声のお仕事
舞台女優水瀬麻理奈三十五歳。初舞台は二十歳そこそこだった彼女も気付くと劇団最年長である。だがその美しさは些かも衰えず、演技力は円熟の極みにあった。
彼女の所属する劇団シレーヌは中規模ながら知る人ぞ知ると言うレベルの劇団である。彼女が主宰を任されるようになってから程なくして法人化されて、特に裏方に対して手厚い俸給を与えている。逆に役者の方は出演料だけで食えるのは三割程度で、残りは研究員として副業をもって活動している。それでも入団希望者が引きを切らないのは、卒業生の何人かが大手芸能プロダクションと契約を結んで大成功を収めている。
かつての劇団員で今は地元のラジオ局につと得ている男性から副業の声が掛かった。
「水瀬さんが顔出しNGなのは知っているけど、ラジオならどう?」
ラジオ出演に際して、麻里奈は別名義を考えた。
「MaMi」
名前をひっくり返してその頭だけを拾ったものだ。
初めは一時間番組の中の五分間のミニコーナーだった。それがリスナーからの希望により枠が拡大し、やがてメインでの番組を持つことになった。
「昔もこんな事が有ったわねえ」
と希代乃が言うと、
「ええお陰さまで」
特に含みは無かったのだが、
「こ、今回は何もしていないわよ」
と珍しく動揺して見せる希代乃。
「判ってますよ」
希代乃をここまで動揺させられるのは、愛しの総一郎様を除けばこの麻理奈だけだ。
今回はと言うのは前回が有るわけで、ドラマのモブとして映った麻理奈が視聴者からの反響を受けて役名を貰い、遂にはヒロインを食うほどの重要な役どころに成長した。それが女優水瀬麻理奈の誕生へと続く。ここまでは希代乃の狙い通りだったのだが、その先は全くの計算外となったのだが、それは既に語り終えた話。
あの時は裏で希代乃が細工をしていたのだが、今回は違う。
「ドラマの時は親からもらったこの顔がモノを言ったけど、今回は自ら培った話術によって評価されたわけですから、手放しで嬉しいですね」
麻理奈は美しく生まれついたが故に不幸な半生を歩んできた。だから顔で評価される事をひどく嫌う。だからこそ声だけで勝ち得た今回の評価をこの上なく喜んでいる。
五分のミニコーナーの時代、麻里奈は文学作品の朗読を行っていた。一人で様々な役を声色を変えて演じる。彼女のお得意の仕事だ。それが一時間の冠番組になった後には、十五分取れるようになった。三十分は音楽コーナーで、残りは地元名士のインタビューである。名付けて覆面インタビュー。
「インタビューされる側じゃなくて、する側が顔を隠しているというのが斬新よね」
建前としては、質問はリスナーから募集してそれを代読するだけ。なのでインタビュアーは個人ではないと言う事なのだが、本音は、麻理奈が顔を表に晒したくないだけの話だ。MaMiの素顔を知るのは収録に立ち会うディレクターだけと言う念の入れようだ。
「皆さんにも出演して頂きたいんですけど」
と言って集められたのが女性弁護士永瀬矩華。元五輪選手野田なゆた。女医不破瞳。建築士西条志保美の四人。収録は麻理奈の部屋で行われた。
「志保美さんだけ遅れてますけど、順番に始めましょうか」
と言って舞踏会で付けそうな仮面をかぶる麻理奈。
「本気で覆面インタビューにするの?」
と笑うなゆた。
「一応初対面のつもりで話してね」
「人によっては怒りだしたりしない?」
「有りますよ。と言うかそれで枠が不足しだしたので、皆さんに出ていただこうかと」
と本音をポツリ。
「じゃあ私から」
と矩華が立ち上がる。
麻理奈の私室で収録開始。最上階はどこも防音設備が整っているが、この部屋は麻理奈の職業柄か特に念入りに施してある。
「今日のゲストはT大卒の美人弁護士、永瀬矩華先生です」
と紹介が入る。
「マスコミに出演されるのは今回が初めてと言うことで、リスナーから質問が殺到していますが、全体の七割を占めたかの有名な先生の御主人に関してのものはすべて没です。悪しからず」
と言うと、矩華がクスリと笑った。
「それはそれとして、ご主人がらみの依頼ってありませんか?」
「あら、主人の話はしないのでは」
と制止を入れつつも、
「政治絡みの依頼はすべてお断りしていますので」
「では。弁護士のお仕事としては民事関係と刑事関係があるかと思いますが、永瀬先生はどちらが多いですか?」
「半々ですね。私は特に境界を設けずに、依頼人の利益に応じて民事で戦うか刑事に訴えるかを決めています」
「両者の違いは?」
「専門的に言えば、民事訴訟法で扱うのが民事事件で、刑事訴訟法で扱うのが刑事事件と言うことになりますが、相手に対して賠償を求める場合には民事で、刑罰を与えたいときには刑事と言う感じでしょうか」
「と言うと依頼人の感情で対応が代わると」
「重要なのは、依頼人に寄り添いつつもその利益を最大限に尊重することでしょうか。依頼人が復讐を求めいたとしても、それが叶ったからといって依頼人が幸せになれるとは限りません」
と一呼吸おいて、
「例えばストーカーの事例。相手が刑罰に処されたとしても、恨みを買えば出所後に再び付け狙われることもあります。相手に社会的な罰を与えつつも、これ以上の行為を出来ないようにすることの方が重要です」
「先生の事務所は女性しかおらず、依頼人も主に女性だと聞いていますが」
「それは結果的にですね。最初にお世話になったのが女性の先生で、独立後もその縁で女性問題に関わることが多かったですから」
「取り扱う内容としては、離婚調停に家庭内暴力、そしてストーカー問題ですか」
「この中でも特に家庭内暴力ですが、これは必ずしも女性が被害者とは限らないのです。ヒステリー状態から発生した女性から男性への暴力行為、これは肉体的だけでなく精神的なものの場合もありますが、そのようなケースの解決依頼も多いのです」
「プライベートでは二人のお子さんをお持ちですが、家庭ではどのような母親なんでしょうか」
「正直言って母親としては胸の張れるような役割は果たせていませんね。私、家事一切が不得手なもので」
「ではお忙しい中ご主人が?」
「あまりしゃべると主人の好感度が上がってしまうので伏せますが、今は子供たちがやってくれています」
「そう言えば、あの方はもともと菓子職人でしたっけ」
「今でも子供たちのおやつは主人が作っていますよ」
この子供たちには矩華だけでなく全部の子供たちが含まれる。
「家事をどちらがやるかと言う問題も、夫婦間で話し合う問題であって他所の家庭と比較し始めるときりがありません。重要なのは、一度話し合って決めたら簡単に変えないこと。話し合う際には他所の家庭の事例を持ち込まないこと。人にはそれぞれ得手不得手がありますから」
「それでは恒例の最後の質問です。貴女にとって法と正義とは?」
「一言で答えるのは難しいですが。法と言うのは正義を行使するための一つの武器と言うあたりでしょうか」
「法は絶対ではない、と?」
「法と言うのは鋭利な刃物ですが、使用には注意を要する危険なものと言うことです」
「ありがとうございました」
二人が収録を終えてリビングに戻ると、
「何やってるの?」
なゆたと瞳は上着を脱いで取っ組み合いを、
「ストレッチです」
となゆた。
元スポーツ選手と外科医。それぞれの知識と経験を突き合わせて実践におよんだらしい。
「じゃあ、野田先輩からお先にどうぞ」
と瞳。
「そう言えば、今日の面子は全員同じ高校でしたね」
と麻理奈。
「なゆたと瞳って高校時代に面識は有ったの?」
「有りません。私は水泳三昧でしたし」
「でも成績はいつも五十番以内でしたよね」
「あら、常時主席だった不破さんに言われると照れるわね」
「なゆたんは負けず嫌いの努力家だったから」
と麻理奈。
気を取り直して収録開始。
「今日のお客様は、事前に募集していませんでしたが、是非に呼んでくれと希望が殺到したこの方です。競泳の元日本代表。美少女スイマーこと野田なゆたさんです」
「その呼び名は流石に」
と照れるなゆた。
「現役時代よりもお奇麗になった印象ですけど」
短く刈り込まれていた髪も長く伸ばし、化粧も普通にしている。
「髪は、キャップでしまうから伸ばしても良かったんですけど、子供のころからの習慣で短いまま。化粧に関しては競技を辞めてから始めました。義理の妹に習って」
「義理の妹さん?」
ととぼけて見せる麻理奈。
「ええ。弟の奥さんで。私よりも三つ下ですけど。スタイリストみたいな仕事をしているので」
この辺の件を聞いた時には関係者は一堂に大爆笑した。何せなゆたの義理の妹野田可奈多が専属で手掛けているのが他ならぬ水瀬麻理奈なのだから。
「一日十時間以上水の中に居るのだから保湿とか紫外線ケアとかは全く不要で」
「そうですね」
余人には真似のできない美容法である。
「寄せられた質問の大多数は、恋人はいますかとか、結婚はしないんですかとか来てますが、これらは全部却下です」
「済みません」
となゆた。
「現役時代の話は、スポーツトーク番組に譲るとして、ここでは引退後の野田なゆたの今と題してお届けします」
なゆたが引退してから既に四年。
「国体で優勝を果たして、国内的にはまだまだ無敵の状態での引退宣言は衝撃でしたが、決め手は何ですか」
「私にとっての競泳は世界と戦う舞台なので、それが果たせない平凡な記録に終わった時点で終了ということです」
これは引退直後のインタビューで何度も語られたことだ。
「一部には結婚して第二の人生かとも言われましたけど」
「その話はしないんじゃあ?」
と笑ってはぐらかすなゆた。聞き手の麻理奈もすべての事情を分かっていて聞くのだから人が悪い。
「今は、全国を回ってジュニアの育成と、いくつかの大学で客員講師を務めています」
「母校の高校には毎年顔を出していらっしゃるとか」
「なにせ、野田なゆた記念プールですから」
南高校のプールは、彼女の入学に合わせて作られたもので、普通の学校ではありえない公式競技に使える屋根付きの五十メートルの規格だ。
「実は以前ゲストで来ていただいた永瀬弁護士からメッセージを頂いてます。高校の先輩に当たられるんですね」
「ええ。一年上で当時生徒会長でした」
ここで矩華の音声。
「なゆたさん。ご無沙汰です。以前お会いしたのは交友会の席だったかしら」
より正確にはさっきだけど。
「うちの子ももうすぐ高校生になるので、その時には水泳を教えてやってね」
「との事です」
「もうそんな年なんですね。生まれたばっかり頃に、お二人の結婚式で見たのが昨日のようです」
「では最後の質問です。貴女にとって水泳とは?」
「かつては人生のすべてだと思っていました。でもそうではないと気付かせてくれた人と出会って、それから一回り強くなれました」
「その人についても聞いてみたいですね」
「あれ、最後の質問じゃなかったでしたっけ」
二人とも分かったうえでのやり取りである
「お疲れ」
部屋に戻ると志保美が合流していた。
「ロールケーキを買って来たからみんなで食べましょ」
麻理奈がお茶の準備をしている間になゆたがお皿を出す。切り分けるのは瞳。
「貴女が刃物を持つと大手術に臨むみたいね」
と矩華が揶揄う。
瞳は無造作に包丁を四回入れて五切れに切り分けた。
「見事ね。ほぼ均等に切っているわ」
と感心する志保美。
「目分量で均等だと判別できる貴方の目も相当なものよ」
「その辺はプロですから」
一級建築士として、長さに対する勘は鋭い。
「それにしても、このメンバーを続けてやったら拙いんじゃあないの?」
と志保美。
「続けてはやりませんよ。間に人を挟んで流します」
「そうなの。残りは誰?」
「私です」
と瞳。
「先にやりますか、先輩」
「私は最後で良いわ」
一息入れて後半戦。
「今日のゲストは美人でお嬢様は天才外科医、不破瞳先生です」
「美人かどうかは、見る人の主観もあるのでコメントは差し控えます。お嬢様と言うのは、母は間違いなくお嬢様育ちでしたけど、私は小中高と普通の公立学校なので」
「で、大学も国立のT大だったと」
「はい。最後の天才外科医と言う点については、技量に関しては多少の自負もありますが、すべては日ごろの修練の賜物なので、天才と言う一言で片づけられることには違和感を覚えます。
「と言う感じのクールな不破先生ですが。医師を志されたのはいつ頃ですか?」
と本題になだれ込む。
「御堂の血統に生まれて、医学薬学関係のお仕事に就くんだろんと言う漠然としたものはありましたけど、はっきりと医師を志望したのは高校生の頃でしたか。いろいろな病院を巡って、これが自分にとっての天職だと感じるようになりました」
「天職ですか。なかなか自分の職業を天職とまで言い切れる人は少ないでしょうね」
と漏らす麻理奈。
「MaMiさんの本職は天職じゃないんですか?」
「どうかしらね」
話題は瞳の子供の頃の話へと移る。
「小さい頃はお転婆で、母の実家の裏山を駆け回っていました」
「実家が山持ちっていう時点でお嬢様だと思うけど」
「でも田舎の方なら結構いるでしょ」
御堂家の山はもともと薬草園だったので、珍しい植物がたくさんあった。今でも本家の御隠居さまは山で取れた山菜などを送ってくれる。
「御堂の屋敷には、私用の簡単な実験室が作られていて、そこで怪しげな調合実験をしたものです」
「それが不破先生の原点なんですね」
そしていつもの最後の質問だが、
「貴女にとって医者と言う職業は?」
「医者と言うのは患者を治すものではないと言うこと。患者と言うのは自ら治るも出会って、医者はその手助けをするに過ぎない。その点を決して忘れないことですね」
いつもならこれでフェードアウトするのだが、
「特に外科医と言うのは、壊れた部品を取り除くのが仕事であって、決して患者を元通りに治すことは出来ません。人間の体と言うのは良くできたもので、部品を多少失っても、残った部分でどうにかやりくりできてしまうものです」
そして最後の一人。
「今日のゲストは一級建築士の西条志保美さんです」
「よろしく」
「女性の建築士って多いんですか?」
「さあ。弁護士や医者と比べてどちらが多いかしら」
明らかに隣の部屋にいる女性弁護士や女医を意識した発言だ。
「ところで一級と二級の違いって何でしょうか?」
「端的に言えば扱える建物の規模が違います。更に、二級は都道府県知事による免許なのに対して、一級は国土交通大臣による免許と言う点も重要ですね」
「なるほど」
「二級になるには専門の教育を受けて居なければ七年の実務経験が必要。一級になるには二級として四年以上の実務経験を要します。私は父の遺した建築設計事務所で経験を積みました」
「お父様も建築家だった訳ですね」
「ええ。資格は持っていませんでしたけど」
「はい?」
「資格がなくても建築家は名乗れます。但し実際の業務に関しては有資格者の支援が必要ですけど」
と説明する。
「父はもともとは売れない画家で、不動産屋の跡取り娘だった母に見初められて婿養子になりました。絵画の道は諦めて、少しでも家業に役に立とうとして建築家を志したんですが、父の作るものは何と言うか、芸術的過ぎて、現実化し難いうえにあまり需要もなくて」
と苦笑する。
「私はきっちりと専門的な教育を受けて、父の遺したデザインを一つでも実現できればと思っています」
「今度見せてくださいね」
これは放送に乗らなかったオフレコ発言。
「そうすると、貴女にとっての建築士とは?」
「父の夢を継ぐ。と言うのは単なる取っ掛かりで、今では私の天職ですね」
そして、
「これなんか面白いですね」
志保美の父の遺したデザイン画を見て、
「実は真冬ちゃんから、劇場を改装しないかって言われているんです」
「また?」
と矩華。
「あれからもう十年以上経っていますから」
「あの当時は私もまだ駆け出しの建築士で、容量に制限があったからねえ。今ならもっと大きいものも設計出来るわ」
と志保美。
「ええ。客席を倍の二百にして、さらに客席を可動式にしてもっと多目的に使えるようにしたいって」
「それだと、劇団シレーヌの専用って訳には」
「うちが占有するのは二カ月で十五日ですから。空き時間の有効活用と言うのも、実業家なら当然の発想でしょうね」
地下の音楽ステージの方はほぼフル稼働しているので採算は十分に取れてるのだが。
「あの当時は、儲けは度外視とか言っていたのに」
と瞳。
「あの頃の真冬ちゃんは財団だけを見ていればよかったけど、今は御堂家の当主として全体を見なければならないから」
芸術振興を目的とした御堂財団は、御堂グループ全体の利益を食いつぶす形で維持されていたわけで、御堂家全体を仕切る立場に立てば、財団でいくら使えるかと言う点もコントロールする必要がある。
「財団の資金は御堂家からの寄付によって賄われるから、当時よりは税負担が軽減しているはずだけど」
その辺の税制改革を推進したのも総一郎の青年党だ。
「自分が財団のトップでいるうちは良いけど、跡を引き継いだ人間が放漫経営になると困るからって」
「具体的には子供たちのどちらかが継ぐんでしょ」
と矩華。
「春真君は御堂家全体を取り仕切ることになるだろうから、財団の方は真梨世ちゃんかしらね」
その辺は真冬の胸一つだが。
この四人の収録は、適当に間を空けて穴埋めに使われた。その所為と言う訳でもないが、麻里奈のラジオは全国的にも話題となり、ネットで有料配信されることになった。
当然ながらMaMiの正体は誰かと言うことが話題に上った。麻理奈を良く知るものは一様に口をつぐんだのでその正体は漏れることがなく、様々な候補が挙げられた。面白いのはMaMiは人間ではなく人工知能ではないかと言うもの。麻理奈はそれを意識して演じていたので当たらず遠からずと言ったところか。
そんな経緯もあって人工知能の専門家である勅使田類教授もゲストに呼ばれたりした。
「私がAIだとしたら、教授には見破れますか?」
「昨今のAIは実によく出来ていて、これまでのチューリングテストでは見破れないものも出来ている。逆に人間なのに感情が欠如したAIめいた人間も出てきているので、その境界はより一層曖昧になってきているとも言える。まあ我自身もAIっぽいとよく言われるがね」
この日のやり取りは、どちらかが、いやどちらもがAIだと言われても一向に驚かないようなものだった。
そして、議員を辞めた直後の瀬尾総一郎もゲストに呼ばれた。
「オーナーパティシエの瀬尾総一郎さん。で良いんですよね」
「もちろんです」
「以前、奥様にもご出演頂きましたが」
「聞きました。盛ってましたねえ」
「どこかに嘘がありましたが?」
「家事が不得手なんて、そんな生易しいレベルじゃないですよ。まあ俺が出来すぎてしまうのでやらなくなったと言うのが正しいでしょうね」
「瀬尾さんは母子家庭で、何もかもご自分でなさっていたと」
「ええ。今にして思えば、あれも一人で生きていけるようにと言う母なりの深謀遠慮だったんだと思いますけどね」
「収入は激減されたでしょ?」
「経費の方も相当に減りましたから、生活レベルは大差ありません。むしろ頑張りしだいで収入は増えるので、やりがいと言う点では単純に比較できません」
「政治家はやりがいはありませんか?」
「ああ、言っちゃいましたね。政治家は自分のためにがんばったら拙い仕事ですからね。それでいてあまり頑張りすぎると癒着だ、利権だと叩かれる」
と苦笑する総一郎。
「瀬尾さんはそういう点では極めてクリーンだと言われていましたが」
「クリーンと言うか、個人や団体からの陳情は一切受け付けないと言うスタイルでしたから。つまり特定の人間を想定せず、社会全体のバランスを考慮して。ってこういう政治的な話はしない場所では?」
「では今の本業に付いてお聞きします。パティシエを志したのはいつ頃ですか?」
「貧しい母子家庭で、お菓子は買ってもらえず、自分で作るしかなかった。と言うのが原点ですか」
「若いころの話はこれまであまり公にされてこなかったように思いますが?」
「若いころの苦労話は極力しないようにしてきました。そう言うのは、成功者になってからするとただの自慢話にしか聞こえないからね」
「具体的に職業として意識したのは?」
「母が亡くなった後ですね。母は取り合えず金は何とかするから大学へ行けでしたから」
一呼吸おいて、
「母が亡くなった直後、実の父が現れて、そこから取敢えず経済的な心配はしなくてよくなった。そこで初めて誰かの役に立つことをしようと思い立ち、主に女性の喜ぶ顔を見たくて菓子作りを本格的に学ぶことにしたんです」
「主に女性と言うのは、具体的には誰かを想定しているんですか?」
「していてば、亡くなった母でしょうね。母が一番笑ってくれたのは俺の作った甘いお菓子を食べたときでしたから」
「無難なところをついてきましたね」
とこれはオフレコの発言。
「別に嘘じゃないぞ」
「では瀬尾さんにとってのパティシエとは?」
「すべての女性を笑顔にする唯一の手段ですね」
本編では見せ場の少ない麻理奈のお話。の予定が只の狂言回しに。
思いのほか膨らんで、予定していたエピソードは半分しか消化できませんでした。