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背筋を伸ばして

作者: はるあみ

背筋を伸ばして


「お兄ちゃんは今年も野川の灯篭流しに来たの?」

 妹の恵里は、大きなお腹を抱きかかえるように、縁側でスイカを食べている私の所に麦茶を運んで来た。

 野川は、小平を源泉とする湧水が、南に下り深大寺の傍を通り世田谷で多摩川に合流する。

 僕の実家は調布にある古刹深大寺より上流になる場所で小さな畑をやっている。昔は広い田畑があったようだか、私が生まれた頃には、もう大きな家庭菜園程度の畑しか残っていなかった。

「本当にこの家に住むのか」

 二十七歳で母親になる妹は、シングルマザーとなって実家に戻る決意をした。

「大丈夫よ、ちゃんと相続のときは半分にするから」

 突然、お腹に新しい命を宿して戻ってきた娘に、父親は2か月ほど口をきかず、母親は自転車でスーパーを何度も往復して紙オムツやらタオルを買ってきたのだと、妹は笑いながら報告してくれた。

 築百年を超える古民家は、夏は暑く冬は寒い上に、障子も畳もうんざりするほど手入れが面倒だ。

 思い切ってリフォームすることを勧めたのだが、妹が反対した。

「私は、この不便な家で子供を育てたいの」

 都心で何があったのかは、あまり話したがらなかったが、しつこい母親に「何しろ駄目男にひっかかっちゃったの。あんなのと結婚しても子供によくないからね」

 バイトを転々としながら面白いことだけをして暮らす男をジャージを着た幼稚園の先生はキラキラした別の世界の入口に立つ案内人にだと錯覚した。

「昔と違うんだぜ」

「そんなに変わらないわよ。私が子供の時から、この家は古くて不便だったし、薄暗かったんだから」

 確かに言われてみれば昔から不便で古くてお化けが出そうな感じだった。

 いま住んでいる都心のワンルームと比べて、どっちか不便かは分からないが、今更建付けの悪い雨戸を開け閉めする毎日に戻る気にはなれない。

「いいのよ、私はこの家で子供を育てたいんだから、ちゃんと、また仕事も始めるから心配しないで」

 ゴムの伸びたジャージを履いた妹は、去年のお盆より楽しそうだった。

「知っている? 深大寺の八観音をお参りした後で灯篭流しを見に行くと会いたい人に会えるっていう都市伝説」

 お腹を反らすように縁側から足を出し、首にかけたタオルで汗をぬぐうと大きく息を吐き出した。

「お前が隣に座ると暑苦しいな」

 私はちょっと妹から離れて座り直した。


 深大寺の山門を潜って六畜観音に手を合わせ、そのあとそば観音、姫観音、福徳観音、千手観音、鳥獣観音、十二支観音、延命観音と境内の案内図を頼りに汗だくになりながら巡った。子供の頃から何度も来た深大寺なのに、観音様が八柱もあることは知らなかった。


 もう五年も前のことだ。

 子供の頃から丈夫ではなかった彼女は、会社に入っても休みが多かった。小さな印刷会社での営業は、美大を出た彼女にとっては、不本意なことが多かったと思う。それでもトートバックいっぱいにサンプルやカタログを持って走り回っていたが、注文をとれることはあまりなかった。

 最初は応援していた先輩達も、頻繁に「すいません、体調が」と電話をしてくる彼女に、うんざりしながら「はい」とそっけなく答えるだけになり、会社は居心地が悪い場所になっていた。

 けっして美人ではないが、方言がまじる彼女に私は惹かれていた。太り気味を気にしながら甘いものが止められない彼女に、私はよく東京銘菓を買って帰社しては叱られた。

「これって、意地悪ですか」

そう言いながら彼女は、お茶やコーヒーを私や周りの人に淹れて、美味しそうに食べては、「太ります」と宣言して笑った。

 実際、彼女は入社して一年ぐらいで、ちょっと太った気がする。そんな彼女がお菓子を机に貯めだしたのは、世の中の景気が悪くなりだした頃だった。

 売り上げが下がり、社長の機嫌が悪くなると社内でお茶を飲みながらお菓子を食べて雑談をするなんて雰囲気はなくなった。

 お菓子を食べなくなった彼女は、入社した頃より細くなり、休みも前より頻繁になった。青い顔をして、なんとか会社にたどり着いても午後までもたいない日も多く、それでも頑張ろうとしているのを見ているのは辛かった。

「辞めた方がいいよ」

 そう言いたかったが、大学のときに借りた奨学金をコツコツ返す彼女に、仕事を辞めて休めなんて簡単には言えなかった。

「灯篭流しがあるんだ。実家のそばで。そば饅頭も美味しいんだよ」

 最初は返事に困っていたが、家に縁側があることを知ると、「縁側でスイカ食べたいですね」と笑って承諾してくれた。しかし、その笑顔は、お菓子を食べている頃とはは違っていた。

 深大寺にお参りをして、野川の灯篭流しを見終えた私と彼女は、実家の縁側でスイカを食べた。

 母親はスイカの他に畑でとれたナスときゅうりの漬物をしきりに知世に勧め、「新鮮だから」と生のきゅうりに味噌をつけたものまで出してきた。

 まだ、お腹に命の欠片さえなかった妹は、そんな母に「お兄ちゃんの邪魔をしないの」と、彼女の隣に座りたがる母を台所に連れ戻してくれたが、母はまた麦茶とケーキを持って縁側にやってくる。

 そんな母を父は苦々しい顔で見ているだけで、何も言わない。

「いいところで育ったんですね」

 彼女の生い立ちについて詳しく聞いたことはなかったが、会話の中で豊かな生活で無かったことだけはわかった。

「縁側のある家って、それだけで幸せになれそうな気がしますね」知世はとても幸せそうだった。

 境内の木陰で汗を拭きながら、私は彼女との会話を思い出しながら、深大寺から灯篭流しをする御塔坂橋に向かった。

 橋から眺める野川にはもう灯篭が浮かんでいた。人ごみに諦めた私は、土手に降りることなく灯篭の流れる反対に向かって川沿いの道を歩いた。

「いいんですか? 灯篭を送らないで」

気がつくと、二の腕を気にする太った彼女が私の横に歩いていた。周りにあった人ごみは、訪れた暗闇の中で淡い灯に変わっていた。

「人ごみは苦手なんだよ」

 私は縁側でスイカを食べたときと同じ白いパンツを履いた彼女に、そう答えた。

「私も人ごみは苦手です。でも、ひとりも寂しい」

「そうだね」

 ペタペタという彼女の足音を聞きながら、彼女と話をした。

「あの日買った蕎麦饅頭は食べたの」

「縁側で飛ばしたスイカ種は、芽は出なかったみたいだよ」

「会社は相変わらず良くないけど、なんとか潰れずにあるよ」

「君が座っていた席はまだ空いているよ」

 私はとめどなく、どうでも良いことを彼女に話した。

 彼女は僕の話を笑ったり照れたりしながら聞いていた。

「知っていた? 僕が君を好きだったこと。そして、去年の灯篭流しはデートのつもりだったこと。人ごみの中で君の手を握ったのは、はぐれないようにじゃなくてキスをしたかったからってこと。君はちゃんと分かっていたかな」

 彼女は顔を赤くして頷くと「もう十分ですよ。五年間もずっとそばに居てくれたんだから」とほほ笑んだ。

 そうだ、僕は知世が居なくなってからも、ずっそ彼女に恋をしていた。朝起きてから寝るまで、彼女との思い出を小出しにしては後悔していた。

 それは、とても辛く苦しいことだったが、全部忘れてしまいたいとは思わなかった。

 灯篭流しの後のキスも、遅くまで二人でお菓子を食べながら仕事をしたことも、何回も思い出していた。

「背筋を伸ばして歩いて下さいね。前みたいに。私は先輩の背中が大好きでした。少し右を上げて歩く背中が。もっとちゃんとその背中を見てればよかった。そうすれば勇気が湧いて遅れないようについていけたかもしれないのに」

 最近の僕は少し猫背かもしれない。

「そうだね、背筋を伸ばさないとね」

 私が背筋を伸ばして歩き始めると彼女はいつの間にかいなくなり、気がつくと家まで歩いていた。

「ずいぶん遅かったね」

 縁側で月を見ていた私の横に妹が「どっこいしょ」と言って座った。

「会えたの?」

 妹の言葉に、僕は、「背筋は伸ばして歩くよ」とだけ答えた。

「なにそれ」

「なあ、台所にきゅうりとナスはあるか」

 私はナスときゅうりに割り箸を刺し、精霊馬をつくると月の方を向いて並べた。

「送る気になったんだ」妹は団扇で僕の額に風を送ると、「私も背筋を伸ばさなきゃ、お母さんになるんだから」と笑った。




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