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Elena

作者: ぜろえん

はつとうこうです

- 1 -


「……きれい」

私はそうつぶやくと、口から自然にこぼれ出たその言葉が、微かな陰りを含んでいることに気づいた。

「わたしのコレクションの中でも最高の一品、国宝と言っても過言ではない作品だ」

立派な服を身に纏った青髭の男性は、詩でも詠むような口調で、彼の"コレクション"を眺めた。

"コレクション"は銀に縁取られた、私より背の高いガラスケースに収まっていた。その中では、白いドレスに身を包んだ少女が、まるで眠っているように目を閉じていた。

わずかに露出した手も、脚も、顔肌も白磁のようで、その顔立ちは人形のように端正であった――当然だ。彼女は人形なのだから。

「気に入っていただけたかね。聞くまでもないことだと思うが」

「はい。こんな素晴らしい人形の世話係を任せていただき、光栄です」

「君の腕は聞いている。君なら彼女をもっと美しくすることもできるだろう」

「お約束します」


制服を受け取るために衣装室へ足を運びつつ、私はさっきの感情について考えていた。

先ほどの人形はこの国でも最高の作品だ。この世話係を任されるなど、並の人形技師が拝すことのできる栄誉ではない。

喜びはあった。うぬぼれもあった。依頼の手紙が届いた日など、嬉しくて師匠にずっとその話をしていたりしたものだ。

でも。直感とまではいかない、一つの思いつき。

(幸せそうじゃなかった……?)

人形にとっての幸せとは何か? 技術が進歩し、様々な自動人形が作られ、人間のように働くようになった今も、その問いに答えられる者はいない。

そんな思案を巡らせている間に、衣装室の扉が見えてきた。

重厚な扉が、ひとりでに、音を立てて開いた。いや、ひとりでにではない。使用人の服を着た長身の女性が、向こう側から扉を押していた。

「あなたが新しい技師の方ですか」

ふさわしい人物かどうか見定めでもするように、女性は眼鏡の位置を直しながら問う。

「はい。人形技師のローズと申します。衣服を取りに来たのですが」

「話は聞いています。私はオリヴィア、当館のメイド長を務めさせて頂いています」

眼鏡の奥から私の方を向く視線は鋭かったが、冷たいものは感じられなかった。

「ローズさん。あくまで形式ですが、貴方はメイドとして、私の指示の下で働くことになります」

「聞いています。よろしくお願いします」

「とはいっても、あなたは貴重な人形技師。雑務を振ったりは致しませんが。お入りください」


部屋に通されると、別のメイドが初々しく挨拶した。新しく仕立てられた制服を受け取ると、オリヴィアは彼女に手伝ってもらって着替えるように、と言い残し、部屋を出て行った。

彼女の助けを借りて慣れない制服に袖を通し、私は鏡を確かめた。

「なんだか変な感じ」

「よくお似合いです。でも技師様なら、メイドを使うことはあっても、自分がこれを着ることはなさそうですよね」

「うちにはそんなのいなかったけどなぁ。そんなに儲かる仕事じゃないし」

実際、この仕事の待遇は破格だった。複数の人形の面倒を見なければならないとはいえ、給金だけでなく衣食住まで提供される。

人形技師が人形の世話係として、いわゆるレディース・メイドのような立場で仕事をするという伝統は、建国以来続いているといわれる。しかし近年では庶民階級が人形を所有することも多くなり、その伝統は廃れつつあるのが現状だった。現に、私がその伝統を守った仕事を任されるのは初めてだった。

「さて、オリヴィアさんからお仕事の説明がありますので、ホールに向かいましょう。あと一応、メイドの皆さんに自己紹介を」

「うん、一応一緒に働くことになるんだしね」

荷物をまとめると、私はメイドと共に部屋を出る。

私に任された人形は、3体。彼女は思いを馳せた。最初に浮かんだのは、ショーケースの中にいた人形のことだった。


「うん、問題ないみたいね」

その日の午後。人形に衣服を着せながら、私は自身の観察力を総動員していた。

「ありがとうございます」

無機質な返事。

人形技師の仕事は、人形の身の回りの世話をすることであると一般には考えられている。しかし重要なのは、人形が不調を来たした時に、その微かなサインを確実に拾うことにある。世話をしながら、常に注意を研ぎ澄ませるのだ。それは経験と、一種の天性を必要とする仕事だった。もちろん、人形を修理するのも技師の仕事だが、その必要が生じる前に対処するのがよい技師であるとされていた。

(まあ、この子は大丈夫)

私は目の前の人形を――ショーケースなど用意されていない一体を見つめた。

精巧に作られてはいるが、ショーケースの中の彼女とは比べ物にならない。過去に見てきた人形たちとそう変わらない。不調のサインも分かりやすいだろう。

「このまま私の出番なんてなければいいんだけどね」

「それはあり得ません。我々人形は必ず不調を起こすものですから」

「まあ、そうなんだけど」

苦笑い。冗談のつもりで言ったのだが、人形に冗談など通じるはずもない。彼女らはそういう存在なのだ。知性はあるが、人間ほど複雑ではないし、感情もない。

どうして、こんな当たり前のことを再確認しているのだろう。ショーケースの中の彼女はそうではないかもしれない、そう思い込んでいるのかもしれない。

「技師様。そろそろ次の人形の検診の時間です」

「そうだった。じゃあまた後でね、ベアトリス」

「後ほど」

無機質なお辞儀に見送られつつ、私は次の人形の部屋へ向かう。

2体目の人形、エリーゼもベアトリスと変わりなかった。ただ彼女は演劇用の人形で、ベアトリスに比べると感情らしきものの表現が豊かであった。

とはいっても実際には感情があるわけではなく、人間の見せる手本を憶え、忠実に再現することができるのだ。人形劇が全盛であった頃は、人形に演技を吹き込む専門の職業もあったといわれている。

私には演劇人形の面倒をみた経験があった。エリーゼを観察して数分で、彼女は過去の経験が転用できると結論づけた。

「技師様、何か心配事でも?」

エリーゼが問う。演劇人形に固有の能力の一つが、人の表情を読み取ることである。

「あなたやベアトリスは自信を持って面倒を見られるのだけど……例のお人形に、私の経験が通じるか不安でね」

「"お嬢様"のことですか」

例の人形には名前がなかった。その代わりに、屋敷の関係者は彼女のことを"お嬢様"と呼んでいた。

「ごめんなさい、今はあなたのお世話をしているのに、他のお人形のことを考えたりして」

「なぜ謝るのです。技師様は職務を全うしておられます」

「そうよね。なんでもない」

人形に嫉妬という感情はない。

「"お嬢様"のことでしたら、大丈夫です。彼女は私たちと同じ、普通の人形です」

「そうなのかな……」

そんな問答をしている間に、検診の時間が終わりつつあった。

ついに、"お嬢様"と向き合う時がやってきた。


私は深呼吸をすると、お嬢様の部屋のドアをノックした。

「どうぞ」

透き通った声。ゆっくりと、ドアを押し開く。

黄金色の房が、光の粒を抱きながら窓辺の風に揺れた。波がかった金髪は人形の肩ほどまで伸び、風にそよいでいる。その動きだけが、時間が止まってはいないことを私に思い出させる。

窓辺の椅子に座った白いドレスの少女――いや、人形は、ゆっくりと振り向いた。

彼女は美しかった。今まで見てきたどの人形よりも精巧で、本物の少女と見分けがつかないほどであった。

「あ、新しい人形技師のローズです」

自分が言葉を失っていたことに気づき、私は上ずった声で言葉を掛ける。

「ようこそいらっしゃいました。よろしくお願いします」

無機質な声だった。私は安堵と残念さが入り混じったような感情を覚えた。

エリーゼの言うとおり、彼女は普通の人形なのだろうか? 確証は持てない。

「技師様。突然で申し訳ありませんが、明日のパーティの展示のため、別のドレスに着替えなくてはなりません」

「はい、お任せください」

自然に丁寧語を使っていることに私は気づいた。そうしなければならないような高貴さが、お嬢様にはあった。

「お着替えのついでに、お身体をお清めしましょうか」

「必要ありません。自分でできますから」

私はお嬢様の返答に驚いた。

人形は汗をかくことはないし、垢が出ることもない。それでもこの世界に存在している限り、汚れるし、埃が溜まったりする。それを清めるのも人形技師の重要な仕事であった。

「お嬢様。人形技師としてそれは賛成できません」

「心配は無用です。私はそのように作られています」

「人形が自分の体を清めるなんて聞いたことがありません。それに技術がないと、治らない傷ができたりするんですから……」

反論しながら、私はお嬢様の態度の中に、頑なな何かを感じ取っていた。

人形が人の意思に逆らうことは珍しい。やはりこの子は特殊なのでは? そんな疑念が、私の中で再び首をもたげる。

「……わかりました。義姉様にお任せします」

観念したように、お嬢様は頷いて、鏡台の前に立つ。

「それでは、失礼します」

ドレスの背中の紐が解ける。皺にならないよう気をつけながら、私はドレスを脱がせにかかる。白い背中と、ドレスの下のコルセットがすぐに露わになった。

淀みない手付きで、私はコルセットを外す。人形技師はその職務の特性上、こういった服の構造には馴染みがある。

白い肌が、鏡台に写り込んだ。肩から腰にかけては美しい曲線が走り、慎ましい胸の膨らみの頂点には、薄桃色の蕾があった。

私は耳が熱くなるのを感じた。人形を清掃のために脱がせることなど、生業として日常的にやってきたことだった。それでも何かいけないことをしているような気がした。それほどまでにお嬢様のつくりは精巧だった。

「何か?」

「いえ、その、髪から失礼します」

私はブラシを手にとると、美しい髪を梳き始めた。

今まで触れたことのない感触に、私は驚いた。髪まで本物の少女のそれのようだった。

髪の清掃はあっという間に終わったように感じられた。いつまでも触れていたい、私はそう感じているのに気づいた。

「次は、お身体を」

そう言うと、人形の清掃のための特別なベルベットの布を、私は手にとった。

「お顔から失礼します。目を閉じてください」

撫でるように、そっとお嬢様の顔を布で拭う。顎の裏、首、肩と下っていく。脇腹に達したとき、その変化は起きた。

「っ……」

お嬢様の体が、ぴくりと震えた。私の人形技師としての観察力は、それを見落とさなかった。

「お嬢様、大丈夫ですか」

「大丈夫です……ただ私は、触覚があるよう作られているので」

「つまり、くすぐったかったということですか?」

「……続けてください」

お嬢様は答えない。私は仕事を再開する。

「ん……」

人間でいうところの敏感な場所を布が撫でるたび、お嬢様の身体は反応した。

私はやりづらさを感じた。なんだか自分が、いたいけな少女に悪戯をしているような気分になっていた。触覚のある人形、という事実は私の人形技師としての好奇心を呼び覚ますには十分なものだったが、妙な罪悪感のようなものが優っていた。

清掃が終わり、私はコルセットをつけ直す。指が一瞬だけかすれるように、なめらかな肌に触れる。本物の肌のような質感。

好奇心に負け、私はお嬢様の肌に手のひらで触れた。

「ちょっ――何をなさっているんですか、技師様」

「驚きました。人肌のような温もりまであるだなんて」

「私はそう造られていますから」

「本当に、人間みたい」

「私は人形、飾られるために造られたもの。それは変わりません」

あくまで無機質に、お嬢様は返す。

「コルセット、つけなおしますね」

「お願いします」

彼女は恐ろしく人間に近い。触覚や体温があるだけではなく、触られた時の反応や、微細な表情の変化は、他の人形とは明らかに違っていた。

けれど、お嬢様はそのことを隠そうとしているように感じられる。

(お嬢様は、本当はもっと……)

そこまで考えて、やめた。断定するには、まだ私はお嬢様のことを知らなすぎる。

私は技師。彼女は人形。私の職分は彼女をメンテナンスする、ただそれだけ。

純白のドレスを着せ終わると、お嬢様はひとりでに席を立った。その時私は、もっと触れていたかったと感じていたことに気づいた。


- 2 -


談話室の暖炉は音を立てて燃えていた。薪の焦げる匂いと、紅茶の香りが混じり合っていた。

「なるほど、それは興味深いな」

初老の男性は頷くと、マホガニーのテーブルに置かれた小皿に、ティーカップを下ろす。

客人の応対は私の職分ではない。しかし、この男性が会いに来た相手は、私だった。

「師匠はお嬢様について、他に何かご存知ですか?」

私の問いに、男性――師匠は喉を唸らせる。

「難しい質問だね。お嬢様と呼ばれるあの人形の出自については、憶測しかないからね」

「そうですか……」

「実際私も、君に聞くまでは彼女の触覚や体温について知らなかった」

「有名なお人形なんでしょう?」

「そうなんだが、ビュセール卿の手に渡ってから情報が途絶えてしまってね」

ビュセール卿――私の雇い主であり、美術品の蒐集家として知られる貴族。線の細い文学少年か、小綺麗な紳士という印象だけれど、美術品に対するこだわりには苛烈なものがあると噂されている。

「限られた人形技師しか彼女に接することはなかったそうだよ。他の人間にお披露目する時はショーケースの中だ」

「そうですか……」

「私も二、三度パーティに招かれた時に、ショーケース越しに見た程度だ。確かに見事なものだった。弟子があんな作品を任されて鼻が高いよ」

「そんな、私なんてまだまだです」

「まあ、不肖の弟子はあまり褒めると図に乗るからな。このあたりにしておこう」

「師匠!」

私がむくれて見せると、師匠は楽しそうにけらけらと笑った。

「まあ、君にはよく観察するという才能がある。けれど、忘れちゃいけないよ。人形技師の仕事は人形のメンテナンスだ。それ以上でもそれ以下でもない」

「はい、心得ています」

「あるいは、もしかすると、その才能が逆に……いや、なんでもない」

残りの紅茶を飲み干すと、師匠は席を立つ。

「師匠、もう少しゆっくりしていかれても」

「弟子の元気な顔が見られたからね、十分だ。それにまだ仕事もある」

「わかりました、お気をつけて」

「ここの出す紅茶は美味い。また来るよ」

飄々と手を振って、師匠は部屋を出て行く。客室担当のメイドが、慌てて彼の上着を取りに行った。

私は茶器を片付けようとしたが、私がやります、と入り口に侍っていたメイドが制止した。

仕方なく座り込み、師匠が最後に何を言おうとしたのか、私はぼんやりと考える。

職分を超えるな。

私がその誓いを破ったことなど、あっただろうか。

確かに、駆け出しの人形技師が人形に対して、必要以上の感情を抱いてしまうことはよくある。しかし熟練する過程で、人形というものを知るにつれて、そういうことは少なくなる。

愛着や慈しみが薄れるわけではない。ただ彼女らは淋しがらないし、悲しまないし、心が傷つくこともない、つまり人間とは違うのだということを知る。その切り分けができて初めて、人形技師は一人前になれる。人形を人間と同一視してしまうというありがちな間違いは、技師として必要な判断を歪ませるのだ。

ふと、くすぐったさに身をよじるお嬢様の反応が、ちらりと脳裏に翻った。なぜそれが思い浮かんだのかはわからなかった。


- 3 -


それからの数ヶ月は、あっという間に過ぎていった。

任された人形たちの世話をし、余った時間で屋敷をうろついたり、書庫の本を読んでみたり。たまに街に出かけてみたり。

客観的に見れば退屈な毎日ではあったが、そう感じなかったのはお嬢様のおかげかもしれなかった。

「はい、すぐ終わりますから」

お嬢様の身体を清めて差し上げるのが、楽しかった。

くすぐったがる瞬間だけ、お嬢様の蝋人形のような無機質な顔に、一瞬だけ生気が灯るのだ。その瞬間だけお嬢様は少女のようになって、でも、すぐに無機質な人形に戻ってしまう。

はじめはその繰り返しだった。けれど毎日世話をするうちに、生気が灯る時間が増えていった。

「もう、どうしてそんなに楽しそうなんですか」

むくれたような声でお嬢様が抗議する。

「お人形のお掃除が好きだからこの仕事をしてるんです」

「絶対にそれだけじゃないでしょう……?」

お嬢様は変わらず、他の人形のような、無機質な雰囲気を装おうとしていた。それでも少しずつ、その反応が変化していることに、私は気づいていた。

「一日のほとんどをショーケースの中で過ごすのだから、お掃除なんて必要ないのに……」

「身体を清めるのも検診のうちです」

それだけではなかった。お嬢様には、こうしてショーケースの外で人と触れ合う機会が必要な気がしていた。

それは危険な思考だった。人形と人間を同一視することは碌な結果を招かない。人形技師を志す者が、最初に習う原則。

しかし、それでも、と思わせる何かが彼女にはあった。限りなく人間に近い反応や仕草は、明らかに製作者が意図して創り上げたもので。

「お嬢様」

「なんですか?」

あなたは、幸せですか?

「好きな動物は何ですか?」

一瞬だけ浮かんだ質問を、胸の奥に押し戻し、私は無難な質問を投げかける。

人形にとって何が一番幸せかなんて、それこそ一番考えてはならないことだ。私は、師匠の教えに明らかに反しようとしている。

「変わったことを聞くのですね。人形に好きな動物だなんて」

「まあ、そうですよね」

「他のお人形にも、そんなことを聞いているのですか?」

「お嬢様だけかもしれません」

正直に答えると、お嬢様はそっと目を逸らす。また生気が灯った。

「鳥。鳥が好きです」

「どうして?」

「歌うから。あと、自由だから」

籠の鳥、という言葉が頭をかすめた。

「そろそろ時間です。ショーケースの中で眠らなくては」

「ドレス、すぐ着せ終わりますから」

もう少し話していたい、と感じる自分に気づく。

ショーケースの中で眠っているお嬢様も美しいけれど、こうして話しているお嬢様の方が、私は好きだった。


いつからだろう。私がその感情を諌めなくなったのは。

その軽率さを罰するように、その出来事は起こった。

お嬢様にドレスを着せ終えた直後、部屋のドアが鳴った。

ドアを押し開くと、長身のメイド長が、鋭い目で私を見ていた。


「そんな、人形には清掃が必要です」

「あなたの雇い主である旦那様からの直々の命令です」

オリヴィアさんは頑として譲らなかった。生真面目さと職務への忠実さが、口調から溢れ出ていた。

「彼女は特殊な人形です。ショーケースから出す時間は最小限にすべきでしょう」

「しかし……」

「検診自体は数分で終わらせることができるはず。それだけの能力はあると見込んで、旦那様はあなたを雇ったのです」

確かに、反論はできなかった。ショーケースからほとんど出さないのであれば、検診を除き、清掃は週に一度程度で構わない。技術的にはそれは明らかだった。

内心では気づいていた。それでも、お嬢様との時間は、私にとって……

「はぁ……」

オリヴィアさんは、深いため息をつく。

「ローズさん。あなたのためにお伝えしておきますが、実は前任の技師は同じような理由で解雇されています」

解雇、という言葉をちらつかされて私は息を飲む。困るのは職がなくなるから? 違う。お嬢様に会えなくなるからだ。

「お嬢様には、人形技師を狂わせる何かがあるのでしょうかね」

「……すいません、オリヴィアさん。彼女ほどよくできた人形は見たことがなくて。技師として興味が湧いてしまうのです」

嘘をついた。本当の理由は、違った。

「そういうものなのでしょうか。とにかく警告はしました。私としても、あなたに首になって欲しくはありません」

「気をつけます」

「清掃は週1回、日曜に行うものとしましょう。それ以外で、必要以上にお嬢様に触れてはなりません」


「……技師様」

透き通った声に、物思いから意識を引き戻される。

いけない、週にたった一度の清掃なのに。気を引き締めなければ。

「なんですか、お嬢様」

「どうして、週に一度になったのですか」

淋しそうな声。返答に窮し、私は黙り込む。

「ごめんなさい、知っているのです。旦那様のご命令なのでしょう」

「……お嬢様」

「私はそれだけ大切にされているのです。これは、人形としては幸せなことなのです」

お嬢様は、演技が下手になられた。

私はそんなことを考えた。だって、お嬢様のその声は、あまりにも悲しそうだったから。あるいは、私が自分の願望に基づいて、悲しそうだと思い込もうとしているのか。

お嬢様から引き離されて、頭を冷やすつもりでいた。お嬢様に対して抱いた様々な不適切な思考について、考え直すつもりでいた。

しかし引き離されるほど、私の思いはむしろ強くなっていた。

お嬢様のお世話をすることが許される週に一度の時間は、前とは比べ物にならないほど私の中で比重を増した。毎回、口にしてはならない本音を抑えるのに、私は努力を要した。

コルセットを外し、しなやかな肌を露出させる。清掃用の布越しにではなく、直にこの手でこの肌に触れてみたい。いつの間に、そんなことを考えるようになっている。

邪な考えを押しとどめつつ、清掃に取り掛かる。お嬢様がどこで少女のような反応を返すか、わたしはだいたい記憶してしまっていた。

「ん……っ」

脇腹。欲望に勝てなくなり、私は必要以上にそこを撫でてみる。

「技師様……そこはもう拭いたでしょう……?」

抗議するように、お嬢様はこちらを見つめる。そこに演技をする余裕はなく、単純にくすぐったさと、恥ずかしさだけがこちらを向いていた。

もっと、彼女のこんな反応を引き出してみたい。

危険な考え。でも、お嬢様のそばにいると、そんなものがどんどん溢れてくる。

そんな反応を楽しみながら、全身を拭き終わる。名残惜しさを感じながら、私はコルセットとドレスを着せにかかった。

「それでは、また一週間後」

「検診があるでしょう」

「たった数分では、話したいことも話せません」

「……変わった方です、技師様は」

大切な時間が終わってしまう。また一週間、こうして話すこともなくなってしまう。

その名残惜しさと、浮ついた気持ちが、私の自制心を狂わせていた。

もっと、お嬢様の反応を引き出してみたい。それを見てみたい。

「お嬢様」

私はお嬢様に歩み寄る。そして、そっとその頭に手を触れた。

「ぎ、技師様?」

「……私は、どうかしているのかもしれません」

誰に断ったのかはわからない。

ただ私は、一歩足を踏み出して、お嬢様の額に、そっと口付けていた。

たった一瞬。綺麗な髪が私の唇に触れて、火照りが全身を支配する。

「ぁ……ぁ……」

お嬢様も平静を失った様子で、頬を赤く染め、私を見上げる。

少女のような反応。私が見てみたかったもの。私が期待した通りのもの。それだけで胸が満たされる感じがした。

「ごめんなさい」

「謝るのなら、最初からしないでください」

「お嫌だとはわかっていたのですが、悪戯心で、つい」

「そういうことではありません。見つかったら、ただでは済まないでしょう?」

お嬢様はそう否定すると、自分が何を否定したのかに気づいて、さらに頬を赤くした。

「い、今のはそういう意味ではなくて……口づけなんてしたら、汚れるでしょう。技師失格です。私は大切な財産なんです」

「はいはい、もうしないと申したでしょう」

「もう……」

ショーケースに入るお嬢様。私は、そっとその蓋を閉じる。

「私は眠ります。以後、軽率な行為は慎むように」

眠りに着くその瞬間まで、お嬢様の態度は、無機質なそれではなかった。


- 4 -


そのホールの空気は、一般的なパーティのそれではなかった。

姦しく会話に興ずる者はおらず、参加者はワイングラスを片手に、静かに語っている。彼らの後ろには常に美術品があった。

「慣れないんだけどなぁ」

「よくお似合いですよ」

「あなたの服と取り替えてくれないかしら」

私の冗談に、給仕の少女は笑いかけて見せる。

晴れの格好は、苦手だ。メイドの服と取り替えて欲しいという私の冗談は、半分が本気だった。

パーティとは名ばかりの、美術品の展覧会。当主であるビュセール卿が彼のコレクションを見せびらかすべく、定期的に開いているものだ。

しかし、普通のパーティよりはよほどやりやすい。たまに来る客人に軽く挨拶をして話すくらいの気楽な仕事だ。

私の職人としての人生の中には、社交性というものを鍛える機会も、暇も、ほとんど存在しなかった。

「せっかくお美しいのにもったいないです」

「お世辞はいいわ。それにこういう服は自分より、可愛い子が着てるのを見てる方がよっぽど好き」

「それも人形技師の才能でしょうか?」

「いい着眼点ね」

女の子に服を着せるのは好きだった。このパーティのためにお嬢様を着飾らせるのも、ずいぶん楽しんでやったものだ。

会場の真ん中の、メインディッシュとばかりに豪華に飾りつけられた台座を見やる。

台座の上には、宝石の散りばめられたショーケース。パーティのたびに職人に繕わせている花が、ケースの中に彼女と一緒に飾られている。

ショーケースの中の彼女は、目を閉じたまま動かない。

「どうかね、私の至高の人形は」

穏やかなビュセール卿の声が私を振り向かせた。壮年の青髭の貴族は、文学青年を思わせるように線が細い。しかしその瞳には、内なる苛烈な何かが秘められている――あくまで、それは勘だ。

「素晴らしいの一言です」

「そうだろう、あれを手に入れるには並々でない苦労をした。茨に覆われた道のようだった」

そう言うと、ビュセール卿はいかに自分が苦労してお嬢様をコレクションに加えたか、それを大仰に、詩でも詠むように、陶酔したような口調で語り始める。

私は内心で苦笑しながら相槌を打つ。卿のこの悪癖は彼の美術品仲間の間でも有名だが、彼のコレクションが素晴らしいために、表立って文句を垂れる者はいない。

(……私は、知っている)

お嬢様の本当の姿を。

そんな考えを一瞬抱いたが、自制する。人形技師として、それは考えてはならないことだ。本当の姿だなんて。

それでも、私はこの当主が知らない、お嬢様の一面を知っている。その満足感のようなものは覆らなかった。

「私はあの人形に半生を捧げた、と言ってもいいのだよ」

「それほどの価値をお認めになっているんですね」

「無論だ。だから君には期待している」

「光栄です」

「前任の技師は実に無能だった。あの人形がおかしくなっていたのに、何も手を打とうとしなかった」

彼の中に封じ込められていた苛烈な何かが、一瞬だけ解き放たれるのを感じた。

「おかしくなっていた、ですか」

「人形は生きていないからこそ美しいのだ。君も技師ならわかるだろう」

「ええ」

「被創造物であるからこそ彼女らは美しい。その姿形はわれわれ人間とは違い、完璧なのだよ。その完璧性に水が差されるようなことがあっては絶対にならない」

演説でもしているかのように、浪々とした口調で当主は語った。

人形芸術の一つの派閥として、そういう派があることは私も聞き及んでいる。相当に強いこだわりがあるのだろう。

「とにかく、君には彼女を維持するだけでなく、完璧な状態に保ち続けることを期待している」

「ご期待に添えるよう、全力を尽くします」

「頼んだよ」

一通り語って満足したのか、ビュセール卿は踵を返した。

給仕のメイドが、私に苦笑いを投げかける。ご苦労様、といったところだろうか。

「完璧な美しさ……か」

卿の言うことは正しい。というより私は雇われなのだから、よほど常識に反する注文でない限り、正しいのは顧客だ。

それでも私はもやもやとしたものを感じていた。

人形技師などというものが必要になったのは、人形が自立して動けるようになり、その機能が脆弱だったためだ。

動く人形は必ず何かの目的に沿って造られている。お茶汲み人形然り、演劇人形然り。もっぱら実用的な動機ではなく、文化や芸術として動くようにしている、という側面が大きいのは確かだけれど。

ショーケースに飾られるだけの人形なら、動ける必要はない。

しかし、動かすかどうかに関わらず、「動ける状態にしておく」ということ自体が大切だという考え方もある。卿の仰る完璧性というものに、おそらくそれも含まれているのだろう。

(考えても仕方ない、か)

私は技師だ。美意識の話なんて分からないし、踏み込んでいい立場でもない。

ケースの中のお嬢様を、ちらりと見つめた。

垂直に立てられた花のベッドの中で、彼女は静かに目を閉じていた。


- 5 -


「肩の筋は大丈夫みたいだけど……ああ、腕の筋が絡まってる」

「大丈夫ですか?」

「これは糸を交換しないとだめかもしれないわね」

仕事について一ヶ月ほど、最初に不調を来たしたのはエリーゼだった。

「ごめんなさい、お芝居が激しすぎたのでしょうか」

「大丈夫、自動人形はこれくらいの頻度で不調になるものだから」

自動人形自体は、人間よりは頑丈に出来ている。多少の衝撃でいかれるようなことはない。しかし激しい動作を伴わなくとも、長い期間動き続けると、関節や筋に不調が出てくる。

彼女らが精密に造られている限り、避けようのないことだった。まあ、そのおかげで私はこうして食べていけるのだけど。

「これでよし、と。動かしてみて」

「動作が軽くなりました」

「ずいぶん長い間、交換されていないようだったから」

「ありがとうございます、技師様」

「お仕事だからね」

答えつつ、エリーゼの背中をそっと指で撫でてみる。

触り慣れた、人形の肌に使われる一般的な素材の肌触りだった。技師はこの肌を修理の過程で扱うこともあるが、何でできているのかは知らない。

「あのう、技師様。何を?」

「お嬢様のとはだいぶ違うなぁと思って。触られた感覚もないようだし」

「それが普通ですが」

「まあ、そうよね」

まっすぐにこちらを見つめるエリーゼの視線。そこには抗議の色も、拗ねたような感じも無い。

普通の自動人形の、普通の反応。

「……あんまり悪戯心をそそられないなぁ」

「何のことでしょう?」

「こっちの話。さて、修理の件をオリヴィアさんに報告しないと」

よくないことだとはわかっていても、いざお嬢様を前にすると、悪戯をしたくなってしまう。反応の質が違うのだ。

葛藤はあった。お嬢様の反応を引き出すという行為は、私の人形技師としての倫理を脅かすものだった。

「なんだか楽しそうです」

「そう?」

楽しい――か。そういう視点はなかったな。

私は、お嬢様の反応を引き出すのが、楽しい?

自制しなければならないのは分かっている。

それでもお嬢様が新しい一面を見せるたびに、私はもっと知りたくなる。

人形技師として? それもある。

私という人間として?

「技師様」

「いけないいけない、ちょっと考え事をね。じゃあまた明日、エリーゼ」

「また明日」

微笑んで手を振るエリーゼ。その動作は完成されていて、おそらく過去に何かの劇のために吹き込まれたものだった。

私が見たがっているのは、そういうものじゃない。

私が見たいのは、もっと――


- 6 -


人形は、眠りません。

それでも私は、悠久の時を過ごす術を知っていました。なにも考えず、なにも感じず、ただ眠ったように目を閉じて、名を呼ばれる時を待つ、ただそれだけ。

飾られるために作られた私には、それが普通のことで。

でも、何故でしょう。

自分を振り返ることすら忘れていたのに、こうして今、私は自分を振り返っています。

鳥のさえずり。木々の風に揺れる音。振り子時計の声。ショーケースに残った花の匂い。曇った空からたまに差し込む、途切れ途切れの光。

"眠っている"間は感じなかったことを、私は感じています。

以前にも、こんなことはありました。

私はケースの中でじっとしていることができなくなり、担当していた技師様は首を飛ばされました。

彼女がいなくなって、再び私は眠れるようになって。

しかし、新しい――今の技師様が来るとまた、私は眠れなくなりました。

何ヶ月かぶりに、私はケースの中で開きます。瞼の裏の暗闇に慣れた目がまぶしさを感じて、軽く引きつりました。

「技師様……」

なぜその言葉が自分の口から出て来たのか、私はわかりませんでした。

不調は、技師様に報告しなければ。何かをごまかすように、そんな考えが浮かびます。

眠れない、という不具合。

今はまだ問題を起こしていませんが、近いうちに私は、またケースの中でじっとしていることができなくなるかもしれません。

そうなったら、きっとあの技師様もいなくなってしまいます。

不意に、胸のあたりに空洞ができたような感覚に襲われ、私は胸に手を当てました。

前任の技師様がいなくなった時にも感じた、不快感。

布越しに私の身体を清める義姉様の手を、私は思い出します。

最初はくすぐったくて、不愉快でした。

でもそのうちに、清掃が終わると名残惜しさを感じるようになって。

いつからか、週に一度の清掃を待ち望むようになって。

そうしたら、たった一週間を待ち偲ぶことが、急に耐え難くなりました。

次に私は、技師様の声を思い出します。

まるで妹か何かにそうするように、技師様は私に話しかけてくださいます。

良くないことだとわかっていても、私は技師様とのお話に、喜びを感じていました。

それから悪戯。

時々思いついたように、技師様は私に悪戯をしました。心の準備ができていない私は、いつもかき乱されて、人形としての立ち振る舞いを忘れました。

そんな私を見て、技師様はいつも、満足げに微笑みます。

けれど、思い直したように、技師様は笑顔を引っ込めます。いつも、いつも。


額に口づけられたことを思い出し、私は顔が熱くなるのを感じました。

あれから、義姉様があれ以上の悪戯をしたことはありません。

技師として、私の人形としての価値を考えて、絶対に許されることではないのに。

気がつくと、もう一度、と考えている私がいるのです。

そうなれば、私の心はどれだけ躍ることでしょう。

人形の身だというのに、私はこんなことばかりを考えていました。

このままでは、お勤めも果たせなくなってしまいます。


「貴方のすごいところは感じることができるということだ。貴方の可能性をもっと見てみたい」

前任の技師様は、そんなことを仰っていました。

しかし、そのおかげで私は眠ることができなくなり、前任の技師様は解雇されました。

今の技師様が彼女と同じ運命を辿ってしまうことは、確かに恐ろしいですが、私が気になっているのは別のことでした。

「技師様。私に悪戯をするのは、私が変わった人形だからなのですか?」

その問いは、技師様の立場も、私の人形としての務めも通り越したところにあるものでした。

私が再び眠れなくなっていることより重要であるはずがないのに、考えてしまう。

そうではなかったらいい、そんなことを願ってしまう。

「私のことを、変わった人形としてではなくて、"私"として見ていただけるなら」

口にして、はっとなりました。

私は何を考えているのでしょう。私は人形。人形が人の内心について考えたり、願ったりするだなんて。

私は考えるのをやめ、目を閉じました。

眠ろうと試みましたが、やはり眠れませんでした。

人形の私にそんなものがあるかは分かりませんが、心が、技師様のことを乞いていました。


- 7 -


お嬢様に不具合がある。すぐに直すように。

ビュセール卿からオリヴィアさんを通して伝えられたのは、手短だった。

しかし察しはつく。この問題を放置するようなら君を首にする、と言われているのだろう。

「眠れない、ですか」

「分かりにくいでしょうか」

「ん、人形は眠らないものですから。じっとしていることができない、というのが問題なんですよね」

「はい……」

お嬢様の証言はあいまいで、なにが問題なのかわかりづらかったのだが、とりあえずセレモニーの途中で考えたり動いたりしてしまうのが問題らしい。

普通の人形は、自発的思考を持たない。お嬢様に特有の症状だといえるだろう。

「なんだか楽しそうですね、ご自身の身に関わる問題なのに」

「だって、お嬢様と一緒にいられる時間が増えたんですもの」

「……」

鏡越しに、お嬢様が頬を赤くして、視線をそらしてみせるのが見えた。本物の少女のような、反応。

「私も聞いたことがありません。人形が考えることをやめられなくなるなんて」

「そうなんでしょうか」

「人形というのは、そういう風にはできていないものですから」

あるいは、そういうことができる風にはできていない、と言った方が正しいか。

頭の隅に、嫌な可能性が思い浮かんだ。もし、お嬢様がそういう風にできているとしたら……それを抑えることなんて、できないのではないだろうか?

つまり、私の首はどうやっても飛ぶ。お嬢様とも会えなくなる。それは困る。

前任の前の技師様はどうしていたのかしら。

「では、どういうことをお考えになってしまうのでしょう」

「それは……」

お嬢様は目を伏せてみせる。何か話したくない理由がある、そんな顔。

「無理にとは申しませんが、答えていただかないと手の施しようがありません」

「……わかりました」

観念したように、お嬢様は間を閉じる。

「……あなたの……技師様のことを考えています」

「私……?」

予想外の返答。

「技師様にお会いしたいと、そう考えています」

人形は寂しがらない。それなのにお嬢様は、寂しいという感情を感じている?

わからない。私はお嬢様について多くを知らない。

同時に、少女に愛の告白でも受けたような、そんな気分になっていた。

「どうしてにやつくのですか」

「いえ……その」

嬉しい、のかもしれない。お嬢様がそんなに私を必要としてくれたことが。

「でも、人形が寂しがるというのは……」

「信じて頂けませんか」

「信じるかは別として、問題の解決を考えると……どうすればいいのでしょうね」

淋しがる人形を淋しがらせない方法なんて、人形技師としての私は心得ていない。それはもう人形ではない、別の何かだ。

「ごめんなさい。今の私に何ができるか……」

「……できます、技師様」

真剣な声。鏡越しに、真摯な瞳がこちらを見つめていた。

「どういうこと」

「わがままを、言わせていただいて、いいですか」

美しい顔に赤みが差して、無機質な人形が少女へと生まれ変わる。

「額に……キスを頂けたら、私、我慢します。淋しさを堪えて、人形として振る舞います」

「お嬢様……それって」

私まで、顔が熱くなる。

それではまるで、彼女が私を慕っているようではないか。

「やはり、いけませんか……技師様」

「……ううん」

お嬢様は肩越しに振り返ると、微笑んだ。私は心臓の音が大きくなるのを感じた。

「それで問題が解決するなら、お安い御用です」

「技師様……」

「内緒ですからね、というか見つかったらただでは済みません」

「……分かっています」

人形の不調を治すために額にキスするなんて、はたから見たら馬鹿げた解決法だった。

それでも私は承諾した。彼女がそんな風に求めてくれることが嬉しかった。あの美しい額にもう一度口付けられることが、嬉しかった。

「それでは、失礼します」

そっと前に立つ。お嬢様の頭に、そっと手を添える。

そっと口付けた瞬間、頭に血が上った。そのまま彼女の頭を抱き寄せたい衝動にかられた。私はそれを押し戻し、手を離す。

「ありがとうございます、技師様」

「え、ええ」

なんだか私も目を合わせられない。

胸が高鳴って、止まりそうになかった。技師として、超えてはならないものを超えていることを感じていた。

「とにかく、これで一週間、きちんと眠れますね?」

「はい、約束ですから」

お嬢様は満足げにうなずいた。その瞳はまるで恋がかなった少女のそれのようで。私は再び恥ずかしくなって、目をそらした。


- 8 -


「これで最後にしましょう」

今日こそ、その台詞を言うつもりだった。

なのに、私はもはや習慣となってしまった動作として、お嬢様の額にそっと口付ける。

「技師様……」

熱にうなされたような声を出しながら、お嬢様は私を見上げた。

いつからだろう。その仕草を愛おしいとまで思うようになったのは。

「約束」のもと、週に一度の清掃で、お嬢様の額にキスをするようになってから、私の中でも気持ちが膨れ上がりつつあった。

私にとってお嬢様は受け持ちの人形ではなくなっていた。

そして、それがどんなに危険なことであるのかも承知していた。

「また考え事ですか、技師様」

彼女に対して隠していることがあった。

私とお嬢様の間でこの「約束」が交わされてからというもの、お嬢様の立ち振る舞いは改善するどころか、悪化の一途を辿っていた。

そして3週前、一ヶ月以内にどうにかできなければ貴殿を解雇する、とのお達しを受けた。

あと一週間で、私は担当を外されてしまう。

「……お嬢様、お話が」

「なんでしょう?」

やわらかい微笑み。いつからこんな表情ができるようになったのだろう。以前はもっと人形のようだったーー何を考えている。彼女はもとより人形だ。

「……やはり、こういうことは今回で最後にしましょう」

「えっ……?」

悲しい瞳。私だって、お嬢様のこんな瞳は見たくない。けれど。

「お嬢様。お約束を守れていないそうですね」

「………」

お嬢様は目を伏せたが、

「……はい」

観念したように、そっと答える。

できれば取りたくなかった、最後の手段。

お嬢様との関係を絶つこと。

彼女に心のようなものが実装されているとすれば、この問題は解決しない。私との関係が深くなればなるほど、症状は悪化する。

ならば、私が徹底的に技師としての私に徹するしかない。彼女との個人的な関係を、つながりを、絶つ他ない。

「分かってください。私だって、お嬢様と離れたくはありません」

「分かっています。私は人形。務めを果たせなければ、存在する意義もありません」

「………」

本当にそうだろうか、とか、彼女にはそんなことを言って欲しくない、とか。

気持ちが浮かんでは消えていく。私の人形技師としての倫理が、それは考えてはいけないと私を押しとどめる。

「わかりました。これで最後にしましょう」

「ごめんなさい、お嬢様」

「どうして謝るのです」

お嬢様、あなたは辛くないのですか?

問うまでもなかった。彼女の悲痛な表情を見ていれば、わかる。

「技師様。わがままばかりで申し訳ないのですが、最後にお願いをしてもいいですか」

「本当に、最後ですよ」

「最後に……私から、キスをさせて頂きたいのです」

「……わかりました」

最後のお願い。これが終われば、心か肉体か、どちらにせよ私たちは引き裂かれる。

もっと悪戯をしてみたかった。もっと反応を引き出してみたかった。額に口付けたかった。今更になって、そんな願いが溢れ出してくる。

「技師様、目を閉じてください」

促されるまま、私は目を閉じた。

お嬢様のしなやかな指が、私の頬を愛しそうに撫でた。

最後の感触を記憶に焼き付けようと、私は額に意識を集中した。

時間だけが流れる。この時間が続いて欲しいという私の願いを、神が叶えてくれたのだろうか?

そうして、その瞬間は訪れた。


「ん……」

やわらかな感触が、私の唇を包み込んだ。

何が起きたのかわからなかった。

腕が、私の身体を抱き寄せた。恐る恐る目を開くと、目の前にお嬢様の顔があった。

ちゅっ、と音を立てて唇は離れ、それでもお嬢様は顔を離さない。

「お嬢様……」

「額に、とは申しませんでした」

頭が熱い。何も考えられない。

2回目のキスは、どちらからでもなかった。私の腕が、お嬢様の背中に絡みついた。

人形の唇はとても柔らかく、人間のような水気さえ感じさせた。

いとおしい。ずっとこうしていたい。

その気持ちが、抑えきれないほどに膨れ上がる。

時間が止まればいいのに、と思う。

それでも時間は過ぎて、お嬢様の唇が離れる。

言葉はいらなかった。お互いの瞳が、お互いを深く見つめていた。

「お慕いしています、技師様」

お嬢様が、私の胸に顔を埋める。

幸せだった。ずっとこうしていたかった。

「技師様は、私を愛してくださいますか」

……けれど、私の頭は急速に冷え始めていた。

私は、何をしている?

「技師様?」

人形とキスをしてしまった。それどころか、私は彼女を愛そうとしている。

心が痛い。しかし、それ以上に私は恐れていた。

このままお嬢様に、人形に恋をしたら、どうなってしまうのだろう。そんなことが許されるのだろうか?

「……お嬢様」

「技師様は、私を愛してくださいますか」

二度目の問い。

押し黙る私に、お嬢様の瞳が曇る。

「それは、できません」

「どうして? 私が人形だからですか?」

「……そうです」

傷でも負ったように、お嬢様は胸を押さえた。

「……なら、どうして」

私はお嬢様の声の中に、初めて見る成分を見出した。

「どうして、私に悪戯をしたのですか」

ああ、これは怒りだ。

軽い気持ちで禁忌を犯してしまった私に対する罰なのだろうか。

「あなたが、私を人間の少女のように扱ったから、私は……」

「すみません、お嬢様」

「あなたが、私をそう扱いさえしなければ、眠っていた私の心を起こすことさえしなければ、こんなに苦しむこともなかった」

お嬢様の瞳から、筋がこぼれ落ちた。

その人形は泣いていた。

泣くことまでできるのか――麻痺しきった私の思考は、そんな呑気な感想を生み出す。

胸が痛かった。お嬢様が泣いていることも、私をこのように責めていることも、私がお嬢様を愛してあげられないことも、つらい。

「それでも、私はあなたを赦します」

赦していただけるのですか。

縋るように、お嬢様を見つめる。

「ただ、あなたが私を愛してくださるのなら」

「お嬢様、私は」

あなたを愛しています。

たった一言。

それが、出てこない。

私は恐ろしい。

彼女を愛してしまったら起こるであろうすべてのことが。悲しみが。後悔が。

私は彼女と結ばれることはできない。それを知っている。そうしようとした者たちが、過去にどうなったかも知っている。

「ごめんなさい、お嬢様」

「技師……様……」

「私は技師です。それなのに、あなたを毀してしまった」

「何を言っているのです。技師様は、私に――」

「もう、お会いしない方がいいでしょう。どちらにせよ、私は近日中に首になり、この館を去るでしょう」

踵を返す。

声が震えているのはわかっていた。胸が張り裂けそうに痛かった。血が流れるように、涙が頬を伝った。

「待って、技師様!」

後ろから、お嬢様が抱きついてくる。行かないでくれと私に乞う。

その願いに応えられたら、どれだけ幸せだろう。

「お嬢様。あなたは毀れているだけなのです」

「毀れてなどいません。これが本当の私です」

「人形は、恋をしません」

「それでも、私は技師様を――」

私はお嬢様を転ばせないように、軽くその手を振り払う。

「技師様!」

「次は、よき技師に巡り会えますよう」


私は部屋を出た。お嬢様が追ってくることはなかった。

「どうか、お幸せに」

何の償いにもならない、陳腐な償いの言葉が、虚しく宙を切った。


- 9 -


突然家を訪問してきた私に、師匠は驚いた風だったが、暖かく迎えてくれた。

師匠の工房で寝泊まりする日々が戻ってきた。ビュセール卿のお屋敷に住み込みで雇われるまでは、ずっとそうしてきたのだ。

「そろそろ、話してくれる気になったかい」

神の手とまでいわれる腕を持つ一流の人形技師の食事とは思えないほど質素なスープを取り分けながら、師匠は私に問う。

「もうお話ししたでしょう。私には荷が重過ぎた、それだけです」

師匠は肩を竦め、ため息をして見せる。

「それだけで、あんなに思いつめた表情で帰ってはこないだろう」

「………」

「ビュセール卿も戻ってくるよう言っていたよ。確かに"お嬢様"の調律には失敗したかとしれないが、他の人形の調律は見事なものだったと」

「今更戻れません」

「戻れば、その二体は今まで通り任せてくれるそうだ」

「師匠!」

かっとなって、私は声を荒げていた。

「……すみません」

「それで怒るということは、やはり人形技師としてのプライドの問題ではないんだね」

本当に、この人にはかなわない。それでも、人形に恋しただなんて話を師匠にできるわけがない。

「……私も、あの人形についてはいろいろ調べたよ」

パンをスープに浸しながら、師匠はつぶやく。

「どこまでも人間に近く、細かく造られている。五感も体温もある」

知っている。

触れた唇の柔らかさは、記憶に刻み込まれて忘れられそうにない。

「一説には、心まであるといわれているようだね」

「!」

銀のスプーンを取り落とす。くぐもった音が床に響いた。

「おや、どうしたんだい」

「いえ、まさか師匠の口から、人形の心の話が出るなんて」

「まあ確かに、人形技師の間では禁忌とされている話ではある」

かつて、この国は心のある人形の製造を禁じていた。

人間のように感じ、人間のように意志をもって振る舞う存在を作り上げることは、危険だと考えられていたのだ。

しかし人形に心を持たせる技術がそもそも存在せず、それは不可能だとされ、人形が金持ちの道楽に成り下がる過程でその法は消滅した。

「まあ、"お嬢様"に心があるというのは与太話に近い。少なくとも、そういう扱いにはなっている」

「それでも、私は……」

「お嬢様の"心"に触れた?」

「……思い込みですよ」

思い込み。初級の人形技師にありがちな、姿形が似ているというだけで、人形に心を規定するという過ち。

「ただの思い込みで、そんなに苦しむとは思えないね」

「では師匠は、心のある人形の実在を信じると?」

「難しい質問だ」

師匠はそう言うと、パンを水で流し込む。

「だめですよ、ちゃんと噛まないと」

「すまないすまない、若い頃の癖は抜けないものだ。少し、君に渡したいものがあってね」

師匠は席を立ち、部屋を出る。数分もしないうちに、古びた封筒を手に戻ってきた。

「この封筒が、何か」

「裏だよ。大事なのはここだ」

支障が指差した先には、どこかの住所らしきものが示されていた。

「この住所がどうかしたんですか? 隣の国のようですけど」

「ここに、"お嬢様"を作った人が住んでいる」

「え……?」

私は目を見開いた。お嬢様を作った人が、生きている!?

「……いや、住んでいるかもしれない、か。連絡を取ったのはもう7年も前になる」

「お知り合いなんですか」

「いや、こちらがファンだったのさ。一方的に手紙を送りつけたら、一度だけ返事をくれた……それだけの関係だね」

師匠は、その封筒を私に手渡す。

「それを貸してあげよう。他に手助けができなくて、すまないが」

「でも師匠、大切なものなんじゃ」

「一番大切なもの、思い出はここに残っているさ。それに……」

師匠は自分の胸を拳で叩くと、言った。

「どうやら不肖の弟子の悩み事には、そいつが一役買えるみたいだからね」


- 10 -


「ヘイゲンブルクまで、1枚」

「はいよ、お嬢さん……あんな田舎まで何をしに行かれるんです?」

「人形技師をしておりますもので」

「おや人形技師さん。なるほどね、田舎にはいなそうですからね。人形といえば、うちの列車にも人形が乗っているんですよ。切符は彼女に渡してください」

「電車に人形が?」

「サービスを始めてみたら好評だったものでね。もしかすると、お嬢さんにも調律をお願いすることがあるかもしれませんね」

「はい、その時はよろしくお願いします」


鉄道に乗るのは、どれほどぶりだろう?

ベルベット張りの座席の上で、手元の地図と、封筒を見返す。地図によれば、駅のあるヘイゲンブルクは、目的の場所からまだまだ遠い。

そこで必要なものを買い込んで、馬車で近くの村まで向かう。あとは人形職人の家がある、村の西側にある山へ分け入る。

大変そうだけど、それでも、私は進まなければならない。

お嬢様について、私は知りたい。どうして彼女があんな風に造られたのか、彼女に心はあるのか。知らなければ気がすまない。

「お客様、切符を拝見してもよろしいですか?」

向こうから歩いてきた長髪の人形が、無機質な声で問いかけた。私は無言で切符を渡す。

「ありがとうございました。よい旅を」

人形は一礼すると、私を通り過ぎていく。

「お母さんすごいよ、お人形さん!」

「そうだね、可愛いねぇ」

「うちにもお人形さん欲しいなぁ」

「だめよ、いくらすると思ってるの。お人形の調律はすごいお金がかかるのよ」

「えー……あたし、お人形さんとお友達になりたいのに」

後ろの席の母娘が、そんな会話を繰り広げていた。

(人形に、心はない)

姿形が人間に似ているだけに、素人は心があるものだと勘違いをしてしまう。人形をよく知る者ほど、その勘違いからは遠のく。

今の車掌人形にだって、心はないはずだ。

それなら、お嬢様は?

わからなかった。彼女は人と同じように感じ、考えることができる。そこに心は生まれるの? 恋をすることなんてできるの?

(それを確かめに行くんだ)

係員がドアを閉めると、汽笛が鳴った。少しの衝撃とともに、列車はゆっくりと動き出した。

私は手紙をかばんにしまい込むと、ゆっくりと目を閉じた。


「見てください、技師様。あれが牛ですか?」

無邪気な声。

よそ行きのワンピースは、ドレスよりは簡素だったが、それでもよく彼女に似合っていた。

(私は……)

ごとん、ごとん。

子守唄のように、列車は揺れる。少女のようにはしゃぐお嬢様は、私の向かいの席に座っている。

(夢……?)

景色が変わるたびに、彼女は窓の外を指差す。

そうして、楽しそうに笑う。

(そうね……あれが風車。風の力を使って粉をひいているの)

声は声にならず、私の体は動かない。

お嬢様とお話ししたいのに。

私が返事をしないのに、お嬢様はとても楽しそう。

眺めているだけで、幸せになる。

(こんな夢なら、ずっと見ていたいのに)

一度だけ、お嬢様の頭を撫でようと、私は手を動かすことを試みて。

諦めて、お嬢様を眺めた。


「お客様……お客様」

ゆっくりと目を開ける。窓から差す光は、赤みを帯びていた。

「ヘイゲンブルクに着きました」

「ありがとう、起こしてくれたのね」

「降りてくださらないと、電車、動かせません」

「はいはい」

ぶっきらぼうな扱いを受けた気がするが、普通の人形というのはそういうものだ。

彼女に軽く詫びると、私は席を立つ。

この街で一泊したら、次は馬車だ。

「お嬢様を造った人……マルセルさんに、会わなきゃ」


- 11 -


馬車での旅は、想像以上に過酷だった。

長旅の疲れから、私の意識は朦朧としていたが、激しい揺れと音が、私に眠りを許さなかった。

三日と三晩、馬車に揺られ終わった時には、私は立つことすらおぼつかなくなっていた。

「お嬢さん、大丈夫ですかい。どういう事情か知らないけど、独り身でこんな田舎まで来なくても」

「いいんです。これはやらなければならないことなので」

「まあ商売だし、止めはしないけど……本当に西の森に行くんですかい?」

「行きます」

馬車の主に路銀を渡す。全身が、悲鳴を上げていた。

「こんなの、お嬢様の苦しみに比べれば」

私が与えてしまった苦しみ。

馬車に揺られながら、おぼつかない頭で、お嬢様のことを考えていた。

私の行為が正しかったのかどうか、どうするのがよかったのか。わからないからこそ、私はここにいる。

師匠から借り受けた方位磁石を、そっと水平にやった。マルセルさんの家は、ここから西の山の中だ。馬車の主にそう聞いたので、間違いはない。


宿の食堂は賑やかだった。宿泊客が食事を取るだけでなく、酒場として開放されているらしい。

「それであいつ、何て言ったと思う? 俺は見たんだ! さまよう甲冑を見たんだ! ってさ」

その言葉に、周囲の酔客がどっと笑った。

「すみませんねぇ、うるさくて」

「構わないわ、私の部屋まで届かないのなら」

「お嬢さんが寝る時間には閉店ですよ」

運ばれた料理に手をつけながら、なんとなく周囲の声を聞き流す。

「でも俺も知ってるぜ、さまよう甲冑の話」

「お前までそんなこと言い出すのか」

「聞いただけだよ。むかし戦争があった頃に死んだ騎士の霊が、西の山で甲冑に乗り移って彷徨ってるって」

「バーカ、甲冑を着た騎士様があんなとこ通るかっての。馬が潰れちまう」

「だから聞いた話だよ。一人であの山に入り込むと、そいつに首を狩られちまうって」

「知ってるぜ。でも実際には狩られたヤツなんて一人もいないんだろ?」

「まあ、ホントに狩られたら騒ぎになるだろうしな」

西の山、という言葉に私の耳は反応した。

(やめてよ……お化けとか、そういうの苦手なんだから)

当然、マルセルさんに会いに行くという意志は潰えたりはしない。

明日に備えよう。そのためにも、今は食べないと。

私は食事を再開した。騒がしい集団の話題は、とっくに移り変わっていた。


- 12 -


山に分け入ったのは、早朝だった。

幸いにも踏み跡はあり、それを辿っていくことができた。

上り坂が続いた。長旅に疲れた私の足は、少しずつ動かなくなった。座り込んで休憩する時間が増えた。

「はぁ……はぁ……」

旅をする時は、常に何かを食べなければならない。さもないと、疲れて動けなくなってしまう。

しかし私は、そのことを知らなかった。動けなくなりつつあった。

「……行かなきゃ」

立ち上がろうとする。力が足りず、私は仕方なく、這って歩く。

上等な服の生地が、土に汚れていく。こんなものを着てくるんじゃなかった。

方位磁石で方向を確かめることも忘れていた。ただ必死に、踏み跡をたどった。

森は深くなり、何度も蜘蛛の巣を横切った。

水の流れる音が聞こえてきた。私は、もう何時間も前に水筒を空にしたことを思い出していた。

「飲める水が組めるかもしれない」

そう思うと、少しだけ体が軽くなる。草をかき分け、ただ進む。

急に視界が開けた。

目の前に広がった断崖に、私の足はすくんだ。

「川……」

谷の奥底に、大きな川が流れていた。流れは速く、岩に打ち付ける水は、気泡によって白く濁っている。

崖沿いに、人一人ほどが通れそうな道が続いている。道はぐるりと曲がり、途中で途切れていた。

「あれって……」

道の先端に何かが見える。

二本の杭に、だらりと垂れ下がったロープ。ロープにくっついた板のようなもの。

「橋……?」

あるいは、橋だったもの。

「嘘でしょう……?」

自然に、膝から地面に崩れ落ちる。

方位磁石が示す方向は、間違いなくその壊れた橋の向こう岸だ。

そのはるか上に、藪に隠れて、赤い屋根が見える。あれがマルセルさんの家だろうか。

「……ここまで来て、帰れるわけない」

私は壊れた橋を観察する。

下は谷だが、一応は水だ。そして、飛び越えられないほどの距離はない。

足元に、小さな花が咲いている。見たことのない花だったが、よく似た花を見たことがある気がした。

その瞬間、花と一緒にショーケースに飾られるお嬢様の姿を思い出した。

「行かなきゃ」

私は覚悟を決めた。荷物はここに置いて行く。財布と師匠の手紙だけをポケットに納め、方位磁石を首からかけた。

助走をつける。足が思うように動かない。

でも、飛び越えないと。

なるべく速く、走る。すべての力を込めて、私は飛び立つ。

浮遊感。

予測していたコースと違う。私は手を伸ばす。対岸。届かない。

(だめ……)

いつもの私なら飛び越えられる距離だった。しかし、私は疲れていた。全力を発揮することができなかった。

落ちていく。お嬢様の顔が、頭に浮かぶ。

衝撃と、冷たい感触とともに、口の中に水が流れ込んでくる。

体が流されていく。岩に、腕がぶつかる。どこかに掴まろうと、私は必死にもがいた。

努力虚しく、私は流されていく。

数分ほど流されたところで、ようやく私は岩にすがりついた。

全力を振り絞って岸によじ登ると、私は身体を横たえた。

寒い。冷たい。全身が痛い。おまけに、谷に落ちてしまった。

飛び越えようなどと、馬鹿な考えだったのだろうか。

「お嬢様……」

ぽつり、と呟く。会いたかった。あの部屋で、身体を拭いたり、着替えを手伝ったりしたかった。

このままでは体が冷えてしまう。

とにかく、谷の上まで戻らないと。しかし、体が言うことを聞かない。

だからだろうか。

ずしり、ずしり……と重い音。私はゆっくりと振り返り、言葉を失う。

甲冑がいた。

藪の中で、巨大な甲冑が、私に向かって歩いている。

宿で聞いた噂話を思い出したが、恐ろしさは感じなかった。

(人が死ぬときって、こんな幻を見るものなのかしら)

浮かんだのはそれだけだった。

私の意識は、そこで途切れた。


- 13 -


かしゃり、かしゃりという音が響く。私はゆっくりと目を開ける。

「ここは……」

見慣れない天井。

「すまない、目を覚ましてしまった」

私の視界に、立派な鎧が映り込む。

「ひっ!?」

「すまない、驚かせた」

こだまのような男性の声が、私に謝罪する。

「甲冑……さん?」

「このような身体ゆえ、身体を動かすだけで音を発する」

「………」

「自己紹介が遅れた。私はヴラディミール、こんな成りだが、人形である」

「ああ……甲冑人形ね。初めて見た」

ぼんやりした頭で思い出す。はるか昔に作られた甲冑人形。確か、ほとんど現存していないはず。

周囲を見回す。暖炉では薪が音を立てて燃えていた。私が寝ていたベッドには、大きなぬいぐるみが置かれている。

「あなたが私を助けてくれたの?」

「仕事の最中、道すがらに倒れていた故」

「ありがとう。命拾いしたわ」

私は自分の服が着せ替えられているのに気がついた。誰の服だろう? 人形が着るようなドレスだ。少し、サイズのきつさを感じる。

「ええと……あなたのご主人様は?」

「私は野良人形である」

「野良人形……?」

そんなものは存在しないはずだった。人形は繊細だ。人が手入れをしなければ、動き続けることができない。ゆえに持ち主が死ねば、技師に調律を頼むこともできず、人形も死ぬ。

「私は技師の助けを必要としない。甲冑人形とはそういうものだ」

「確かに、甲冑人形は今の人形とは全く違う仕組みで動いていると言われているけど」

そんなに頑丈なものだろうか?

「……ちょっと貴方。お礼と言ってはなんだけど、私が診てあげましょうか」

「可能か」

「わからないけど、やってみる。私、これでも人形技師だから」


彼、ヴラディミールの構造はひどく単純だった。技師である私は、一目で彼の仕組みを理解し、修繕を施した。

「関節の動きが良くなった。感謝する」

「いいえ、命を助けてもらったんだもの。お役に立てて光栄」

私は立ち上がり、甲冑に尋ねる。

「私の服はどこ?」

「急がれるか」

「会わなきゃいけない人がいるの。私が倒れていた山に住む、マルセルさんって人なんだけど……」

「マルセルは、私の主だった」

「えっ」

私は、甲冑の手を取る。

「教えて。彼は今どこにいるか、知らない?」

「主は……」

鋼鉄のガントレットが器用に動き、空を指差した。

「永遠の眠りにつかれた」

「そんな……」

頭を打たれたような感覚を覚える。もう亡くなっていただなんて。

「私は、マルセルさんに会うために旅をしていたのだけど」

「申し訳ない」

「あなたのせいじゃないわ」

ふと、考える。お嬢様を造ったマルセルさんと暮らしていたこの甲冑さんなら、お嬢様のことを知っているのではないだろうか?

「あの、甲冑さん。お嬢様のことを知らない?」

「お嬢様とは何か」

「ごめんなさい、言葉が足りなかった。マルセルさんの造った、人に限りなく近い少女の人形なのだけど」

「人に近い……わからない。しかし、エレナという人形ならいた」

「エレナ……」

口にしたその名は、不思議なほどしっくりと来た。まるで昔から知っているかのような感じがあった。

「お願い。そのエレナという人形のことを教えて欲しい」

「多くは知らない。主はエレナを大層可愛がっていた。私はエレナを守った。さしたる脅威もなかったが」

「エレナは、どうなったの?」

「主がなくなり、遺言によって他人に譲られた。私と違い、彼女には技師が必要だった」

主人がなくなれば、自動人形は死を迎えるしかない。

マルセルさんは、エレナが自分の元で動かなくなるより、誰かの元で動き続けることを願ったのだろうか?

「私は主の遺志を守るため、ここに残った」

「ご遺志とはなんだったの?」

「主は、間違いを犯したかもしれないと仰った。その間違いを糾す方法を、主は残された」

「どういうこと?」

甲冑さんは黙り込む。

「……貴公は、エレナを想う者か」

重い口調で告げられたのは、そんな観念的な問いだった。

「……ええ」

しかし私は、淀みなく答える。

「彼女のためにここまで旅をして、命を落としかけた。貴方も知っているとおり」

「………」

甲冑さんは黙り込む。短くない沈黙の後、彼は立ち上がり、歩き出す

「あの、何処へ」

「ついて来られよ」

言われるまま、私は甲冑さんに続く。

石の廊下を渡って、地下室へ。日は高く、廊下には陽が差していた。

「この扉も、必要なくなった」

甲冑さんは、木の扉に身体をぶつける。何度も何度も打ち付けて、ようやく扉は内側に押し開かれる。

そこは書斎だった。

本棚に置かれた本のラベルは、私には読めない。片隅の埃にまみれた机の上に、封書があった。

「エレナを真に想う者に、これを読んで欲しいと主は仰った」

「……ありがとう、ヴラディミール」

「この手紙を守ることこそ、我が使命。使命を果たすために私はいる」

私はその封書の埃をそっと払った。

蜜蝋の封を破ると、かすれていない文字が目に入る。几帳面さを思わせる筆跡で、それは綴られていた。


エレナを想う者へ


どういう経緯であなたがこの封書を受け取るのか、私は知らない。しかしヴラディミールに預けてある限り、安心だろうと信ずる。

この封書を私が残した理由は、私は間違いを犯したかもしれず、愛するエレナのために、それを糾す方法を後世に残すためである。

エレナ――私の娘と言ってもいい最愛の人形は、今はなんと呼ばれているのだろう?

彼女は私の技術の粋を集めて造ったものだった。人間のように感じることができ、人間と同じような身体を持ち、自分で考え、心さえ持ち合わせる。

正直に話すと、彼女を造った動機は私の技術者としての慢心と、純粋な好奇心だった。私はあまりにも若く、人間が、その手で一つの魂を、魂と呼んでも差し支えのない意思を生み出してしまうことが、果たして許されるのだろうか、ということを考えすらしなかった。

しかし、そうして生まれた彼女と暮らすうちに、私は彼女を娘のように愛するようになり、そして恐怖した。

私は人の身であり、いつか死ぬ。そうすればエレナは悲しむだろう。それだけではない。彼女は人形だ。人形ゆえに、人として扱われることはない。私の手を離れた彼女が、どう扱われるか保証はない。

私は彼女の悲しみに、彼女が経験するであろう苦しみに、人ではない身でありながら人と同じような感覚と心を持つという残酷な運命に、私は責任を負えるだろうか?

だから私は、自らの死期を悟ったとき、彼女の記憶を消してしまうことにした。

彼女が苦しまなくていいように、また感情のない人形として振る舞えるように。


しかし、今になって自覚していることがある。

彼女のためと思っていながら、私は怖かったのだ。

自分が生み出してしまった、呼び覚ましてしまった心が傷つくことが、それに向き合うことが恐ろしかった。

私の判断が間違っているのか、それとも正しかったのか、確証はない。

しかし、もしこれを読んでいるあなたが、私の判断は間違いだったと思うのなら。

彼女と向き合って欲しい。

彼女には心があり、人と同じように感じたり考えることができるということを、認めて欲しい。

どうか私と同じ過ちを繰り返さないで欲しい。

そうしてエレナが幸せに生きてくれるのであれば、彼女の父として、これ以上嬉しいことはない。


人形職人 マルセル


「お嬢様……」

私は、自らの行いを恥じた。

勘違いを、臆病を、意気地のなさを恥じた。

彼女の造り主も、同じようなことで悩んでいたのだ。

「私は……逃げただけだ……」

涙がこぼれ落ちる。お嬢様の泣き顔を思い出す。

最初、私はお嬢様に心を作り出してしまったように感じていた。

私のせいで彼女は運命に呪われ、本来感じなくていい苦しみを感じるのだと思った。

でも、違ったんだ。

彼女は元からそういう風にできていて……そうあることを願われていた。

こんなにも愛されていたんだ。

それなのに私は、彼女の運命に向き合うことが怖くて、逃げようとした。

本当は知っていたはずなのに。人間と同じように感じ、考えるのなら、そこに心は生まれるはずなのに。

そこにある心を、見ないふりをした。

彼女を人形として扱おうとした幾多の人々と、同じ仕打ちを彼女に課してしまったのだ。

「ありがとう……ヴラディミール。決心がついた」

涙をぬぐいながら、甲冑に笑いかける。

「すぐにでも出発する。お嬢様に、エレナに会わなきゃ」


- 14 -


麓まではすぐだった。甲冑の彼の案内があったし、彼の肩に乗って河を渡ることもできた。

壊れた橋の前に放置した鞄も回収することができ、私は一日ぶりの食事にありついた。

「ありがとう。この山はあなたの庭みたいなものなのね」

「主の墓を掃除するため、よく水を汲みに行く」

それで運良く私を見つけることができたのか。

「それで、貴方はこれからどうするの?」

「貴公について行く」

「えっ」

想定していなかった返事に、私は驚いた。

「ご主人の墓は、もういいの?」

「主はエレナを守れと言われた。墓の掃除は私が勝手にしている。主の命令ではない」

「でも……」

「エレナを想う者に手紙を渡した。私の使命は残っていない。貴公には修繕の恩もある」

「うーん……まあ、いざとなったら私の師匠のところに世話になるといいわ。珍しい甲冑人形なら、彼も興味を示すでしょうし」

「では同行してよいか」

「あなたをどう運ぶかは少し問題だけれど……甲冑を馬車や鉄道で運んじゃいけないって決まりはないしね」


そうして、私は甲冑を引き連れて帰国した。

師匠はしばし、ヴラディミールを見て言葉を失ったが、私と新しい客人を暖かく出迎えた。

もう隠すことはなかった。私は旅のことを、そしてお嬢様――エレナとのことを、すべて師匠に話した。もちろん、キスだとかそういうことは伏せたけれど。


- 15 -


「そうして君は、お嬢様――エレナと恋をした」

「……はい」

「君はエレナを好いていて、彼女も君を好いている……か」

「人形技師としては、笑い話のような構図かもしれませんが」

「いいや、僕はそうは思わない」

師匠はあっさりと否定してみせた。

「人形との恋にまつわるよくある喜劇では、心のない人形に、人間が勝手に心を想定して、勝手に恋に落ちている。その一人芝居っぷりが滑稽で、笑い処なのさ。恋は盲目、とはよく言ったものだ」

「でも、エレナは」

「そう、彼女には心がある。間違いなくね。造った人間のお墨付きだ」

「はい」

それを否定することは、もう二度とないだろう。

「人形の記憶を消すというのは初めて聞いた技術だな。まあ心を持った人形を作るような職人だ。それくらいのことはできるのかもしれないね」

「記憶のことは、いいんです。大切なのは、今彼女がこの世界にいることだから」

「しかし……彼女は人形で、ビュセール卿の所有物だ」

「はい……」

少し、気分が重くなった。

彼女は自由の身ではない。いくら心があって意思があっても、人形だ。

「ローズ。君はどうしたい?」

「どうって……」

エレナに謝って、愛していると伝えて、それから。

「エレナが望んでくれるなら、彼女と一緒になれたら……と、思います」

「なるほど、ビュセール卿のお屋敷から彼女を盗んでくるわけだ」

「それは……」

エレナに向き合う。謝る。気持ちを伝える。そこまでは考えていた。しかし、私はその先を考えていなかった。

人形と結ばれたとして、その後どうするのか。持ち主であるビュセール卿は許してくれるのか。許されるはずがない。

「彼女を買い取る……とか、できませんか」

「無理だろうね」

「そうですよね、ビュセール卿が素直に売ってくれるはずが」

「いいや、私が言っているのは金額の話だよ。卿は美術品そのものにはさほど執着は薄くない」

「そうなんですか」

「というより、美術品そのものではなくて、美術品を苦労して集めている自分と、その物語が好きなんだろうね、彼は」

確かに、という感じはした。だとすれば、向こうの気持ち次第では、エレナを諦めてくれるかもしれない。

「……先のことは追い追い考えるとして、とにかくエレナに会いたい。会って、謝って、私の気持ちを伝えたい」

「とはいえ、お屋敷に忍び込んだのでは、話し終わる前に捕まってしまうだろうね」

「少しの間でいい……エレナと話せたら」

考えろ。何処かにチャンスはないだろうか。

そうして、私はふと思い出す。

エレナがパーティで飾られる時は、いつも前日のうちに会場の準備が済まされる。

美術品は前日のうちに置かれ、エレナのショーケースは一晩の間、ホールで夜を過ごすのだ。

その晩に無人のホールに忍び込めば、エレナと話すことができるかもしれない。

「……師匠」

「何か思いついたようだね」

「お屋敷に忍び込んだ罪で捕まって、少し面倒をかけるかもしれませんが」

「構わないよ。ここまで首を突っ込んだんだ。私も共犯さ」

「ありがとうございます。ヴラド、あなたにも少し手伝って欲しい」

「御意」

壁際で直立していた甲冑が、ガチャリと動いた。

「師匠、ビュセール卿の次のパーティは?」

「友人に尋ねてみよう。いつも招かれているやつを知っている」

こうして、計画は動き出した。


- 16 -


「大丈夫、見張りはいない……」

私は、塀の上からお屋敷の敷地を望む。

「ヴラド、もう少し背伸びできる?」

「やってみる」

私の足を載せた甲冑の肩が、少しだけ浮き上がった。

「ありがとう。これなら自力でよじ登れそう」

「降りられるか」

「壁の内側が階段になってるわ」

「了解した」

私は足音を立てないように、階段を降りる。

ホールに美術品が集められているのに、警備はほとんどなかった。お屋敷にいた頃、ここ数年美術品泥棒など出たことがないと聞いたことがある。

お屋敷に出っ張りのようにくっついたパーティホールへの入り口には、すぐにたどり着くことができた。


暗いホールの天窓から月明かりが差して、会場を微かに照らした。

それを見つけるのは簡単だった。会場の真ん中、いちばん豪華に飾りつけられた台座の上に、そのショーケースはあった。

花の中で、人形が眠っていた。闇に慣れた私の目は、その姿をはっきりと捉えることができた。

赤い薔薇と、その花びらをそのまま縫い合わせたような、真紅のドレス。

こうしてもう一度目にすることができただけで、それだけで幸せだと思う。

「お嬢様!」

私は、ありったけの力を込めて叫ぶ。

眠り姫は、ゆっくりと目を開いた。

「技師……様……?」

夜の静寂の中でも溶け込んで消えてしまいそうな、か細い声。


「どうして……ここにいるのですか」

ショーケース越しに、澄んだ瞳が私を見下ろした。

「遅くなりました。あなたにもう一度会うため。あなたと向き合うため、戻って参りました」

息が切れそうになるのを押さえながら、私は呼びかける。

「技師様、私は人形です」

「存じ上げています。お嬢様、ごめんなさい。私は恐れていました」

「何をです」

「……あなたに心というものを与えてしまったなどと自惚れ、その責任の大きさを恐れました」

「技師様、あなたのせいではありません。私はもとより出来損ないの人形。そのような存在でありました」

「でも、あなたに心を与えたのが誰かだなんて、今はどうでもいい」

残された時間は、どのくらいだろう。すべてを伝えたい。私は、言葉を続ける。

「あなたに心があってよかった。今はそう思っています」

「えっ……」

「あなたの苦しみも、運命も、すべて受け止めたい。心を持ち、私を愛してくれたあなたを、私も愛したい」

「技師……様……」

「いいえ、私はあなたを愛しています」

やっと、言うことができた。

ずっと伝えたかった想い。障害を恐れて、伝えあぐねた言葉。

「……私は、人形です」

震えた声。

「存じていると申したでしょう」

「想いを伝えあったとして、あなたと共に生きることは叶わないかもしれません」

「覚悟はできている、と申しました。それに、いつかあなたを迎えに来て見せます」

「私は、あなたに重荷を押し付けてしまったと後悔していたのに」

「ならば私は、その重荷を喜んで負いましょう」

「技師様……」

叶わぬ恋かもしれない。彼女をショーケースから出すことは、一生不可能かもしれない。

それでも私は伝えたかった。彼女を愛していることを、どんな重荷も引き受けるということを。


「愛しています、エレナ」


時間が止まった。

私がそう呼びかけた瞬間、薔薇の花束が崩れて。

弧を描いて、ショーケースの前面が開いた。

バランスを失った人形は、十字架から解き放たれたように、前に倒れこむ。

「エレナ!」

私はすかさず、倒れこんだ彼女に駆け寄った。

「私……私は……」

「覚えていないかもしれませんが、あなたの本当の名です」

「いいえ……」

人形が、二本の足で立ち上がる。

それは、ショーケースの中に飾られるための直立ではなく。

一つの魂が、彼女を地に立たせていた。

「忘れるはずもありません……マルセルお父様、甲冑のヴラド……」

「エレナ?」

「どうして……私は忘れようとしたのでしょう?」

エレナは、笑顔だった。

それは今まで見た中で、いちばんの笑顔。

なのに、彼女の瞳からは、涙が溢れ出していた。

「私は……自分の運命を忘れるために……ずっと……」

「お辛かったでしょう」

彼女を抱き寄せると、一気に嗚咽がこぼれた。

「わたしっ……私は……ずっとありのままでいたかったのに……心を捨てたりなんて、したくなかったのに……」

「あなたが想いを伝えてくれたのに、私も、それを認めてあげられなかった」

「技師様……技師様……」

「あなたはずっと、あなたの心を認めてくれる人を必要としていたでしょうに。私は、気づけなかった」

「いいんです……今、こうして、認めてくれたから」

「あなたは私を愛してくれている。私も、あなたを愛している」

「はい……愛しています、技師様」

「ローズでいいわ」

「愛しています、ローズ」

お嬢様の髪を撫でる。ずっと、こうしたかった。こうなりたかった。

「たとえ一緒になれなくても、この気持ちだけは本物」

「はい……はい……」

心が満たされていた。胸の中で泣きじゃくる少女が、愛おしくて仕方なかった。

でも……あとどれくらい、こうしていられるのだろう。

いつか日は登る。もしくは、見張りが私たちを見つけるだろう。

時間が止まればいいのに。

ずっとこうやって、彼女を抱きとめられればいいのに。

終わらないで。

「何をしているのかね」

そんな願いは、あっさりと裏切られる。

聞き覚えのある声に、私は後ろを振り向く。

「度し難いな。職を負われて食うに困って、美術品泥棒かね」

ビュセール卿――エレナの持ち主が、狂気をはらんだ目で私たちを見下ろしていた。


「私の大切な人形に、何をしている」

「……ビュセール卿」

「盗み出すつもりだったのか? 彼女を? ええ?」

「違います、旦那様」

エレナが割って入る。

「……驚いたよ。君に声をかけられるのは、いかほどぶりだろう」

「無理もありません。あなたは、私がこうして声を遣うことすら、お許しになる人ではなかった」

毅然とした声。

エレナが、こんな声を出しているのを、私は見たことがなかった。

「人形が主人に口答え、ときたか」

「旦那様は誤解をされていたのです。私は、もとよりこのような出来損ないの人形です」

「嘘をつけ! 技師! お前が入れ知恵をしたのか?」

雷鳴が轟いた。いつの間に雨脚が近づいていたのか。

「おお……おお。あんなに美しかった私の人形が。なんというざまだ」

「技師様は関係ありません。これは私の天性です」

真っ直ぐな瞳。透き通った声。彼女は明らかに人形のようではなくて、それでも、とても美しかった。

ショーケースの中で飾られている時より、私が知っているどのお嬢様より、ずっと。

「私は人形を欲したのだ。少女を欲したのではない!」

「ならば、私をあなたに売り渡した者が、私の本質を見誤ったのでしょう」

「それでもお前には人形としての美しさがあった。そう振る舞うこともできたではないか」

「それは……私の望みではありません」

「望み! 人形が何をいう。やはりお前は毀れてしまったのだ。そこの技師のせいで!」

「ビュセール卿。彼女はもとより、そのように作られておりました」

「黙れ、貴様らの言うことは何も信頼できぬ! 何も! 私の人形を返せ! 自分のしたことが分かっているのか!」

その青年貴族は、彼の普段の姿からは想像できないほど、激情を溢れ出させる。

「この人形を見よ、わからぬか。その瞳、立ち振る舞い、声、すべてに宿ったこの生気が。こんなものが人形だと? そこらの平民の少女のようではないか!」

「卿にはわからないのですか。彼女の美しさが」

「黙れ、盗人の分際で! とにかく、貴様は私の人形を毀したのみならず、私の屋敷に忍び込んだ」

卿の声が、妙な落ち着きをはらんだ。嫌な予感が、私の背筋を走った。

「盗人を捕らえようとしたら、うっかり斬り殺してしまうくらいの事故はあって然るべきだな?」

破綻した論理。妙に落ち着いた声。

「旦那様、何を」

「私は美の探求者であるから、その激情が盗人一人を殺すなど、何の不自然も無き事」

金属のかすれる音がした。

再び雷鳴が轟いた。稲光に照らされて、細身の刀身が闇の中に煌めいた。

「旦那様、おやめください!」

「黙れ! 毀れた人形が。盗人を殺した後、貴様もこの手で処分してやってもよいのだぞ!」

「……ならば、私をお斬りください。私はどうなってもいい。技師様を、殺めないでください」

「エレナ! 何を言っているの!」

「これが私の答えです。愛した人を守りたい。そうすれば、私のこの心は本物であると、胸を張って言うことができます」

「犠牲なんて必要ない! あなたの心は私が認める、そう言ったでしょう?」

「逃げてください、ローズ」

「人形風情が自己犠牲を騙るか! 順番を変えてやる。貴様から棄ててやるとしよう!」

卿が、剣を構える。エレナは私をかばうように前に出る。

――隙を見て、エレナを連れて逃げよう。

私がそう判断するのと、エレナが一歩前へ出るのと、卿が叫び声をあげながらこちらへ走り出すのと。

ホールの窓が砕け散るのは、ほぼ同時のことだった。

破片の中に、私は甲冑の背中を見た。

鐘を打ち鳴らすような音が響く。立ちふさがるように飛び込んできた鋼鉄の鎧は、細身の剣をたやすく受け止める。

「ヴラド!!」

「危ないところだった。帰らなかったのは正解だった」

「なんだ貴様はぁ!!」

卿は激情に任せ、甲冑に剣を振り下ろす。

しかし細身の剣の刃は、金属音を鳴り響かせるだけだった。

「ヴラド……そんな、どうしてこんなところに?」

「あなたの実家からついてきたのよ」

「逃げろ、技師。エレナ。こいつは私が相手をする」

「ごめんヴラド、必ず助けるから」

私はエレナの手を引くと、ヴラドが叩き割った窓枠を飛び越えた。

エレナは覚悟を決めたのか、私と一緒に走り出す。

「何事だ! 私の屋敷が! この甲冑は! なんだ! 衛兵! 衛兵ー! 盗人だ! 出てこい! 早く!」

背後で何度も、何度も金属音が鳴り響く。

壁の内側の階段を登り、飛び降りる。

私たちは逃げた。逃げて、走って、町外れの木の下までたどり着いて、ようやく私たちは地面にへたり込んだ。


「はぁ……はぁ……この辺りまでくれば、大丈夫かな」

「今晩くらいは、隠れていなければならないかもしれません」

私はエレナの足が露出していることに気づく。真紅のドレスは、膝のあたりでばっさりと敗れていた。

「エレナ、足……」

「スカートが窓枠のガラスに引っかかったみたいです。ヒールも、壊れてしまいました」

「怪我はない?」

「はい……大丈夫です」

破れたドレスに、壊れた靴。その姿は人形というより、おてんばな少女のよう。

「エレナ、似合ってる」

「はい……? ドレスも靴も、ボロボロですけど」

「ちゃんと着飾った貴方も綺麗だけどね。私は、今のほうが好き」

「もう……」

自然に見つめ合う形になり、どちらからともなく、私たちはキスを交わす。

「ん……」

「エレナ、かわいい」

「……ローズだって」

「ありがとう」

「きゃっ」

彼女の体を抱え込んで、私はそのまま倒れこんだ。

「ローズ。これから、どうしようか」

「どうすればいいのでしょう」

「私もわからない。考えてなかったし」

そっと、エレナを後ろから抱きしめる。

エレナの身柄のこと、壊したお屋敷のこと、ヴラドのこと、師匠の立場にこれからの生活、考えなければならないことはたくさんあった。

でも、今だけは。

「でも、もう二度と離さないのは確定かな」

「……はい」

もう少し、この夜空の下で、彼女に寄り添っていたかった。


- 17 -


「人形技師のローズ。彼女に用がある。いるんだろう。出したまえ」

「だから、彼女はもう家には……」

「入らせてもらうぞ」

「ちょっと……まあ、好きにしてください。ローズなら、いませんからね」


不肖の弟子が騒ぎを起こして数日後。

もし彼女が私のところに現れたのなら、匿ってやろうと考えていたが、彼女は現れなかった。

心を持つという自動人形――いや、エレナという彼女のパートナーと、どこかに消えてしまった。

「本当にローズはいないのかね」

「いないと言ってるでしょう。不肖の弟子がご迷惑をかけて申し訳ありませんが」

「ぬう、芸術の神よ、この私めにさらなる試練をお与えになるのですか」

私はため息をつく。

この変わり者の富豪が私の元を尋ねてきた理由は明白だった。

もし、彼女が引き起こした損害を私が賠償することになったら、どうだろう。

(その時は、私も夜逃げかね)

割と冗談ではない思考だった。

「いない……いない……」

「卿、さすがに戸棚と戸棚の間に人は入らんでしょう」

「ぐぬぬぬ……」

これだけ血眼になっていると、いずこかに消えた不肖の弟子が心配になる。

まったく、面倒な置き土産を用意してくれたものだけど。

「卿……差し出がましいようですが、あの人形についてはもうお諦めになったほうがよろしいのでは?」

「諦めるだと? ん……人形……? 人形。技師よ、あれは人形なのか」

「ええ……人形ではありますね」

心を持った人形。人と変わらない存在。私はついに会うことはなかったが、それを人形と規定していいのかは判断が難しい。

「なるほど。ではお茶汲みしかできぬひ弱な人形と、同じ原理で動いているのか」

「私も、現物を見たわけでは……」

「素晴らしい! あの重みを支え、自ら動くというのか。女子の人形とは比べものにならぬ重さであろうに」

「ん……?」

何かが噛み合っていない気がする。エレナという人形は、それほどまでに重量があるのだろうか?

「ますますあの人形が欲しくなったぞ。ローズを見つけ出さねばならぬ」

「欲しくなった、ですか。もともとは卿のものなのでは」

「む? それは私のものも同然という意味か? 私を愚弄しないでくれたまえ。相手が盗人であろうと、盗んだ美術品を私は誇らぬ」

何を言っているのかわからない。大切な人形を失って、気が狂ってしまわれてのだろうか。もともと狂っている部分はある御仁ではあったが。

「しかし、あの夜のことは鮮明に覚えている。私は何度も剣を打ち付けた。しかし、かれの鋼の身体は、決してその刃を通さなかった」

「鋼の身体?」

「二十、三十と打ち付けるうちに、ついに私の剣は折れた。すると、なんということだろう。かれの身体には傷一つなかった」

まさか、私は大変な思い違いをしているのではないだろうか?

「それでいて、私など軽くひねりあげることのできる巨躯を有しながら、かれは私に手を出そうとしなかった。それどころか疲労困憊しへたり込んだ私を、介抱しようとしたのだ」

「あの、卿の話されている人形というのは」

「騎士道! そうだ、泰平の世に生まれ、我々貴族が忘れていたものを、かれは確かに持っていた。人形でありながらだ」

これは間違いない。彼が話しているのは、ヴラドのことだ。

「決して傷つかぬ鋼の肉体、主君のために常に挺身し、守りに入れば不動、煌びやかな甲冑こそ纏わずとも洗練された美しさ。至高の芸術品だ。すべては運命、私はかれを手に入れる運命にある」

おそらくあの夜の出来事が、彼の中に独りよがりなドラマを作り出してしまったのだろう。

「美術品そのものだけではない。それを手に入れるまでの道筋こそ本懐。かの騎士は私の主君はローズだと答えた。だから私はあのローズという技師になんとしても会い、かれを譲り受けねばならぬ」

「うちの不肖の弟子と、人形の少女を許していただけるので?」

「毀れた人形か? 今はどうでもよい。 あの夜はあやうく過ちを犯すところであった。少し頭に血が上っておった故」

これは、ひょっとすると、事態が丸く収まるかもしれない。

「とにかく、ローズとかいうあの人形技師に連絡をつけよ! そうだ、それができた暁には、かの騎士を調律する誉れを貴公に与えても良いぞ」

「いえ、私は……」

「とにかくローズ! ローズを出したまえ!」

「だからいないんですよ、ここには」

あの弟子のことだ、きっとそのうち、私にこっそりと連絡をよこすだろうけど……

彼らを探したてる卿を想像して、おそらく必死に逃げ回っているであろう二人を想像して、私は苦笑した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 繊細で綺麗な物語でした! 面白いです 二人のそのあとなども気になります
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