その4 地球の裏側からこんにちは
「え〜っと……父さん? びっくりしないで聞いて欲しいんだけど……」
大変申し訳なさそうな声で、リビングに入ってきた内藤がまず父に言ったのはこれだった。
内藤祐哉の父、隆は、何の気なしにリビングのソファからこちらを振り向いた次の瞬間、そこから転げ落ちるのではないかと思った。
「な、……え!?」
息子の腕に、小さな赤子が抱かれている。何故だかよく分からないが、燃えるようなオレンジ色の髪をした赤ん坊だ。内藤の背後には、長身の佐竹がいつもよりも少々不機嫌な顔をして立っている。当の赤子は、周囲をきょろきょろと見る風だったが、機嫌はひどく良さそうだった。
「え……、ええっと……。今度は一体、なんなんだ?」
「あ〜っ、赤ちゃんだ! 兄ちゃんどうしたの? この子!」
ちょうど自分の部屋から出てきたところだった洋介が、内藤の抱いているものを目ざとく見つけて、その足元でぴょんぴょん跳ねた。
洋介は今、小学三年生になっている。
少し伸び上がって、その赤子の顔を覗きこむと、洋介は「あれ?」と不思議そうな顔になった。
「なんかこの子、佐竹さんににてるみたい……?」
そのひと言を聞いた途端、隆がげんなりした目になった。「まさかまた、『あっちの世界』関連か」と、明らかにその目が言っている。
「あ、あははは……」
内藤はただもう、肩を落として苦笑するよりほかはなかった。
「ええっと、確か洋介が小さいときの抱っこ紐とか産着とか……、どこかに片付けてたよね? 父さん」
洋介と一緒に赤子のオムツを取り替えてやりながら、内藤が父に尋ねた。今は手持ちに紙おむつがないため、あちらの世界から持ってきている布のオムツを使うしかない。
ベビーオイルや何か、ちょっとしたものは、向こうの世界へ行く前に準備したが、さすがに哺乳瓶などは手許になかった。当然の話だが、この場に赤子の乳母になれるような人物はいないのだ。
「出来るだけ新しいものは買わないで済ませたいから。そのまま使えるものは使いたくって――うわ!!」
と、いきなりぴゅーっと派手にオシッコをかけられてしまい、内藤が苦笑した。
「あっちゃ〜、やられたあ……」
パーカーとジーンズがぐっしょりだ。
「あは! 兄ちゃん、びしょびしょだあ」
洋介が、隣でけらけら笑っている。
「お前もこうだったんだぞ? 洋介〜……」
しょうがないので、このまま一緒にシャワーでも浴びるかと、内藤はムネユキを抱き上げた。
「んじゃ、父さん、ほんとごめんね。ちょっとよろしく〜」
「あ〜……うん、そうだな。押入れの中でも見てくるよ……」
一連の顛末を佐竹と内藤から聞き取って、やっぱり呆然としていた隆が、ようやく重い腰を上げた。
ちなみに佐竹はと言えば、小ムネユキの傍にいてもできることは何もないため、さっさと足りないものでも買ってこようと、町のスーパーやショッピングモールに向かってくれている。
「わ〜、ちっちゃい佐竹さん、かっわいいなあ……」
洋介はもうにこにこで、シャワーから出た内藤から小ムネユキを受け取ると、そうっと抱きしめてひどく嬉しそうな顔をしていた。
この気難しい赤子の方でも、どうやら洋介のことは気に入ってくれたらしく、「ふわあ」と欠伸などしてリラックスしている様子だ。
「落っことしたら駄目だからな? ちょっとそのままでいてくれよ――」
素早くいつものスウェットパンツにTシャツ姿に着替えてから、小ムネを抱き取ってリビングに戻る。
隆は既に、押入れから様々なものを引っ張り出してきてくれていた。ロンパースだのオムツカバーだの、おねしょシートだのといった、それは懐かしいベビー用品がそろい踏みだ。ひょいと覗いて見れば、玄関には抱っこ紐やベビーカー、日よけのシェードまで出されている。
「あ、ありがとー! 父さん」
「ああ、いや。それはいいんだが――」
が、隆がその台詞を最後まで言うことは二度となかった。
なぜなら。
がちゃりと玄関のドアが開いて、粉ミルクだの紙オムツだのおしりふきシートだの、ひと通りのベビーグッズを買い揃えて戻ってきた佐竹の背後に、恐るべき人が立っていたからだ。
一般的な一戸建ての、普通サイズに過ぎない内藤家の玄関を塞ぐようにして仁王立ちしている、その女。
「ちょおっとおお! 祐哉きゅん! 何か大事なことが起こったら、まずはあたしに相談して頂戴って、何度言ったらわかるのよお!」
佐竹の母、馨子だった。
○●○●○●○
「どうしていつも煌ちゃんと祐哉きゅんは、あたしを綺麗に蚊帳の外に置こうとするのようっ! お母様、もう最近じゃあ、地球の裏側にいたってぴぴっと来ちゃうようになっちゃったじゃない!」
内藤家のリビングで、でかい女が猛然と、機関砲さながらの勢いで喋りまくっている。
「今回もそう!『あ! 今なにかあったわね! 絶対あったに違いないわ!』ってもう、あたしす〜ぐ飛行機に飛び乗ったわよ! そしたら御覧なさい、案の定じゃないのうっ! こんっっな可愛いあきちゃんそっくりのベビーなんか連れて帰ってきちゃって、もうもうっ……! ほんっと、水臭いんだから、あきちゃんったら――!!」
しかし、べしっと佐竹の背中をはたこうとした馨子の手は、いつものようにすかっと空を切っただけだった。
佐竹は当然ながら素早く体を躱したあとで、半眼になって我が母親を見つめている。
「あんたが帰ってきたからって、何がどうなるわけでもないだろう」
その声はもう完全に、「さっさと帰れ」と主張している。
「え、……ええっと……馨子さん……?」
内藤が困った顔で、小ムネユキを抱きしめている馨子のほうへ手をのばした。
「あの、小ムネ、かたまってるみたいなんで……。そ、そろそろ――」
そのとおりだった。
小ムネユキは、馨子がリビングに駆け込んできた瞬間から、びくりとして動きを止めたまま、うんともすんとも言わなかった。別に泣き出すわけでもないし、機嫌が悪いという風でもないが、なにかひたすら、黙って体を固くしている。
そして馨子が有無を言わさずに内藤の手から取り上げて以降も、ずっと小さな拳を握り締めたまま、「じっとこの拷問に耐えています」という様子なのだった。
その場ではただ一人、佐竹だけが、「気の毒にな」という目をしたまま、溜め息をついてそっぽを向いている。勿論、隆と洋介はずっとぽかんとしたままだ。
「え? そうなの? んもう、ざんね〜ん……」
馨子はいかにも渋々といった顔で赤子を内藤に返しながら、それでも嬉しそうに話し続けた。
「でも、もう感動だわあ、お母さん! だってこんなに煌ちゃんにそっくりのかわゆいベビーに、宗之さんの名前までつけてもらっちゃって……! ああもうあたし、その『サーティーク様』だっけ? に、ちゃんと一回お会いして、お礼言わなきゃ死ねないわあっ!」
それを聞いて、内藤と佐竹の顔が一瞬ぴくりとひきつった。
(……え、いや……。やめてあげて欲しいんだけど……。)
内藤は、こわばった笑顔の裏で、心底そう思った。
何かもう、佐竹以上に迷惑そうな、嫌そうな顔をしたサーティークの顔が目に浮かぶ。こんな女性は、絶対にあちらの世界に関わらせないほうがいい。
あの、佐竹そっくりの精悍な王も、なんとなくだが、この女性にだけは勝てそうもない気がしてしょうがない。
下手をすれば、会ったその場で即座にも、「あたしを後添いに貰って頂戴!」とか言い出して、「今からでもまだ、子供の二、三人は産んでみせるわよ〜!」なんて豪語して、あっさりノエリオール王国の正妃の座に収まるのではないかと、そんな気がして仕方がない。
いや本当に冗談ごとでなく、この馨子なら、そんな突拍子もないことでもしでかしかねない。それがもう、内藤は心配でしょうがないのだ。
万が一、そんなことにでもなってしまったら、こっちの胃の方が先に音を上げると思う。
(駄目だよな、うん。絶対だめ。)
うんうんうん、と、内藤は一人、自分に対して頷いた。
それがお互いの世界の平和のためだ。
なんだかそんな気がする。とてもする。
「……ちょっと、祐哉きゅん? なにかよからぬことを考えてるでしょ〜?」
「ひゃあああああッ!?」
耳もとでぼそっと言われて、内藤は小ムネを抱いたまま飛び上がった。
見れば、馨子の美しい目が、佐竹よろしく半眼になり、殺気を籠めて内藤を睨みすえている。
つんつんつん、と、鼻の頭を人差し指でつつかれた。
「『お義母様に隠し事はダメ』って、何度言ったらわかるのかしらあ? うちのお嫁にきてもらうからには、あたしの方針は絶対よ? あたしは言ってみれば『王太后様』。そこんとこ、間違わないでね? 祐哉きゅん?」
ばちーんと、派手なウインクまで飛んできた。
「は、……はい、お母様……」
内藤はもう涙目で、ぶんぶん顔を縦に振るしかできなかった。
一方で、内藤の腕に抱かれた「ミニ佐竹」は、もうすっかり安心した様子で、ほわほわと夢の世界に旅立っていた。
か、書けてもた…。
同じ話を一日二話更新は、はじめてです^^;
ちなみに、お読みくださった読者さま曰く、「男の子のおむつがえは前にガーゼかおむつを被せながらやると、飛ばされません」とのことです!
そうなんだってよ、内藤!(笑)