甘くない日々
惣村秋人が速水真夏の元で働きだしてから半年経った頃。
「辞表?」
「次の仕事が見つかりましたので」
「そこはうちよりも条件が良いのかしら?」
「今の倍は出すと言ってくれています」
「貴方にそんな額を出す会社が有るとは思えないけど」
と失笑し、
「じゃあ、これはもう要らないわね」
と引き出しから封筒を取り出す。惣村がここに就職するときに提出した書類。彼の名前が記載された離婚届だ。
「寄越せ」
と手を伸ばす。
「あら。仕事も女もなんて無視が良すぎない?」
「俺は一刻も早く妻を迎えに行くために」
「良いわ。退職金代わりに挙げる。私には貴方を更正させる義理も義務もないしね」
惣村は中も見ずにそのまま封筒ごと引き裂いた。
「これで貴女にペコペコする必要も無くなった」
部屋を出ていこうとする惣村の前を真夏の部下久世陽平が塞ぐ。
「退け、おっさん」
久世に伸ばした手はあっさりと極められて地に倒れ伏す惣村。
「あんた、何者だ」
「久世は剣道の有段者。全国でも屈指の実力者よ」
と真夏。
「そんな男がなんでこんな小さな会社に」
「君は半年も名刺の整理をさせられて何も気付かなかったのか?」
彼の元に持ち込まれる名刺は政財界の有力者ばかり。
「うちの社長は速水精機の社長令嬢。ここも速水の子会社だよ」
「速水精機?」
「駄目よ。父の会社は一般への知名度がイマイチだから」
と苦笑して、
「私の母は御堂の娘で、妹は母の家に養子に行って御堂姓を名乗っているわ。いくらなんでも御堂グループくらいは知っているわよね」
「くそ。騙したな」
と逆ギレする惣村を
「気が付くようにヒントを与えていたのに、機会を逃した貴方が悪いわ」
と冷笑し、
「その男を連れ出して、そのあとでお使いを頼むわ。この封筒を惣村せつらさんに届けて欲しいの」
「さっきのはダミーか」
「中身も確認しない貴方がバカなのよ」
と容赦無い。
「彼を放すのは、少し待ってください」
と現れた真夏の秘書滝川千里。惣村の懐を探って、
「USBメモリですね」
真夏のデスクにあるパソコンで中身を確認。
「これが再就職の手土産ですか」
「呆れた。犯罪行為よ」
「これを差し上げます。貴方の新しい雇い主に渡してください」
と千里が別のメモリを取り出して、
「ウイルス入りです」
とニッコリ。
「これを相手のパソコンに仕込むことが出来たら、次の再就職をお世話しますよ。それまではこの離婚届は私が預かります」
と言って惣村の胸ポケットにメモリを滑り込ませる。
「これが、正真正銘のラストチャンスです。上手くやってくださいね」
久世が惣村を連れ出したあと、
「こんな回りくどいやり方をしなくても、雇い主を吐かせれば良かったじゃないの」
と真夏が愚痴る。
「それでは敵にダメージを与えられませんし、惣村氏を預けてくれた総一郎さまの意にも叶いません」
「貴女はご主人様が最優先なのね」
と苦笑する真夏。
「あのウイルスは遅効性で、発症したらデータをすべて私のパソコンに送った上で元データを破壊します。あとはこちらのやりたい放題」
「貴女を敵にしなくて本当に良かったわ」
と額ににじんだ冷や汗を拭う真夏。
「真夏さまは初めから惣村氏に厳しく当たりすぎでした」
「だって虫が好かなくて」
「真夏さまの直感は良く当たりますが」
真夏が嫌う相手はほぼ駄目男だが、駄目男がすべて嫌われる訳でもない。
「駄目な人材も使いようです。久世さんの様に相手の良いところしか見ないのもまた問題ですが」
と戻ってきた久世に視線を向ける。
「あの男の良いところってどこよ?」
「利に聡いところでしょうか」
と久世が答える。
「それって短所じゃないの?」
「視野が浅いんです。もっと物事の本質を見抜く目を備えれば」
「例えば彼がヒントに気付いて真夏さまの素性を察知していたら、どんなことをしても貴女の歓心を引こうとしたでしょう」
と千里が補足する。
「長期的な打算力と言うのはある程度余裕がないと備わりません。例えば希代乃さまの様に」
「あの男はこちらの思惑通りに働くかしら。あれをネタにこちらを攻撃してくるとか」
「うちの機密を奪うことに失敗した以上、あちらが彼を優遇することはありません。それにこちらは惣村の行動を縛る鎖がありますから」
と封筒を取り上げる。
「それに彼が妻を取り戻したいと願う気持ちは本物でしょう。今回の行動も貴女に認められるのは望み薄と見てのものでしょうから」
辞表なんか出しに来ずに、そのまま姿をくらませば持ち出しに成功していたものを。
「私が悪かったと言うの?」
「いえ。真夏さまには彼を更正させる義理も義務も有りませんから」
「聞いてたわね」
「真夏さまが、音声を流して救援を求めたんじゃないですか」
数日後、
「惣村の黒幕は野田電機でした」
「それは一大事ね」
真夏はすぐに本社に向かった。
「何だ、真夏。お前は呼んでないぞ」
と父の秀臣。
「野田電機との提携は決まりましたか?」
「今、決を取っているところだ」
「社長の一票で決まります」
と推進派の一人。
「私は反対よ」
と真夏。
「貴女にはこの重役会で発言する権利はない」
「判った。私は反対に一票を投じよう。これで良いか?」
「ご英断に感謝します」
と言って部屋を出ようとする娘に、
「来月からはお前の椅子も用意する」
「ありがとうございます、社長」
真夏は軽く会釈して退室した。
「間に合いましたか?」
と玄関ロビーで待っていた千里。
「貴女から父に報告してくれれば、早かったのに」
「今の私は速水真夏の部下ですから」
「帰りましょうか」
と二人に声を掛けてくる男。
「お嬢」
見ると先ほど会議室にいた横島専務だ。
プイッと無視して立ち去ろうとする真夏に、
「お話が有ります。真夏お嬢様」
「私には無いわ」
と取り付く島もない。
「私をお嬢様扱いするなら、こちらもその様に振る舞うだけ」
「失礼しました。速水精機の専務として、先ほどの会議についてお聞きしたい」
「貴方の部屋へ行きましょうか、専務」
場所を替えて、
「貴女が野田電機との提携をぶち壊した理由をお聞きしたい」
「貴方は推進派の中核でしたね。面子を潰されて怒っているのかしら」
「面子などどうでも良いことです。これは社の利益になると信じての行動でした。納得の行く説明を求めます」
「滝川さん、説明して挙げて」
「横島専務は野田電機の技術部長と懇意でいらっしゃる」
例のウイルスによって得た情報だ。
「親しくしていますが」
「親しいと言うレベルのやり取りではありませんね。背任すれすれ」
横島専務は汗をだらだらとかきはじめた。
「あの場で詳細を話せば、貴方の立場も危うかったでしょうね」
真夏も初耳だったと見えて唖然としているが、俯いている横島はそれに気付かない。
「そう言うことで、宜しいかしら?」
「どうか、この事は社長には」
「それは貴方の今後次第」
と言い捨てて部屋を出る。
「聞いてないわよ」
と帰りの車の中で不満をぶつける真夏。
「知っていたら、会議で糾弾されたでしょう?」
「当然でしょ」
「でも証拠は出せない。それでは無駄に時間を浪費するだけです」
「横島専務をこのままにして良いの?」
「あとで詳細を説明しますが、すれすれで、追い込むには不十分。むしろ貸しを作って味方として利用する方が利口です。お嫌いなら、処理する方法も考えますが」
と怖いことをさらっと言う。
「別に嫌いと言うほどでは無いわね。昔は良く遊んでもらったし」
その気安さからあんな態度に出てきたらしいが、
「惣村の方はどう処理したの?」
「御堂本家にお願いしました」
一年ほどアメリカへ研修に行かされたらしい。
御堂真冬が男子を出産し御堂財団の理事長に就任した時、
「理事長付きの運転手を勤めることに成りました。惣村秋人です」
一年前の彼を知る人間が見たら別人だと思うだろう。
「千里さんから話しは聞いているわ」
「滝川さんには随分とお世話に成りました」
「聞いていたのと印象が違うわね」
「この一年で何度も修羅場を味わって鍛えられましたから」
「そこのケーキ屋に手土産のケーキを注文してあるの。受け取ってきてくれる?」
と予約券を差し出す。昔の彼ならムッとして口答えのひとつも出そうなところだが、
「承知しました。ボス」
ちょうど接客をしていたのは、
「せつら?」
「どうしてここが?」
「いや、偶然に。仕事でケーキを受け取って来いと言われて」
「御堂真冬さまのご注文ね。こちらになります」
「あとで、連絡する」
「ありがとうございました」
戻ってみると、
「奥さんと会えた?」
とニヤニヤする上司。
「どう言うことなんですか?」
「貴方の前の上司速水真夏は私の姉よ」
「そうか、御堂家を継いだ妹さんが」
「わたし」
「似ていらっしゃらないので」
「良く言われたわ」
と笑う。
「たらい回しにされたみたいね」
「ほとんど自業自得でしたが」
「能力は有るけど運が無かった。と言う奥さんの言葉を受けて、お釈迦様気取りで兄が蜘蛛の糸を垂らしたみたいだけど、辛うじて登って来られたってところかしら」
「兄?」
「瀬尾総一郎。私たちの腹違いの兄弟よ。貴方を真夏姉さんの元に送り込んだ張本人。今のケーキ屋のオーナーよ。貴方の奥さんは共同経営者になっているわ」
「私はずっとあの人の手のひらの上でもがいていたんですね」
「貴方が孫悟空なら、私は差し詰め三蔵法師かしら」
「このまま何処へでもお供させて戴きます」
その日の夜。御堂真冬のセッティングで惣村夫妻はレストランでの正式な対面を果たした。
「真冬さんからこれを渡されたわ」
惣村秋人の署名入りの離婚届である。
「迷惑を掛けた」
と深々と頭を下げる秋人。
「あら。お陰で私は自分の店を持てたし、貴方も無事に仕事が見つかって結果オーライじゃなぁい?」
と笑う。
「あの店のオーナーは瀬尾さんじゃあ?」
「一応私が店長になっているの。オーナーは、腕は確かだけどまだ認定資格は持っていないから。でも二年の実務経験を積んで、今年中には資格を取るでしょうから、そうしたら新たに別の場所に私の店を持たせてくれる事になっているわ」
「あの人、なんでケーキ職人なんかやっているんだ?」
と言ってから、慌てて、
「ケーキ職人を馬鹿にしている訳じゃないが」
とフォローする。
「あの店が入っているマンションはまるごと瀬尾さんのもので、家賃収入だけで食うには困らない。その意味では道楽仕事ではあるのだけど」
「だが腕は確かだ」
「小さい頃から自分でおやつを作っていたそうだから、キャリア的には私よりも長いくらい」
せつらは聞きかじった限りの総一郎の経歴を語った。
「自分が受けた幸運を周囲にお裾分けしていくんだと」
「本当にお釈迦様みたいな浮世離れした人だな」
意味が分からずキョトンとするせつら。
御堂真冬は姉の速水真夏とは違った意味で面倒な上司であった。思い立ったら直ぐ動く。それに真っ先に付き合わされるのは運転手の惣村である。
「財団の出資で劇場を建てるそうだ」
厳密には建て替えだが、ほとんど一から作るのと代わり無い。
「劇団シレーヌって水瀬麻理奈さんの?」
「演劇に興味なんて有ったのか?」
「水瀬さんってうちの店のお得意様で、多分オーナーの”関係者”よ」
そこに微妙なニュアンスを含ませた。
「あの人、一応妻帯者だよな?」
「ええ。披露宴にも出席したけど、関係者が一杯来ていたわ」
「何人居るんだ?」
「妙なこと考えないでよ」
「大丈夫だよ。今の仕事を失う気は無い。産まれてくる子供の為にも」
本当なら既に立ち上がっていておかしくない二号店の計画が延びているのはせつらの妊娠の為だ。
「しばらくは現場監督だよ」
と笑う惣村。
「貴方がせつらさんの旦那さんね」
と声を掛けてきた長身の女性。劇場の設計を手掛ける建築士の西条志保美だ。実際の着工は彼女が二級建築士を取ってからになるが、既に設計図の大枠は出来ているらしい。
「貴女も瀬尾さんの関係者?」
「幼馴染みで彼の妻とは親友。二人を引き合わせた張本人と言う意味でなら」
「ここの女優の水無瀬さんとは?」
「大学の後輩よ。彼女は在学中にテレビドラマに出演したけど、舞台の方が性にあっているって、テレビや映画は全部断っているから、一般的な知名度は高くないわね」
「私の友人にそのドラマを全話録画保存してる男が居て」
「あのドラマ、諸事情で映像コンテンツとして売られてないのよね」
「らしいですね。主演女優が食われちゃって、所属の大手プロダクションがへそを曲げたとか。水瀬麻理奈が表舞台に出てこないのは圧力が掛かっているからとか」
「デマよ。麻理奈は自分の意思でここにいる。テレビや映画だけが演劇だと思っている人には理解できないのでしょうけど」
「ここの仕事の話をしたらサインをもらえないかって」
「そう言えば、あの子のサインって私も見たこと無いわね」
二人で麻理奈の元に向かうが、
「サインはしたことないですね。私の舞台を見に来てサインを求めてきた人は皆無ですし」
と断られた。
「私のファンだと言うなら次の公演のチケットを送ってあげて下さい。財団関係者なら、優先的に手に入ると思うし」
「見事に囲い込まれたわね」
「そうですね」
と笑い合う二人を見て、一人の男を挟んだドロドロとした関係はとても想像できない。実際その手の感情とは無縁な彼らではあるが。
「惣村さんも是非奥さんと一緒に」
「次は無理ですね。妻は妊娠中なので」
「そうでしたか。それはおめでとうございます」
「病院で滝川さんに会ったわ」
とせつら。
「産科で?」
「あちらは産み終わって退院するところだったけど」
「あの人、結婚は?」
「していないそうよ」
「あの人は男の手を借りずに自力で子供を孕みそうな雰囲気だったけど」
「確かに男っ気を感じなかったわね。貴方の前の上司が迎えに来ていたわ」
「速水社長、会ったことあるの?」
「顔を見たら一発で判ったわ」
「今にして思えば、血縁を疑わなかった僕が馬鹿みたいだ」
「貴方、昔に比べて察しが良くなったものね」
「以前は誰かにしてもらうばかりで、自分から何かしようって考えもしなかったから」
せつらの産休に備えて、新人を二人雇って鍛える日々。一月に出産を終えて、四月に復帰。息子はオーナーの紹介でシッターに預けた。都合の良いことに、店の入ったマンションビルに住む住人で、保育士の資格を持つ女性だ。名前は真壁みちるという。
並行して二号店の準備が進められていたのだが、
「身内の厄介事でね」
珍しくと言うか、せつらが初めて見るスーツ姿の瀬尾オーナーだ。
せつらは仕事を終えて、帰宅後に夫からその話を聞いた。
「珍しく理事長が部屋に隠っていると思ったら、今日は早引けするから僕も上がって良いって。それなら子供を迎えに行くと言ったら、それなら行き先が一緒だから載せてくれって」
マンションまで行ったら、子供は私が連れてきてあげるって、一人でエレベーターに乗って上がっていき、帰りには惣村家の子供と、自身の息子が一緒にいた。
「わざわざくっついて来たんだからご挨拶しなさい」
と言われ、
「みどうはるまさです。こんにちは」
「私も真壁さんに息子を見てもらってるのよ」
「そうでしたか」
「奥さんによろしくね」
そして、
「何があったの?」
「瀬尾オーナーの正体。その一端が明らかになったと言うところか」
瀬尾総一郎がスーツを着て出掛けた先は神林の臨時株主総会。彼は神林の実質的な持ち主である神林ほのかの名代として登壇した。
「なんで?」
「オーナーの母親と言うのが、その存在を秘されていた神林次女。ほのかさんの妹だったそうだ」
瀬尾総一郎は神林の半分を受け取る資格があるが、その権利は従姉である神林希代乃との間に産まれた息子に託す。と言うことだった。それを踏まえた上で、今回の神林家の騒動は神林本家の力が強すぎるために起こったものとして、ほのかさんの持ち株の半分。神林全体の三十五パーセントを競売に掛けて放出すると宣言した。
「理事長が帰宅したのも、この神林株を買う算段を巡らせるためと見たが」
「オーナーは奥さんとの他に、神林希代乃さんとも子供を儲けたってこと?」
せつらの興味はそこにあった。
「私、オーナーの結婚披露宴に参加して、オーナーの素性は聞いていたの。何しろ神林の社長夫妻が仲人まで勤めたんだから」
「そうだったのか」
色々あって、マスコミを分散するために二号店にはオーナーが入ることになった。
「本当に申し訳ない」
と頭を下げる総一郎。
「いえ。それよりも通勤の足をどうされますか?」
「まさか公共交通機関は使えないしな」
「夫がオーナーに直接仕えたいとか言い出して」
「今、真冬の運転手をやっているんだっけ?」
「はい」
「じゃあ話しは早いな」
と言うわけで、惣村秋人は瀬尾総一郎のお抱え運転手となった。
書き漏らしていた惣村せつらと旦那のその後。
よりを戻すか、壊すかを決めてなかったんですが。書いてみたらこう言う結果に落ち着きました。