては先ほどクラウディアから聞いており、「勇気ある」の一言に皮肉を感じた。
「国王陛下とはいえ、今回のなさりようは乱暴です。だからフィデル君が怒るのは当然」
クラウディアは、フィデルの両親の顔に順に視線を送りながらうなずいた。
父と母は、ありがたい言葉に、ますます恐縮して小さくなった。
「ただ、それでも」
クラウディアは声の音量を抑え、かすかにため息をついた。
「今回は、無理を承知で、お願いしたいのです。フィデル君。私は今日、結論を持って帰るよう命じられてはいないの。まずは、こんな無理なお願いをしないといけない事情を、聴いて欲しい」
フィデルは顔を上げ、クラウディアとしっかり目線を合わせた。
「聴かせてください」
クラウディアは数秒、フィデルの目を静かにじっと見つめてから、話し始めた。
クラウディアは次のような出来事について語った。
一か月ほど前から、国王の容態はさらに悪化し、起き上がることはもちろん、ほとんど言葉をしゃべる力も失われていた。
医者は、いつ最期の日が来てもおかしくない状態であるため、準備はしておくよう、国王の周辺の者たちに忠告した。
ところが、カティアの姿をひと目見た瞬間、大きく変化が起こった。
カティアが初めて国王の寝室に入り、ベッドのそばの花瓶の花を取り換えているとき、国王は言った。
「アンナ」
一週間ぶりに発した言葉だった。
「アンナ!」
もう一度言うと、国王の両目から涙があふれた。
カティアは、交換の途中だった花束を床に放り、弾かれたようにベッドに歩み寄ると、細くやせた国王の手を両手で握った。
そしてとっさに言った。
「はい。お呼びですか」
通常、初対面の者が、許しもなく国王の体に触れることなど有り得ない。
しかし周囲の女官や護衛兵たちが止める暇もなかった。いや、誰もが呆気にとられ、その無礼を止めることができなかった。
「アンナ、アンナ!」
泣きじゃくる国王を、カティアは笑顔でなだめた。
「はい、はい。アンナです。ここにいますよ」
なぜ、そうしてしまったのか、そのような嘘をついたのか。あとで問われてもカティアには答えられなかった。ただ、国王の心に応えなければならないという強い使命感が、考える間もなくそうさせていた。
アンナとは誰のことなのか、カティアはそのとき知るはずもない。
「やはり、アンナなのだな?」
「はい、陛下」
口やかましい権柄ずくの女官たちも、殺気だった護衛兵たちも、この時ばかりは、ただ成り行きを見つめ、対応をカティアに任せるしかなかった。
「陛下、大丈夫。大丈夫ですよ」
カティアは穏やかに声をかけながら、国王の気分が静まるのを待った。
やがて落ち着きを取り戻した国王は、むくりと起き上がった。
医者はアッと声を上げた。
もはや自分の力で起き上がることはない、と診断していたからだ。
「無様なところを見せてしまった」
国王は、自分の手を握りしめていたカティアの手をほどくと、逆にその手を両手で包み、ポンポンとたたいた。
「昔の知り合いに、よく似ていたのだ。取り乱してすまない。そなた、本当の名は?」
正気を取り戻し、威厳のある微笑を浮かべた国王の姿に、カティアは急に激しく緊張した。
「カ、カティ、カティアです」
「どこのカティアかな?」
「あ、すみません、はい、えと、お父さん、いえ、父は、ベルティ・マイヤーと申しまして」
「マイヤー。おお。ということは、アルネ・マイヤーの孫娘か?」
「そうです!よくご存じで!いえ、光栄です、祖父のこと、その」
「知っているとも。勤勉で、すばしこく動き回る男だった」
国王とカティアとの会話が五分ほど続いたとき、すでに、その場にいた者たちの半数は驚きと感動の涙を流していた。
朦朧としてベッドの上に横たわるばかりの、もはや二度と以前の姿を取り戻すことはないと思われていた国王が、かつての聡明さそのままに、すらすらと言葉を発している。
部屋から駆け出した女官の一人によって、この幸福なニュースはすぐに城全体に行き渡った。
国王はそれから1時間もの間、カティアと会話し続けた。
「その三日後、陛下は私を含む数名の側近に、カティア様との結婚を希望する、と告げられました」
クラウディアはフィデル、その父、その母の顔を、順にゆっくりと眺めた。三人ともそれぞれ、驚きに目を丸くしている。
父が口を開いた。
「カティアは、確かに、しっかりしていてよく気の利くお嬢さんだと思っていましたが、そこまでとは」
母は祝福の思いをこめてつぶやいた。
「あの子のご両親もさぞお喜びでしょう。一族から王妃を出すなんて」
「なぜ結婚なんですか?」
フィデルだけは、驚きつつも冷めている。
「カティアが国王陛下にとって大切な存在となったことはわかりました。でもそれは、陛下のお側に使える女官として勤めを果たせばよいだけのことではないのですか?」
「陛下のお心の奥深くまではわかりません。それを探るべきでもありません。陛下は、国王と女官という関係以上の深い結びつきをお望みです。それを私は承りました。あとはだたその実現に力を尽くすのが私の務め」
クラウディアは静かに自らの決意を述べた。
フィデルはやや怯んだ。
「と、とにかく、カティアは僕の婚約者だ!婚約は破棄しない。そんな話だけで納得できるもんか」
父が、こらえかねて憤然と立ち上がった。
「馬鹿者!お前の婚約者だと?婚約は、お前の父である私とお前の母、そしてカティアのご両親、親せき一族皆で決めたことだ。結婚するか婚約を破棄するかは、お前が決めてよいことではない!」
クラウディアは、同じく立ち上がって、父を制した。
「フィデル君を叱らないでください。さきほども申し上げましたとおり、今すぐに結論が欲しいわけではありません。陛下も、無理矢理カティアを奪うような結果にならぬよう、くれぐれも気を付けて欲しいとおおせです」
「ハッ!無理矢理意外に何があるんだ?僕はイヤだ!カティアを奪ってみろ、僕は、相手が国王陛下だろうと、」
「フィデル!」
父は顔を真っ赤にしてさらに怒り、母は真っ青になって、二人してフィデルを取り押さえ、その口をふさいだ。
これ以上しゃべらせると、反逆罪で処刑されてしまう。
クラウディアはその光景を眺めながら、
「お騒がせしてしまいました。今日はこれにて失礼いたします」
数歩うしろに下がって出口のドアに向かった。
「三日後、再び参ります。その時、結論をお知らせください」
フィデルは口を両親の手でふさがれたまま、モガモガと何か叫んでいる。
フィデルの母は、息子の叫びを察してか、クラウディアに向かって最後にひとつだけ質問した。
「このこと、カティアは何と申しているのでしょう?カティアは求婚を受け入れるつもりなのでしょうか?」
「はい。もちろん。私はカティアとこのことについてよく話をし、直接彼女から承諾する旨の返答を得ました。カティアは、フィデル君との婚約を解消し、陛下の求婚を受け入れる決心をしています」
「それが無理矢理だっていうんだ!カティアの本心じゃない!そうだ、カティアに、カティアに会わせてください!」
フィデルは一瞬、両親の手を振りほどいて叫び、また口をふさがれた。
クラウディアは軽やかに身をひるがえすと、まだ何か背後で騒いでいる声を聞きながらも、立ち止まることもなく屋敷を去った。
5.
その夜、クラウディアは国王にフィデルたちとのやりとりについて報告した。
王城の南側にあるバルコニーから国王は椅子に座って城下の街の灯りを眺めている。
そのとなりに、今は王族並みの美しい衣装に身を包んだ、カティアが立っていた。
国王は報告を聞き終えると、しばし目を閉じ、ため息をついた。
「明日フィデルの屋敷に届けるのは、金貨千枚、馬五頭であったかな」
「はい」
クラウディアが答える。
「金貨を千五百枚、馬を十頭にしてくれ」
「陛下」
カティアが口を開いた。国王の肩に、そっと手を乗せる。
「私は、贈り物をすることには反対です。フィデルは真っ直ぐな人ですから、ますます怒ってしまうでしょう。金で私を買おうとするのかと」
「うむ。しかしこれは、私の急な申し出によって迷惑を蒙ってしまったボルマン家の人々全員に対する、私の気持ちなのだよ」
国王は肩に置かれたカティアの手に自らの、老いた固い手を重ね、カティアを見上げて微笑んだ。
「それはわかります。でもそのお気持ちを金貨で表すのはいけません」
なおもカティアが異を唱える中、クラウディアが別の話題を投じた。
「陛下、フィデルは、私が屋敷を去る間際、カティア様に会わせろと叫んでおりました」
カティアはハッと息を飲み、沈黙した。
国王は再び長いため息をついた。
「そうであろうな。そうであろう・・・カティア、フィデルに会って話をしてみるか?私はかまわんぞ。フィデルの気持ちがおさまるものなら、そうしてもよいだろう」
カティアは激しく首を振った。
「会いません」
「お言葉ですが、陛下」
クラウディアがカティアの心中を代弁した。
「それはフィデルにとってもカティア様にとっても、残酷というものかも知れません。カティア様は、陛下の妃になると、心を決めておられるではないですか。カティア様をフィデルと対面させて、何になるでしょう。カティア様の口から直接、フィデルに、あなたと結婚する気はありませんと、宣告させるおつもりですか?お優しいカティア様の苦しさ、そしてフィデルも、どれほど傷つくか」
「そうだ。そうだ」
クラウディアの言葉を聞きながら、国王は悲しげに眉をひそめ、目を閉じ、おのれの言葉を恥じた。
「お前の言う通りだ。よく言ってくれた」
国王は恐れを抱きながら、カティアの顔を見上げた。
カティアの両目には涙があふれていた。
「おお、カティア、許してくれ。愚かだった」
カティアは小さく首を振って、涙目のまま、無理に笑顔を作った。
「申し訳ありません。ダメですね、すぐ泣いちゃうから」
「いや、私が愚かだったのだ。許せ」
やがて国王は寝室へ行きベッドに身を横たえた。
それを見届けてから、カティアはあらためてクラウディアを別室に招いた。
そこは小さな礼拝堂で、礼拝用の長椅子と長机のひとつに、二人は横並びになって座った。
「フィデルは、そんなに怒ってたんですか」
間もなく王妃になるとはいえ、十六歳の少女であることはまぎれもない。
カティアの声はかすれ、震えていた。
少女の置かれた状況を思うと、クラウディアの心もしめつけられたが、今は、目にしてきたことを誠実に語るしかない。
「はい。陛下が、婚約者がいるのを知りながらカティア様とのご結婚を望まれていることに、激怒していました。婚約の破棄などしないと。何より、この結婚は陛下の国王としての権力によって無理矢理なされるもので、カティア様はそれに逆らうことができず従っている被害者なんだと、彼は信じています」
カティアは思いつめた悲しい目をして、口を固く結び、黙り込んでしまった。
クラウディアは無言でいるわけにもいかず、言葉をついだ。
「今、彼の両親や、親せき、友人たちが、彼をなだめてくれていることでしょう。一時の怒りが収まれば、ちゃんとわかってくれます」
「フィデルはどこか間違ってますか?フィデルは正しいと思います。それに、フィデルがすごく怒ったと初めて聞いたとき、わたし、嬉しかった」
熱のこもった瞳に見すえられて、はっきりとそう告げられた時、冷静なクラウディアもさすがにドキリとした。
「カティア様。本当は、フィデルの妻になりたいのですね?」
カティアは一瞬、泣き顔になりかけた。クラウディアは焦った。しかしカティアは、崩れかけた気持ちを持ち直して、答えた。
「私はずっと国王陛下のおそばにいます」
「ですが、それは本心ではないのでは」
「本心じゃないことなんて言いません」
カティアはしばし、礼拝堂の正面の祭壇を見つめた。今は燭台に火は無く、小さな銀の神像は薄い暗がりの中に眠っている。
「陛下は、ご自身の命があとわずかであることをご存知です。私は陛下に、その最後の時を、大切なアンナと一緒に過ごしていただきたい」
クラウディアはカティアの言葉を理解しかねた。
カティアは落ち着きを取り戻して話を始めた。
「アンナ、という少女について、陛下は私に話してくださいました。ご存知と思いますが、陛下が最初に私を見られた時、名前を呼んでいた人のことです。アンナがどんな顔をしていたのか、名前が本当にアンナだったかどうかさえ、陛下は今では、はっきりとは思い出せないそうです。だから私がそのアンナという少女に似ているかどうかも、本当は、よくわかりません。ただ陛下は、わたしと一緒にいると、アンナと一緒にいる気持ちになれるのだとおっしゃいます」
「そういえばフィデルは、なぜ結婚しないといけないのか、とも言っていました。陛下がカティア様を手放したくないと思うのはわかるとして、結婚までしなくとも、ただ女官として陛下のおそばにいれば、それで済むのではないかと」
「陛下は、ただそばにいるだけでなく、ギュッと強く、固く結びつきたいと願っています。そして絶対に離れたくない。だから結婚しようと思われたのでしょう」
そこの理解は、クラウディアも同じだった。
「アンナとは、何者なのですか」
「陛下は十六歳のころ、イスパトとの国境近くにある、デンフリートという村でアンナと出会いました。イスパトの軍勢がデンフリートの近くに迫ってきたので、陛下はまだ即位する前でしたが、総大将として兵士たちを指揮し、イスパトの兵士たちを撃退しました。戦闘のあと、しばらく村に滞在することになり、陛下が供も連れず一人で村を散策していたとき、アンナと出会いました。アンナは陛下が高貴な身分の方だとは気づかず、ただの若い兵士と見て、気軽に話しかけてきました。しばらく会話をしたあと、アンナは陛下に、頼みたいことがある、と言いました。アンナは自分の家に、怪我をしたイスパト軍の兵士をかくまっていたんです。本当なら、捕虜として連行しないといけないのですが、アンナはその兵士を、わが国の兵士に見つからないようかくまい、イスパトに帰そうとしていました。陛下は驚き、すこし頭が混乱されたそうです。イスパトの兵士たちと言えば、そのころ、たびたび国境の村々を襲撃して、人々を苦しめていました。憎いはずの敵兵をなぜ、危険を冒してまで、国に帰してやろうとするのかと、陛下はアンナに尋ねたそうです。アンナは困った顔をしながら、『話してみると、意外にいい人だったの。それに、イスパトでお母さんが帰りを待ってるんですって』と答えました。憎い敵を助けることも、発覚したら自分が牢に入れられるかも知れない危険を冒すことも、その兵士のお母さんが家で待っているのだから、やらないといけないことなんだと、覚悟して落ち着き払っている口調だったそうです」
カティアはクラウディアの目を見て、ふっと微笑んだ。
「私もアンナと話をしてみたいです。陛下は、かなり迷われたそうですが、アンナの純真さに心を打たれて、イスパト兵の脱出を手助けされました。無事に脱出が成功したあと、アンナは陛下の右手を両手で強く握って、『ありがとう。兵隊さんがみんなあなたみたいだったらいいのに』と、言ったそうです。陛下は、戦を無くし平和を築き上げることが、国民の心からの願いであることを、そのとき実感したとおっしゃっていました。そして、アンナが願うような王でありたい、アンナが望んでいるような平和な国にしたい、と、ずっと念じ続けてこられたんだそうです」
カティアは、ひとつ大きく息をついた。
「アンナという女の子について私が知っているのはそれだけです。結局、肝心なところは、私にもよくわかりません。たとえば、陛下が実はそのアンナのことをずっと愛していらっしゃって、結婚したかったのだけど、それは何かの事情で叶わず、それを今、代わりの方法で実現したいと思われているのか?もっと他の理由があるのか?判断力が鈍くなられていて、ご自身でもよくわかっていらっしゃらないだけのか」
クラウディアはうなずいた。
「そうですね。もちろん、そこは私たちが詮索してよいところではありません」
「はい。ただ私は、陛下がご自身の最期のときをわかっていらっしゃるのを感じますし、そこに何か大きな寂しさと不安を感じていらっしゃるのがわかる気がします。その不安をしっかり受け止めるために、私、またはアンナという女の子の面影、を、懸命に求めておられるのだと思います」
カティアとクラウディアは、薄暗い礼拝堂でなおも語り合い、国王の最期の時間を安らぎで満たすために尽くすことを約束し合った。
6
その朝、国王は満ち足りた気持ちで目を覚ました。
窓の外は白み始めていたが寝室はまだ暗く、しかしとなりの部屋へ続くドアからは暖かい灯りがもれている。
国王はベッドから身を起こし、枕元に備えてあるベルを手に取ってカラカラと鳴らした。
ドアが開くと、光とともにやはりその人が笑顔を見せてくれた。
「おはようございます。陛下」
国王が目覚める時間までに身支度を整えて隣室で待機し、目覚めた国王を笑顔で迎えるのがカティアのつとめだった。
そう命じられたのではない。いつしか、自然とそうなった。
「アンナ。ここは天国か」
国王は微笑んで言った。時折、おそらく無意識に、国王はカティアのことをアンナと呼ぶ。
「ええ、そうです。陛下が、天国のような平和な国にしてくださいました」
カティアはランプに灯をともすと、ベッドのかたわらの椅子に座った。
「私の国王としての仕事は、これでよかったのかな」
「はい」
「じょ、上手に・・・」
国王は言葉をつまらせ、咳きこんだ。カティアは国王の背中をさすった。
「上手にできたかな?」
「はい。私も、貴族も兵士も農夫たちも、みんな満足しています」
「こ、子供たちは?」
「陛下をたたえる歌を歌っています」
「そうか!」
国王はにこにこと笑った。
「これでよかったんだな?」
「はい」
「お前に、ほめて欲しかった。お前に見せてやりたかったのだ、アンナ」
「ええ、ありがとうございます。本当に私、満足です。ちゃんと陛下のこと、見てましたよ」
このようなやりとりを、ここ数日、毎朝続けている。
それは何かのリハビリテーションのようでもあり、しかしカティアは何か意図があってそうしているわけではなく、話を合わせているうちにそうなった。その様子に、となりの部屋で聞き耳を立てている女官、侍女たちは、奇妙なことをしていると顔をしかめたり、優しい心がけと、カティアを敬う者もあった。
朝食を終えると、日がよく出ているので国王はカティアに手を引かれて庭を散歩した。
そこに衛兵の一人が現れて告げた。
「陛下。例の、フィデルと申す少年が、城壁の外で叫んでいます。陛下に会わせろと」
国王はすぐに、フィデルを賓客として丁重に謁見の間に通すよう命じた。
国王は再びフィデルと会見した。
謁見の間には国王とフィデルの他には、三人の衛兵しか入室を許さなかった。
カティアには別室で待つよう告げてある。
ひざまづいて国王を待っていたフィデルに、顔を上げるよう伝えると、覚悟を決めた鋭い眼差しが国王に向けられた。
その熱い目の輝きが、衰えた国王には心地よい。思わず微笑む。
ここに来るまでに、衛兵たちともめたのか、髪はほつれ、服も乱れていた。
フィデルは手に書状を携えていた。
衛兵の一人がフィデルからその書状を受け取り、国王に渡す。
国王は書状を開いて一読すると、さらに喜ばしげな笑みを浮かべた。
「よろしい。受けて立とう」
フィデルの表情は変わらず、汗がひとしずく頬を流れ落ちる。
国王は開いた書状を衛兵に渡した。衛兵は書状を呼んで愕然とした。
「け、決闘!これは、決闘の申し込みではありませんか!」
「いかにも」
国王は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、首や腕を軽く動かしてほぐした。
「ば、バカな!なりませぬ!これは、陛下への反逆ではないですか!」
「つまらんことを言うな」
国王は、謁見の間全体に響き渡る朗々とした声で、衛兵たちに次のことを言い渡した。
この決闘は、反逆ではないこと。
この決闘は、古来から貴族たちに伝わる決闘の作法に則って行われるものであるため、どちらが相手の命を奪っても、罪には問われないこと。
決闘の準備ができ次第、衛兵たちは全員この部屋から出て、国王とフィデルの二人だけにすること。
なお、それを破って部屋に入り、決闘の邪魔をする者があれば、国王の命に背く者として終身刑に処する。
「よいか!」
国王に一喝されては、衛兵たちは従うしかない。
国王は衛兵たちに、腰の剣を自分とフィデルに渡すよう命じ、衛兵はその通りにした。
国王とフィデルは三メートルほどの距離を置いて、剣を手に、向かい合った。
衛兵たちは静かに部屋を退出し、ドアを閉めた。
「ご配慮いただきありがとうございます、陛下」
フィデルは両手で剣を持ち、中段に構えながら礼を述べた。
「私のほうこそ礼を言おう」
国王はゆっくりと上段に構えた。
その背後の壁に、王家の紋章を縫い込んだ紅い旗が見える。
「さあ、勝負を決しようではないか」
国王の体はふらふらと小さく左右に揺れていた。剣を持つ手も震えている。国王は一流の剣士でもあったが、久しぶりに手にした剣は、病み衰えた体には重すぎた。
一方のフィデルはというと、体力はあるが、剣術の腕は、ほぼ無いに等しい。それでも自分の名誉のためには決闘を申し込むしかなかった。
「せやあっ!」
大きな気合の一声を放つとともに、フィデルは国王に向かって突進した。
国王はすっと一歩、体を右に動かす。かわされたフィデルは突進の目標を失い、勢い余って壁まで走った。
「くそっ」壁に片手をついて振り返り、もう一度国王に向かって突進する。
国王はこれも、よろめきつつ体をわずかに動かして寸前でかわした。
三度目にフィデルが突進したとき、国王は初めてフィデルの頭上に剣を振り下ろした。
フィデルはそれを剣で受けた。
鋭い金属音が響き、交差した剣を挟んで国王とフィデルはにらみ合った。
フィデルはすでに息があがり、顔中に汗をかいている。肩で息をしながらも、両目の眼光だけは鋭かった。
剣術では遥かに上回る国王も、急な運動により呼吸を乱し、めまいを感じている。
フィデルは何とか国王の剣を弾き返し、反撃の剣を振るった。
しかし大きく振り回すだけの一撃はとらえやすく、国王は簡単に剣を合わせ、これを受け止める。
国王はもう一度、フィデルの目を見た。必死の眼光は燃え上がったまま衰えない。
国王は目を細め、口もとをほころばせた。胸いっぱいに大きな満足感が広がる。
と同時に、去るべき時はとうに来ていることを実感した。
続けざまにフィデルが、子供の剣術ごっこにも劣る拙い一撃を力まかせに放ったとき、国王にもはやそれを受け止める力は残されていなかった。
剣でそれを受けはしたが、もはや剣を握っていることができない。剣は国王の手から弾き飛ばされた。
めまいが、頭を殴られたかのように強くなり、片ひざをつく。
そのまま、床に倒れた。
フィデルは勝利を確信し、うつ伏せに倒れた国王に向かって剣を振り上げた。
国王は、荒い息をつきながら、仰向けになってフィデルを見た。
「フィデル、どうした。ここが勝機、剣を振り下ろさぬか。まだ勝負は決していないぞ」
フィデルはさっきまでとは別人のような、血の気の引いた白い顔で、震えながらつぶやいた。
「い、いいえ、陛下。勝負はつきました」
国王は、呼吸をするのも苦しげに、かすれた声で訴えた。
「バカめ。と、とどめを刺すまでは、何が起きるかわからんぞ。さあ、その剣を振り下ろせ。敵を打ち倒すのだ」
しかしフィデルは、白い彫像になったかのように、剣を振り上げたまま、ただ震えている。
バン、と大きな音がして、ドアが開いた。
「陛下!一大事でございます!イスパト軍の兵士たちが、わが国へ向けて進行中です!今夜には、国境のデンフリート村近辺に到達すると予測されます!」
軍装に身を包んだ兵士が、悲鳴を上げるかのように報告した。
「なにい!」
力尽きたはずの国王が、野獣のように叫んだ。
すぐさま、雷撃に打たれたかのような激しさで立ち上がる。
「わあっ」
フィデルは驚いて剣を取り落とし、その場に尻もちをついた。
兵士は、状況を理解していないらしく戸惑ったが、続けて報告した。
「その数は五百ほど、本格的な侵攻ではありませんが、陛下がご病気で、お命が危ないとの情報を聞きつけ、わが国に再び刃を向けたものと存じます!」
「おのれ・・・賊徒めが!五十年にわたる平和を、金と手がら欲しさの卑しい欲で汚すつもりか!」
兵士に続いて、決闘の結果を待っていた人々、城中の兵士や侍従たちがどっと謁見の間に押し寄せて来た。カティアやクラウディアの顔も見える。
「馬を引けえい!」
国王の咆哮が轟きわたる。国王は壁にかけてあった王家の軍旗をつかみ、むしり取るように壁から外して、高く掲げた。
「出陣じゃ!卑劣なイスパトの賊軍どもに、目にもの見せてくれよう!」
謁見の間にひしめく、百人ほどの人々は、国王の勇姿を目にして、
「オオー!」
歓声を上げた。
国王の体が、グラリと揺れた。
フィデルとカティヤが駆け寄り、国王の体を両側から支えた。
「フィデル。私を背負え」
「はっ!」
フィデルはやせ衰えた国王の体を背負った。
「カティア、心配はいらん。すぐに蹴散らして来るからな。村の人々には指一本ふれさせん」
「陛下、ですが、ご無理は」
「フィデル、ゆくぞ。出陣!と叫びながら、とにかく城の外へ向かって走れ。馬は得意か?」
「乗れます。二人乗りも大丈夫です」
「よろしい」
フィデルは胸いっぱいに息を吸うと、渾身の力を込めて叫んだ。
「国王陛下の出陣だあ!」
再びドッと歓声が上がった。涙を流しながら「国王陛下万歳!」と叫ぶ者もいた。
フィデルが国王を背負って駆け出すと、ついでのように、国王はつぶやいた。
「そう、フィデル、決闘はお前の勝ちでよい。カティアとの婚礼の式、楽しみにしておるぞ」
国王はフィデルに背負われて城を出ると、急ぎ用意された馬に乗った。手綱はフィデルが握った。
7
この時の様子を記録した『エッカルト王遺聞拾録』によると、国王エッカルトは真紅の旗を掲げてただ一騎で城を出たが、手綱を操るフィデルが「国王陛下ご出陣!」と連呼する声に応じて続々と兵士たちが集まり、エッカルト王を囲むように国境へ向かって駆け、駆け行くにつれどんどん数が増えた。街を駆け抜ければ商人や大工、料理人たちまで軍勢に加わり、田畑のそばを通れば農民たちが農具を手に走り出し、フィデルやカティアの親兄弟を含む貴族たちが追いかけ来て加わったのはもちろんのこと、国王の勇姿に感激した女性たちも追いすがり、子供たちも面白がってついてくるほか、犬や猫、ニワトリなども国王の恩に報いるためこの陣列に連なったと伝えられている。
こうして膨れ上がったエッカルト王の軍勢は、国境付近に到着する頃には正規軍五千、町や村の人々の義勇軍一万、犬三十頭、猫四匹、ニワトリ一羽に達したという。
ただ、デンフリート村付近にイスパト軍が近づいているという報せは、誤報だった。実際は、その付近の山賊たちによる、縄張りを巡る抗争に過ぎなかった。国境のイスパト国側から、山賊の集団が二百人ほど攻め寄せ、デンフリート村付近を縄張りとする山賊たちを襲撃しようとしていたものだが、二つの勢力がぶつかろうとしたところで、駆けつけたエッカルト王の軍勢にどちらの山賊もまとめて蹴散らされ、全員捕らえられて牢に入れられた。
その後のフィデルとカティアの物語は、さまざまに装飾されて詩や劇、音楽の題材にされた。それらの世界では、この後、フィデルがエッカルト王亡きあと王位を継いだカルル王のお供をして諸国を巡り歩いたり、カティアが奇跡を起こす聖女となって多くの老人や子供たちを救済したりするのだが、それらは、多少の根拠はあるものの、ほぼ作り話と見て間違いない。実際の二人は、仲の良い平凡な夫婦として生涯平和に暮らした、と説明するのが最も事実に近い。
おわり