その11 あんよは上手
「さて、これでよし」
サーティークがそう言って、一度その手をぱん、と叩いた。
今、部屋の床には広い敷物が敷かれ、片側に殆どの大人が集まって、一列になっている。部屋の反対側の隅には、小ムネユキ付きの女官が王太子殿下を膝に抱いて、サーティークの合図を待っていた。
内藤は、困った笑顔を作りつつ、一応彼に尋ねてみた。
「あの〜。陛下、これって……」
途端、にかりとその王から素敵な笑顔が返ってくる。
「見れば分かろう? ……ああ、ただし、最初から答えが分かっているのはつまらんからな。そなたとナイト公には、この『勝負』からは外れてもらおう」
「え、いやあの、勝負って、陛下……」
「ここから小ムネユキを呼んで、誰のところに真っ先に小ムネユキがやってくるか。一番になった者には、なんでもひとつ、俺が望みを叶えてやろう」
「え、えええ……」
要するに、この場に居る大人たちで、小ムネユキがだれのところに真っ先に歩いてくるか、それを競おうということのようだ。
途端に、きらーんと目を輝かせた女が約一名いることに、内藤はすでに気付いている。恐らく佐竹もそうだろうと思われた。
内藤の隣で、明らかに佐竹の気がげんなりしたものになるのが分かる。
(なんっかまた、揉め事を自分から作ってるよな〜、この人……。)
いやむしろ、完全にこの王は、それを楽しんでいるご様子だ。
内藤は呆れつつ、それでも一応、言われた通り、ナイトと共に彼らの背後に置かれている衝立の後ろへ身を隠した。そこからそっと、ことの成りゆきを窺っている。
つまり勝負するのは、サーティーク、ヴァイハルト、馨子、佐竹、洋介の五名ということになるのだったが。
「……お断りする」
佐竹がこれ以上ないほどの無表情でそう言い放ち、さっさと踵を返して内藤の傍へ退散しようとしたのだったが。
「おや。逃げるのか? 『兄上殿』」
また例によって、サーティークが皮肉満載の笑顔で佐竹を見やった。
「ユウヤもナイト公も参戦されないこの勝負ですら、尻をからげて逃げ出すとはな。さてさてそなた、あのムネユキ殿のご子息とも思えん、怯懦の輩であったのか。この俺としたことが、人を見誤ったというものよ――」
わざとらしく首を横に振り、溜め息などついている。
佐竹がすうっと、その目を細めた。
(や、あの……。やめてってば、陛下……!)
どうしてそう、似た顔の者同士で張り合わねばならないのだろう。
佐竹が年の割には大人だから、ここまで血を見るような争いにこそなっていないが、これで佐竹までこの男と同様の「王様・俺様体質」だったら、一体どうなっていたことか。
「そうよ〜? 煌ちゃん。宗之さんの顔に泥を塗るのだけは、おかーさま、絶対に許しませんからねっ?」
にこにこ笑って腰に手をあて、馨子までがそんな事を言っている。
佐竹が、これ以上ないほどに剣呑な目になった。
「…………」
そうして、心底嫌そうな顔のまま、黙ってその戦列に戻った。さすがの佐竹も、「実の母の鶴の一声」だけには、どうにもこうにも弱いらしい。
サーティークは満足そうにそれを見やると、部屋の向かい側に向かって声を掛けた。
「さあ! いいぞ。おのおの方、準備にぬかりはないな? では、始めよ!」
途端、小ムネユキを抱いていた女官が敷物の上に殿下をそっとおろした。
小ムネユキは、つぶらな黒い瞳でこちらを見やって、少し何か考える風だったが、女官にそっと脇を持ち上げられてそこに小さな足で立つと、よちよちと前に進み始めた。
すると、こちら側の大人たちと洋介が、口々に彼を励まし始めた。
「よし! いいぞ! さすがは我が息子だ。さあ、まっすぐここへ来るんだ。そなたの敬愛する父上のもとへな!」
と自信満々にサーティークが言い放てば、
「いやいや! 小ムネが大好きなのは、だれよりこの私、伯父上様に決まっているよな? さあ、こちらへおいで、可愛い小ムネ〜!」
と、端麗な美貌をやに下がらせるようにして、将軍ヴァイハルトがその隣で手を叩く。
「小ムネ、上手、上手! その調子〜! こっちだよ、こっちだよ〜!」
洋介だけはただ一人、「お兄ちゃん」らしくごく明るく、楽しげに「弟」を呼んでいる。
ちなみに佐竹は、終始一貫、無言である。別に小ムネを呼ぶでもなく、だからといって睨みつけるというのでなく、もはやその顔は「無我の境地」といった風で、ただ一人腕組みをし、完全に「我関せず」状態でそっぽを向いていた。
そして、この中で紅一点のこの女。
「あ〜ら。母の魅力にかなう赤ちゃんなんて、この世にいるわけないじゃない? そうよね〜? 小ムネちゃん!」
その目が獲物をロックオンした肉食獣さながらに、ぎらぎら輝いているように思うのは、この場で内藤だけなのだろうか。
小ムネユキがちらっとそんな馨子を見て、ぎくりと足を止めたようだった。
なんだかそれは、まさに蛇に睨まれた蛙のようにしか見えなかった。
(いやあの、馨子さん……! 小ムネ、ぜったい怖がってますからあ! やめてやめて、やめてあげて――!)
内藤は、心の中でちょっと涙してしまう。
あれでは怖くて、そもそも小ムネがそちらへ歩くこと自体を躊躇してしまいそうだ。
小ムネはときどき、ちらりとその「大魔女神」の方を見ながらも、一歩一歩よちよちとこちらへ歩いてやってくる。
まだ時々、床に両手をついたりしながら、本当にゆっくりだ。
しかしやがて、人々の手前三メートルぐらいになったところで、はたと考え込んだような顔になった。
(あ〜。そうだよなあ……)
内藤には、小ムネの逡巡が手に取るように分かる。
恐らく、あのラインナップなら、小ムネが真っ直ぐに行きたいのは洋介の所だろう。
しかし、あとの人々の「こっちへ来い」オーラが余りにも怖すぎる。もしもそこへ行かなかったら、自分の身の危険を覚えるレベルだ。もしも内藤が今の小ムネの立場だったら、その場でもう、すでに大泣きしたくなっているかも知れない。
と、見る間にも、小ムネの小さな眉間に、佐竹よろしく、あの縦皺がきれいに刻まれるのがわかった。赤子にしてはきりりと整ったその顔が、非常な苦渋に歪んでいるのがよくわかる。
(ああああ、や、やっぱり……!)
そう思って、「やっぱりこんなこと、やめてあげて下さい」と内藤が衝立の後ろから声を掛けようとした、その時だった。
さかさかさかさか。
(…………!?)
場の一同は、その不思議な音を聞いて、一瞬目を丸くした。
さかさかさかさか。
(な、なに……? この音……)
内藤は恐る恐る、衝立のへりから顔を覗かせ、その様子をすき見した。
(……うわ。)
小ムネユキは、立った状態から四つ這いの状態に戻り、いま、まさにお尻の方から後ろへ向けて、凄まじい勢いで「はいはい」をしているところだった。
つまり、後ろ向きのはいはいだ。
それがまた、異様な速さである。そしてその顔は、赤子のそれにしては真剣そのもののように見えた。彼なりに、身の危険を覚えての苦渋の決断であるのは明らかだった。
そうして最後に、目前で呆然としている大人たちと洋介を後目に、小ムネユキはそそくさとそのまま後退し続け、すとんともとの女官の腕の中に、自分の体を落ち着けたのだった。
「ム、……ムネユキ……!」
サーティークの声は、明らかな怒りを乗せている。
「貴様、敵前逃亡を図るとはッ……! それは即刻、処刑されても文句は言えんぞ!」
「ちょ、ちょっと、陛下……!」
王の口からとんでもない単語が飛び出たことに、内藤はびっくりして衝立の後ろから飛び出した。ナイトも同様に、そこから出てきている。
その「敵前逃亡」っていうのはなんだ。
そもそも、あんたたちは小ムネの敵か。
「なに言ってるんですか、陛下! こんなのお遊びじゃないですか。そんな、マジにならないであげてください!」
内藤がちょっと半泣きでとりなすと、小ムネを抱いた女官も必死に、それに続いてくれた。
「どうか、陛下、お許し下さい。そろそろ、殿下のお昼寝のお時間でございます。殿下はお疲れなのでございましょう。どうかこのたびのことは、お許しを――」
「いいや、駄目だな! 国王の息子たる者が、このような――」
「サーティーク公」
と、穏やかな声ながら、ぴしりとそれを遮ったものがある。
見れば、ナイトがいつのまにか、そっとサーティークの傍らに立っていた。
「少し、大人げないのではありませんか? 貴方さまらしくもない」
「……む」
王族であるナイトの言葉にだけは、サーティークも即刻に言い返す訳にはいかないのか、やや黙って彼を見返した。
ナイトはいつも通りの落ち着いた優しい表情で、サーティークに微笑みかけた。
「それに、貴方さまがおっしゃったのですよ? この勝負で『一番』を取られた方のお望みは、何でも聞いて差し上げると。そちらの女性は、此度の『一番』であらせられるのではないのですか……?」
言いながら小首をかしげるようにして、自分よりは少し背の高い、黒の王の顔を覗きこむようにしている。
「…………」
さすがのサーティークが、しばし沈黙した。
(うわ。さすが、ナイトさん……!)
内藤は、もはや目から鱗である。
こんなに穏やかに諭しただけで、あのサーティークがやり込められる場面など初めて見た。
傍にいる佐竹もヴァイハルトも、そして馨子までが、ちょっと目を見張るようにして、このもの静かな白き王の姿を眺めやっている。
「貴方さまも、こうして人の親になられたのですから。小ムネユキ様のお手本になるように、もうほんの少しばかり、そのご勘気をどうにかなさいませんとね……?」
ふふふ、とただ優しげに、恐るべき「狂王」に向かって微笑むナイトから、もはや後光が差すようだった。
(うっわ。まぶしい……!)
いまの内藤の目には彼がまさに、この世に降り立った女神さまに見えた。
いや、一応男性なのだから、「神さま」というのが本来、妥当なのだろうけれど。
まあともかくも、そんなこんなでこの「勝負」は、ひとまず女官の一人勝ちということになったのだった。
やれやれと胸をなでおろす女官の腕の中で、もう小ムネユキはぷわぷわと、意味不明の寝言などを言いながら、すでに夢の世界へ旅立たれていた。
ここまで書いて以降、長いこと放置しておりましたが、一応完結マークを付けさせていただきます。
思いついたら、また何か書くかと思われますが、その節はどうぞまたよろしくお願いいたします。
キャラを愛してくださった皆様、まことにありがとうございました!^^
2017.2.25.Sat.