その9 異世界クラッシャー
次に内藤と佐竹が異世界の赤子の世話に行くことになったのは、前回から一年後、次の夏季休暇の頃だった。
まだ夏休みに入ってすぐのことであり、五月生まれの佐竹はすでに二十歳になっているが、八月生まれの内藤はまだ十九である。もちろん、それはこちらの世界、日本における法律上の話であって、厳密には二人ともその年齢だとは言えない。
「またそろそろこっちに来んか」という、異世界の王の気軽な申し出に、毎度のことながら佐竹は呆れた顔で半眼になっていたものだった。
しかし、とにかく内藤とその弟、洋介が二人して涙目になり、ひたすら「小ムネに会いたい〜! お願い、佐竹 (さん)!!」の一点張りなので、さすがの佐竹も分が悪すぎた。
ともかくもそんな訳で、内藤はまたいそいそと様々の消耗品系のベビー用品を準備して、あちら側との約定どおり、その日は内藤家のリビングで三人で待機していた。
予定の時刻になり、例の《暗黒門》がリビングの片隅に現出しはじめ、内藤と洋介は「待ってました」とばかり、嬉しげに立ち上がった。初めてそれを目撃したときのトラウマもあらばこそである。
内藤は大きなマザーズバッグを抱え、そのほかの大きな荷物は佐竹が持っている。洋介に至ってはもうすっかり、これが「夏のバカンス」にでもなっているらしく、大きなリュックサックをしょって、手には小ムネユキ殿下へのお土産であるらしい、小さな木製の車の玩具を持っていた。
すでにみんな、勝手知ったる「異世界への道行き」だ。
もはや内藤と洋介など鼻歌まじりのうきうき気分である。
「それもどうなんだ」とは思いつつ、この日のためにと洋介も七月中に頑張って夏休みの宿題を仕上げていたことを知っているため、佐竹もあまり強くは言えない。
暗い《産道》をいつものように歩き、目前に迫ってくる光るまるい出口を目指す。
ほどなく三人は、軽い足取りであちらの宮殿、敷石でつくられた廊下へとおり立った。
とん。
とん。
ぽん。
……かつん。
(……『かつん』?)
と、三人が一様に、四つ目のその音に怪訝な顔で振り向いた。
「え……」
「えっ?」
「…………」
内藤と洋介は驚いて目を丸くしていたが、佐竹はただただ、これ以上ないほどに剣吞な顔になって沈黙していた。
「あらあら! 意外と呆気なく着いちゃうものね。もーっとドラマティックなものかと思ってたわあ!」
にこにこ笑いながら、ブランドもののパンツスーツをきりりと着こなした長身の女が、皆の背後に立ちはだかっている。
腰に手を当てた豪快なポーズ。傲岸不遜、かつ凶悪なその笑顔。
佐竹の母、馨子だった。
「……なにをやってる」
佐竹の声は、すでに地の底を這っている。周囲の空気も、絶対零度まで冷え込んでいた。
「あら! ご挨拶ね。実のお母様に向かってその言葉遣いってどうなのよ? いつも品行方正なあたしの煌ちゃんらしくないじゃない。おかーさまにだけそれって理不尽よ! 宗之さんがいてくれたら、きっともう、優しく厳しく諭されちゃうところよー? そうね、十五時間は硬いわね」
「え? ……え? なな、なんで……?」
そこまでずっと固まって蝋人形化していた内藤が、ここでようやく人間に戻って声を上げた。洋介のほうはまだ、かちんこちんの小さい蝋人形のままだ。
「あら祐哉きゅん、お久しぶり。洋介ちゃんも元気そうね! 今年の『異世界育児ツアー』はもう、どんな手を使っても、あたしも参加しようと思ってたのよー。もう、あきちゃんたらほんっと、徹頭徹尾、秘密主義なもんだから大変だったのよ〜? 一年かけてみ〜っちり準備してきた甲斐があったというものね!」
「……なにを一気呵成に」
佐竹は完全に半眼で、腕組みをしたまま我が母を睨み据えている。もちろん、その母は何も動じない。
「おーっほほほほ! ざまぁご覧なさい煌ちゃん! いくらあきちゃんが相手でも、母親に勝てる息子なんて、この世にはいないのよーん!」
そして、いつもの高笑いだ。
「や、あの……『異世界育児ツアー』って、馨子さん……??」
だらだら冷や汗をかいている内藤の前に、佐竹がずいと割って入った。
「……帰れ。今すぐだ」
目の前には、まだあの《門》が開いている。
実の母親に手を掛けるのはさすがに躊躇っているようだったが、その眼光からして、佐竹は今にも馨子の首根っこを引っつかんでそこへ放り込みそうな勢いである。
「あ、ちょっと佐竹、乱暴はやめよう? い、一応お前のお母さんなんだからっ……!」
「甘いぞ内藤。この女、甘やかすとどこまでも付け上がる。俺が言うんだから間違いない。この世界を喰らい尽くされるのが関の山だ。あとには何も残らんぞ。この世界と人々の安寧のためだ、やむを得ん」
言いながらも、その体じゅうから本気の「殺気」がごうっと溢れ出して、内藤はさらに慌てた。
「いやいや、ちょっと待て! なんかいつの間にかお母さんが、『恐怖の侵略者』みたいな扱いになってるんだけど!」
「大して変わらん。そこをどけ」
「だっ、ダメダメ、だめだって――!」
内藤がそう叫んで、佐竹のサマーセーターの端を掴んだとき。
「母、上……?」
呆然としたような声が背後から聞こえて、内藤はびくりと体を竦ませた。
恐る恐る振り向くと、そこには佐竹にそっくりの、しかし長髪で精悍な風貌をした黒マントの男が、一歳ほどの赤子をたて抱きにして立ち尽くしていた。赤子はもちろん、燃えるようなオレンジ色の髪色だ。
とたん、ぱあっと内藤の顔が明るくなった。
「陛下! 小ムネえぇ――!!」
内藤と洋介は、いきなりその場に大荷物を放り出すようにしてそちらへと駆け寄った。
「うっわ、大きくなったな、小ムネぇ! 重くなってる、元気そう……!」
内藤はもう、現在おかれている状況のことなど綺麗に忘れて手放しの喜びようだ。すぐに内藤に抱き取られた小ムネユキ殿下の方でも、もうにこにこで、きゃあきゃあ笑いながら「ゆーや!」を連呼している。
小さなお手てをいっぱいに開いて内藤の顔にしがみつき、可愛い唇で内藤の頬に「ちゅう」などしているのを見て、佐竹の周囲の気温がさらに下がった。
一方、息子を内藤に預けたサーティークは、ただこちらを驚いた顔で凝視しているばかりだ。
「母上様……では、ありませんね。あー、確か『カオルコ殿』とおっしゃいましたか」
言葉そのものは分からずとも、馨子はすぐさま自分の名前には反応したらしかった。
「あらっ! 存じ上げてくださってたなんて嬉しいわ。そちらは、たしかサーティーク様でしたわよね? きゃーっ! いやーん! ほんっとーに煌ちゃんにそっくり、いえあきちゃんより大人でワルそうで色っぽいお方じゃなーい。やあねえ二人とも! どうしてこんな素敵な方、もっと早くあたしに紹介してくれなかったのようっ!」
(……いや。しないでしょ。)
内藤は真っ青になりつつも、心の中だけで盛大に突っ込んでいる。
佐竹なぞに至っては、そうこう言っているうちに閉じてしまった《門》のあった辺りを恨めしげに睨みつけているばかりである。
(ああああ、もう! 佐竹が超絶、怒ってるじゃん……!)
大体、一体いつの間に馨子は内藤家のリビングに入り込んでいたのだ。それは不法侵入って言わないのか。しかもあの佐竹をして、その気配に気づかせないとか、化け物なのか。
「改めまして、カオルコ殿。ノエリオール国王、サーティークと申します。過日はご子息殿に過分のご助力をいただき――」
と、まだサーティークが話しているうちに、馨子はずいと彼のそばに近寄った。にっこりと、それ専用の作った笑顔が怖いのは、きっと内藤だけではあるまい。
「こちらこそ、ご挨拶が遅れましたわ。不肖の息子が、その節は大変お世話になりました。お礼かたがた、今回はわたくしも同行させて頂いちゃいましたわ、陛下」
片や異世界の言語、片やまぎれもない日本語であるにも関わらず、なぜか会話が成立している。
どうせこの女とて佐竹の母だ。持っているポテンシャルは怪獣並みである。今は無理でも、あっという間にこちらの言語などマスターしてしまうに違いない。
「っていう堅苦しい挨拶はこのくらいにして、……陛下! 早速ですが、今は正妃も側女の一人も置かれていないというのは本当でいらっしゃいますことっ? ほんのちょっぴり、トウは立っていますけれど、わたくしをお傍に置かれませんこと? 小ムネユキ殿下の弟ぎみ、妹ぎみぐらい、今からでもバンッバン産んで差し上げ――ムガモガガ!」
遂に佐竹が、自分の母の口を背後から両手でがしっと塞いだ。堪忍袋の緒が切れたらしい。もはやその殺気だけで人が殺せそうな勢いである。
「……お耳汚しをいたしました」
サーティークが、ちらりとそんな佐竹を見て訊いた。
「すまん。そなたらの言語がまだよく分からんのだが。ご母堂は今、俺になんと?」
「…………」
佐竹がおっそろしい顔で沈黙しているばかりなので、仕方なく内藤が、涙目になって答えるよりほかはなかった。
「ごめんなさい、陛下。忘れてください……」
もはや滂沱の涙までいってしまいそうになる。
そんな内藤の顔を、しばし不思議そうにじっと見つめていた小ムネユキが、彼の頬を小さな手で撫でるようにしながら言った。
「ゆーや? たいたい?」
なでなでなでなで。
「たいたい? ゆーや」
「え……」
それは恐らく、内藤に向かって「痛いのか」と訊いているのであるらしい。それを見て、内藤はつい、「うっ」となって泣きそうになってしまった。
その途端。
燃えるような髪色をしたその赤子が、黒い瞳できっと周囲の大人連中を睨みつけた。
そしてひと言、鋭く言い放った。
「……めッ!!」
一瞬、その場に沈黙が下りる。
しかし。
「きゃああああっ! かわいいっっ……!」
沈黙を破ったのは、やっぱり「大魔神」馨子だった。
「ちょっとなに、そのベビー! ほんと、あきちゃんそっくりい! 抱かせて、祐哉きゅん、あたしにもおおおお!」
途端、びくーんと内藤が飛び上がった。そして、慌てて小ムネを抱きしめる。
その小ムネも、馨子を認識した途端、内藤の腕の中でこちんと固まったようだった。
本日の蝋人形、三体目である。
「うわ……。いや、あのちょっと、勘弁してくださいい!」
内藤は必死に後ずさり、次の瞬間にはもう魔獣のごとくにこちらへと襲い掛かってきた長身の女から逃げだした。
「いやああ! ごめんなさい、馨子さん! この子だけは許して、勘弁してえええ――!」
もうなにをやっているのだかよく分からない状態のまま、小ムネユキを抱いたまま、内藤が王宮の廊下を逃げてゆく。
周囲で遠巻きにこちらをみていた召使いらが、目をまんまるくして、見たことのあるようなその大女を見つめていた。
「あら! ちょっと待ってよ、別に取って食おうっていうんじゃないんだしい! まってよ祐哉きゅん、待ってったらああ――!!」
「やだああ! お許しください、堪忍してええええ――!」
走り去った二人を見送って、佐竹とサーティーク、そして洋介は、その場でしばし呆然としていた。
やがて、サーティークが腕を組み、顎を撫でながらぼそりと言った。多少、呆れたような声音だった。
「……うん。まことにそっくりだな、母上と」
「…………」
眉間に皺を入れまくっていた佐竹が、思わずぎょっとしたように、若き国王を見返した。
「クラッシャー」っていうとつい、「クラッシャー○ョウ」を思い出すかたは、間違いなく私と同年代です…(苦笑)
夏の終わり、コメディにて納涼でした(笑)。
いかがだったでしょうか…。
ここまで書いてから、いきなり「白き鎧 黒き鎧 外伝《馨子、その愛》」へ走ったことは内緒(笑)。