その1 抱き枕
異世界のあの「狂王」からその依頼があったのは、佐竹と内藤が高校三年生になった、その夏休み前のことだった。
《いや、正直、参っていてな――》
七月の朔日、かの《黒き鎧》を使っての定期連絡をしてきた時のサーティークは、どうもいつもとは様子が違った。
普段はもう少し、声に張りというのか自信というのか、そう、もう少し元気があるはずのこの王が、何か非常に困り果てたような、不安を滲ませた声を出していたのだ。
「ど、どうしたんですか……? 陛下」
内藤は、その連絡をいつものように自分の部屋で、佐竹と共に受けていた。時刻はいつもどおり、夜の十時である。内藤は自分のベッドの上に座り込み、佐竹は内藤の勉強机の椅子に腰掛けていた。
佐竹はそこで腕組みをしたまま、何事かを考えるようにして片手を顎に当てている。
サーティークの声は、この佐竹と、内藤の耳の中に響くようにして聞こえている。たとえ今、リビングにいる内藤の父、隆がここへ入ってきたとしても、彼にはその声は聞こえないはずだった。
困った色を乗せたままのサーティークの声が、さも申し訳なさそうに、その依頼の内容を明らかにした。
《そなたらには、こちらの世界にはもう関わるなとは申したが。済まんが少し、手を貸してもらいたい――》
が、佐竹の返答は、速攻、かつ端的だった。
「申し訳ありませんが、サーティーク公。それはお断りさせていただきたい」
内藤はぎょっとなってその友達の顔を凝視した。見れば、彼の顔には明らかに「不機嫌の虫」が居座っている。
因みに、今はもう正確には、彼とは単なる「友達」という間柄ではない。
もちろんまだ高校生なので、飽くまでも「清いお付き合い」ではあるのだけれど。
「え? あの、佐竹――」
言いかける内藤の言葉を、佐竹はあっさりと無視した。
「命に関わる事案ではありますまいし、そのような事は、是非そちらでの解決をお願いいたしたく」
《…………》
《鎧》の向こうのサーティークが、思わず言葉を失ったらしいのが分かった。内藤はたまらずに口を挟んだ。
「あ、あのさっ、佐竹……」
「やかましい。お前は黙っていろ」
ぎろっと殺気の籠もった視線で睨まれるが、ここは黙っているわけには行かなかった。
「いや、だってっ……!」
素早くベッドから立ち上がり、内藤は佐竹に一歩近づいた。
「あの小ムネが、俺が居なくなってからずーっと、ギャン泣きしてるんだよ? 可哀想じゃん! 女官さんたちだって、陛下だって大変じゃん……!」
そうなのだ。
このサーティークという王の弁によれば、かの世界で彼の息子として生まれた「小ムネユキ」が、内藤がこちらへ戻ってしまってからというもの、とにかく機嫌が悪いらしい。まだ生まれて数ヶ月のその赤子は、元気な男の子ではあるのだが、今は毎晩の夜泣きがそれはひどいのだという。いや、夜と言わず昼といわず、とにかくずっと泣いているのだとか。
それがもう、誰が抱いても、どうあやしても、寝ている時と乳を飲んでいる時以外、とにかくずっと続いているらしい。
(ああ、やっぱりまずったかも、俺……。)
内藤は頭を抱える。
実はあちらの世界で、サーティーク王の治める王国、ノエリオールの王宮にいた間、内藤はこの赤ん坊の世話を時おり買って出ていた。小ムネユキは、何故か内藤の腕の中が大好きで、彼が抱き上げるとすぐに、どんな大泣きをしていても、ぴたりと泣き止んだものだった。
王太子の世話を担当する女官たちは、毎日のこの王太子の大泣きにはほとほと困り果てていた。そして、内藤がかの国に世話になっていた間というものは、この小さな王太子が泣き出すと即、算術講師として働いている彼のもとへ、顔を真っ赤にして泣き叫んでいるその赤子を連れてきてしまうのが、もはや日課のようになっていたのだ。
(あんまり俺に懐かせすぎたらマズいよな、って思ってたのにな――。)
そうして、脱力する。
もともと、十歳年下の弟がいる関係で、自分が赤子の世話に慣れていたというのがいけなかったのかもしれない。また、あの小ムネユキの顔立ちが、髪の色こそ燃えるような夕日の色をしていたものの、佐竹やサーティークにそっくりなのが、もっといけなかったのかも知れなかった。それがもう内藤は、なんだか可愛くて仕方なかったのだ。
むずかって顔をしかめるとき、その赤子の小さな眉間にきゅっと皺が寄るところなんてもう、本当に佐竹にそっくりだった。その「ミニ佐竹」が盛大に涙をこぼしてギャンギャン泣いていたのが、自分が抱くと、途端にぴたりと泣きやんで、笑ってみたり、ことんと眠ってしまったりする。それはもう、さっきまでのあの泣きようが、まるっきり噓のような豹変ぶりだったのだ。
そんなのもう、可愛くないわけがない。
そんなこんなで、内藤はあちらの世界で、かの赤子をいつも抱いてやりたくて仕方がなかったのである。そうして、「だめだ、だめだ」と思いつつも、つい女官たちのその腕から、かの王太子を抱きとることが多かった。
そして。
要は、その結果がこれだった。
「…………」
沈黙して、こちらを見据えている佐竹の視線が、物凄く怖いものになっている。
その目はまさに、「一体だれの責任だ」とはっきりこちらを詰っていた。
(はい、俺の責任ですよね。わかってるよ? わかってるけどさ――。)
それには気付いていたけれど、内藤もそう簡単に引くわけには行かなかった。
「い、……命に関わらないって言ったけど――」
今にも引けそうになる腰を叱咤しながら、必死に言い募る。
「あんまり泣きすぎて眠れなかったり、ミルクも飲めなかったりしたら、赤ちゃんだって体力奪われるんだぞっ! もしかしたら、病気になっちゃうかもしれないんだし、命に関わらないなんてこと、ないんだからなっ……!」
そんな可哀想なことは、絶対にさせられない。
そうでなくても、サーティークはその小ムネユキの母である、大切な可愛い人を既に喪っているのだから。これ以上、彼から大切なものが奪われるなんて、とても我慢ができなかった。
だから必死に拳を握り締めて、内藤は佐竹の目をまっすぐに見ていい続けた。
「俺、行くから! お前がなんて言っても、小ムネのとこ、行って来るからっ……!」
佐竹の眉間に、紛れもなく厳しい皺が立った。
「……貴様。先日の模試の結果を目の前に置いて、もう一度同じ台詞が吐けるのか」
その声は、もはや地の底を這っている。
「……う」
途端、二の句が継げなくなった。
一瞬で、血の気が引いたのを自覚する。
そうなのだ。
佐竹のそれとは比べるべくも無いランク下の志望校であるにも関わらず、先日受けた模試の結果は、第一志望、第二志望ともD判定。佐竹は自分のことはそっちのけで、こちらのことを心から心配してくれているのだった。
そうして、毎日のように内藤家に来てくれては、内藤の受験勉強の家庭教師さえしてくれている。彼にはまったく、内藤は頭が上がらない。今となっては、父の隆ですらそうだった。
まして、その彼に向かってまさか、「受験も成績もどうなってもいいから、小ムネの世話をしにいきたい」とは、さすがの内藤にも言えるはずがなかった。
「…………」
しゅんとして俯いてしまった内藤を、佐竹はしばらく黙って怖い目で見つめていたが、やがてひとつ息をつくと、サーティークに向かってこう言った。
「ともあれ、殿下の状態がご心配なのは、公のお立場であれば当然でしょう。内藤も、いますぐという訳には参りませんが――」
(……ん?)
話の風向きが、やや明るい方を向いたような気がして、内藤は目を上げた。
佐竹の声音は、決してまだ機嫌のいいものではなかったけれども、それでもその内容は、少しの温情を見せたようだった。
「こちらの時期さえ見ていただけるなら、そちらのお手伝いをしに伺うのも、吝かではありません」
それを聞いて、内藤の顔がぱあっと明るくなる。
「佐竹っ……!」
《本当か、『兄上殿』》
耳の中に響くサーティークの声にも、明らかな安堵の色が聞き取れた。
「こちらとしましては、内藤の大学入学の目処が立ち次第、いつでもとは思います。それまではともかくも、そちらでなんとか対処していただければと」
「あ……、ああ、あのっ!」
と、突然手を上げて発言しようとした内藤を、佐竹が変な目で見返した。
「何だ、内藤」
「なんか、その間だけでもさっ、抱き枕とかなんとか、こっちから小ムネにプレゼントしてあげらんないかな? こっちにはほら、『柔らかくって安心できる〜』みたいなの、色々いっぱいあるんだし――」
と、サーティークが怪訝な声で言葉を挟んだ。
《……ダキマクラ? 何だそれは》
「ああ、えっと……」
内藤は簡単に、それの何たるかを説明した。サーティークはあっさりと理解する。
《……ああ、なるほど。それは有難い》
そして、ちょっと沈黙してからこう言った。
《ひとつ、いいだろうか? ユウヤ》
「はい?」
《そなた、それをこちらへ寄越す前に、それとしばらく一緒に寝ておいてくれんか》
「……は?」
内藤の顎がかくんと落ちる。
一体この王、また何を言い出したのだろう。
その時、内藤は気づかなかったが、佐竹の片眉がぴくっと跳ね上がったようだった。
サーティークは言葉を続けている。
《そなたの匂いがついていれば、ムネユキも多少は落ち着くのではないかと思ってな》
気のせいかもしれないが、その声音のどこかが、なにかにやにやと笑いを含んでいるような気がしなくもない。
《ついでに、アキユキ。そのダキマクラとやらに、ユウヤの声が出るような仕掛けはつけられんか? そなたらの世界なら、そのぐらいの技術はあろう?》
なにやら更に、要望が増えている。
(なに考えてんだよ、この王様は……??)
と、見れば隣にいる佐竹の顔が、さらに何段階か怖さを増していて、内藤はぎくっと身を竦めた。
「えーと……。佐竹? ど、どしたの……?」
佐竹は内藤の声には答えずに、サーティークに向かって質問した。
「……サーティーク公。それはまことに、小ムネユキ殿下だけがご使用になるのでしょうか」
《どういう意味だ》
「わけがわからん」と言いたげな声だったが、その実、その声は相当にしれっとしていた。何かその裏に、大いに含みがあるようにも聞こえる。内藤は首を捻った。
「は? ……どういうこと? 佐竹」
「お前は理解しなくていい」
腕を組んだまま、ぐいとまた睨まれて、内藤は黙り込む。
本当に、この「そっくりさん」の二人の会話は理解不能だ。
ともかくも。
翌日、二人は街の商業施設に出かけ、真っ白でふわふわの、羊の顔をした大きな抱き枕を購入した。
ちなみに佐竹は、なぜか内藤にはいっさいそれには触らせず、勿論なにがしかの録音機器なども埋め込まずに、ただ包装紙に包んだまま、それをあちらの世界に叩き送ったのであった。
何か色々申し訳ありません(苦笑)。
気が向いたら何かまた書くかもしれませんので、一応連載形式としていますが、
続きはいつになるか不明ですので、あしからず…。