きみのきずあと
――Nに捧げる。
柔らかな薫風が頬を撫ぜるとき決まって静子が「涼しいね」と僕の耳朶に新たな空気を投げかける。丸い君の頬にも僕と同じ薫風が投げかけられると覚って嬉しくなる。僕は「そうだね」と言って君の顔を覗き込む。静子は莞爾として破顔する。正直に言うと君のその顔が綺麗すぎて困るのだ。美しいのだ。
都会のビル街に流されて僕達二人はたどたどしく歩く。前から夥しいほどの人波が押し寄せて僕達の歩行を邪魔する。僕達の純情を剥ぎ取るような残酷なその波はただひたすら君を攻撃する。静子の肉体は幼児のように小さくて僕の身長より数センチほど低い。無邪気に笑う君の顔は少し強張っていて明らかにこの侵襲的な集団にいることを我慢しているのが見て取れる。
外や他者というものが嫌いな静子はそれだけで気分が悪くなるみたいで、ジュースを一緒に飲んだり歩行スピードを緩めたりしながらところどころ休憩して目標もなく僕たちは歩いていく。僕は申し訳ないと思っているけれどその内実君とのデートにわくわくしていて興奮で足が宙に浮きあがっていた。本当にひどい男のふわふわの足は少し早く動いてしまって、君に「少し早いわ。ゆっくり歩きましょ?」と提案させてしまう。「ごめんね」僕は謝る。緩やかな静子の歩幅を合わせて君の腕を握る。手が交わされ、君の掌が僕のに触れて僕はまた急ぎ足になってしまうのだった。
「足が痛くなっちゃった。そこのベンチに座らない?」
「いいよ。早く歩いちゃってごめんね」
「ううん」
オレンジ色の砂を踏んで僕たちは公園に来た。褐色のベンチに座る。空が青く晴れ渡っている。雲はあいかわらず白い。公園は果てもなく広いくせに君はぽつんと小さい。その対比がなんだか僕には儚く見えた。そしてうっとりと僕は君の姿に見惚れていた。ただ、僕達二人の視線は彼方に消えている。
「遠くのジャングルジムが日射病になってるよ。触ると熱いのかなあ」僕は指さした。
「ほんとだね。陽炎が射してるね。熱いだろうね」
「熱いね」「熱い」
会話が途切れる。首筋にたらっと汗が流れる。汗の粒が垂れてくるのがわかる。静寂はそこにはない。セミの鳴き声が耳鳴りのように反響する。ミィイイイイイン、ミィイイイイイン。
汗をたらりと垂らした不快感は僕の胸を締めてくる。何か話題はないかなと思ってあちこち目線を拡散させる。水飲み場が設置されている。灰色の土台に水が流れている。誰かが飲んでいたのだろうか。この暑さなら仕方ない。真夏の昼のこの熱波は燦々と降り注ぐ。僕は大丈夫だけど病弱な君に日光が当るのは嫌だ。日傘でももってくればよかったな。そう後悔しているうちに網膜に遠くの屋台が映った。
「ねえ、君はソフトクリームが好きかい?」僕が尋ねると「うん」と君が答える。
「じゃあ、買ってくるね。あそこに見えるのは多分ソフトクリーム屋だ」
僕が腰を上げたときに、君は腕を強く握り、首を横に振る。「離れちゃ嫌だ」
そのときの君は憤懣と寂しさが混ざった感情だったのだろう。ふっくらと膨らませる頬はゴムのような感触だと思う。「ねえ、一人にしないで」と嘆願する君もまた可愛い。「ねえ」
君の顔をじっくり見る。「じゃあ、一緒に行く?」
「うん!」君は嬉しそうに微笑んだ。
僕たちは手をつなぎ屋台を並ぶ。この暑さのせいかソフトクリーム屋は繁盛していて、十人ばかりの行列ができていた。不思議なことに行列に並ぶと夏の熱さは感じず、ひんやりとした空気が肌に触れた。ドライアイスからくる冷たさだろうか? この冷気を浴びて君は少し元気が出たようだった。
「何味が好き?」
「バニラかな」
「うん。おいしいよね。バニラ」他愛もない話ができるのもこの一時的な涼しさのおかげだった。
が、そのとき一颯の風が吹いてきた。そしてその風と共にその冷気が逃げていったのだった。いや錯覚なのかもしれない。風ひとつで冷気が飛んでいくわけがない。しかし事実として先ほどまでの肌の感触とは違う。――待ってくれ。この灼熱の地の救いとなる冷気よ。失われないでくれ。もう一度静子の防禦壁となってくれないか!
僕の願いは無碍となったらしく、もはや行列は暑さで地獄となっている。あと数人で辿りつく。もう少しだ。僕が遠くのポプラの木を見ているときに、君が「直、君は直だよね。直はどこにもいかないよね」と呟いた。静子のいつもの発作だろうか。君はブルブル震えている。寒いわけではない。そういう発作なのだ。
「僕は直だ。心配しないで。僕はここにいるよ」僕は静子に語りかけるように囁いた。
「直。直。直……っ」静子は嗚咽し咳き込んだ。
「僕はここにいるから。ね?」
そう言うと君は僕を見る。震顫が収まっていくのが手を通してわかる。僕は静子の静かな眼を凝っと見つめる。吸いこまれそうな黒瞳の底の底が見える。網膜の反射の彼方。
「うん。よかった。一瞬君が失われたの。世界で私が一人だけになったようになったの」僅かに漲る君の視線は自分の腕の白い膚に向いている。発作を自覚しているようで、なんだか罪滅ぼしのような雰囲気を出している。僕はちっとも気に病んでいない。杞憂だ。
「ううん。きっとあの人混みで疲れたんだよ。一緒にソフトクリームを食べよ?」
「うん。直と食べる。私は直と一緒に食べる。その前にクスリ飲む」
と言って君は鞄から白い錠剤を取り出して嚥下する。ふわふわと君は悦楽している。それほど効果が強いのだろう。円らかな粉は胃に落ちたのか。静子は呼吸音を取り出して、もの問いたげに僕を見る。
すこしばかり沈黙があって「キスしようよ」と君ははっきりとこう言った。それは氷のように冷たく少し怖かった。けれどすぐに夏の温気がそれを溶かした。君から憂いの気流が起きている。
「ソフトクリーム食べないの?」
「いらないや。直とキスがしたい」
「わかった」
すぐに行列から抜け出て、公園の木陰に身を隠した。そして対顔する。
心臓のはためきは止まらない。これはマグマの鼓動だ。ドクドクと命を輝かせている。多分静子も同じなんだと思う。こういうとき抱きしめたくなる。ぎゅっと抱擁して二度と離したくないって思う。身体の波音が静子の躯体からも聞こえて、僕の心臓音と重なってそれは生命のワルツになって二人だけの思い出となる。君の喉の喘鳴はキュッと言う。とこしえの音楽を孕んで僕たちはいつまでも抱き合っていたいという欲求に満たされている。透き通る泉水が溪で流れるような気持ちで、それは快楽とは違う心地よさなんだけど、それが僕達の心を繋げている。静子の精神的な羊水が沁みている。僕は幼児になって君に甘えてしまう。赤ちゃんになって君を母親とし、全能感を味わうのだ。世界との一致。一対のうねり。躊躇いもなく君に口づけをする。柔らかい口唇だ。そのときは音楽は止んでただ静謐に充満される。個が失われて世界との結合が感じられるのだった。
リズミカルに柔らかい唇がくっついたり離れたりする。言葉は咥内に沈みこみ、絹のごとく皮膚の擦れる微かな音と感触に溺れる。軽い眩暈の羅列。木々が揺れ、陽光が差し込む。目を潰すごとくその光は激しく網膜を撃つ。今度は目を瞑って口づけを交わす。
「まるでフランス映画みたい」君がちぎれちぎれに喋る。
「そうなの?」
「わかんない。ふふっ。そんなイメージだったの」
盲目の視界から聴こえる君の透き通る少しばかり高すぎる声は僕の鼓膜を過ぎていく。地の不確かさを感じて一種の解放感を抱く。飛翔、そんな感じだ。口の隙間から響いたものは僕の声。「好きだ」幾度、幾度も言う言葉「好きだ」。息を弾ませて「好きだ」と言った。
「嫌いよ」
「嫌い?」
「あなたなんて嫌い。この気持ちわかって。こころの深層にはふたつの気持ちが合わさってるの」
静子は苛立った様子で身体を翻した。僕から離れていく。凛々たる誇りを持つ女性の君。実像と虚像のように君は突如分かれてしまう。意地悪な君。ピュアな君。前後不同の存在。君は言葉を滾らせる。小刻みに震える君の身体。僕は追いかける。「来ないで!」
君は、静子は叫んだ。その音はサイレンのように耳の中で渦巻いた。「今来られたら私は君が嫌いになるから。お願いわかって……」そう言いながら君は急に駆けていく。僕はまるで静子の影に縫われるように一歩も動けなかった。遠くの視界に君は映る。だけどだんだん見えなくなる。陽炎に吸い込まれていくようにただいなくなった。僕に着いていた君の影は君についていく。どこまでも失われる。脳の中からも消失するように君はいなくなった。あれだけ広い公園には僕一人だけになった。
セミの声がうるさい。
静子に会ったのは数か月前。静子から告白してきた。「直が好きだったの。ずっと前から」。
大学四年生の僕は恥ずかしながらいままで彼女と言うものがいなかった。22年間という期間、僕は一人だったのだ。家族や親戚はいる。親友といえる友達も数人だが確かに存在している。けれどそれはなんだろうか……対「人間」では無かった気がするのだ。なんだかわからない。輪郭も曖昧な概念だ。ただぼんやりとしていた人間関係だったのかもしれない。とりわけ能弁でもなく、他人と付き合うことが苦手な僕だったため、僕の方から「人間」と対峙することはなかったのだと思う。
彼女は25歳。今は働いていない。家にずっといる。家事をしていると言ってもいい。僕は静子に告白されるまで静子のことを知らなかった。初対面だったのだ。そのとき突如告白があったわけだが、彼女は同じアパートに住んでいるらしく、その関連で僕のことを見知ったのだろう。彼女に聞くと実際何回か会っているらしいのだが、僕には記憶がなかった。そのことを僕は恥じた。
静子は僕が好きと言ってくれた初めての女性だ。彼女にはただひとつの大きな特徴が述べられるだろう。それはその性格だ。不安定な君の性格である。僕はそれを「ビョウキ」だとは言いたくない。少し変わった女の子と形容しよう。僕はこの性格に無力だ。彼女は充分潤うことがないのだろう。僕は単に静子の性格を「ヤンデレ」と呼んでいる。必ず彼女はデレる。どれだけ怒っていても避けていても逃げていても、それはひとつの帰結に落ち付くのだ。ある種ではその意味で安定していると言ってもいいのだろう。だから「ビョウキ」でもなんでもないし、普通の恋人の痴話喧嘩とでも思っていればいいのだ。抑圧すればいいのだ。
白皙の君の腕には数十本の横線が入っている。それは一般的にグロテスクと形容すべきものなんだろうけど、僕はそれが愛しいものに思えるのだ。幾筋が手首に奔っていてそれがなんだか神話じみたものを感じるのだ。神秘。奇跡。ただそれが君を物語っていることはわかる。その聖なる傷跡を人々はしばしば「リストカット」の傷と言うのだ。深海の溝みたいな傷たちを撫でると君はすぐ「気持ち悪いでしょ」と言う。僕はそれが悲しい。こんなに綺麗に刻んでいるのに、麗しい時を刻んでいるのに、僕はそこが好きなのに、と。死と蘇生の傷。「痛みなんてすぐに忘れるの」「痛いのに、気持ちよくなるっていうか」「癖なの」という。今はだいぶましになったけど、ときたま家に行くと血を流して倒れていることもあって、僕は少しばかり疲れる。鮮やかな血の色がどろりと耀く。それに眼疾の如く眩む。すぐに救急車を呼んで君の静脈を縫ってもらう。また新しい聖痕が生まれた。彼女の生涯残る傷跡だ。僕はそれを好きでいる。それでいいと思う。彼女と同じくらい愛でたいのだ。
彼女には仲が良い男性がいる。モデルのような格好で、顔もイケメンだ。身長だって僕の十数センチも高い。すらっとしていて服飾のセンスも良い。彼の名前はわからない。けれど気が付くと彼が彼女の隣にいる。その光景を偶然見つけると君との関係が音もなく沙上の楼閣みたいに崩れていく。継ぎ接ぎだらけの僕の回路が切断されていく。仲の良いと書いたがそれは正しくないのかもしれない。彼は彼女の家族である。静子はいつも唱えている。「家族は家族よ。離れられないわ」と。僕は名も知らぬ男性に嫉妬するのだ。
ただひとつ文句があるのは、その男性はひ弱な君を守っているとは思えない。むしろ攻撃している。「あの人に殴られたの」「あの人に料理を作れって命令されたの」といつも呟いている。そして抑鬱に陥るのだ。その刹那僕は過度に狎れなれしいその男を憎くなる。本当に君から遠ざけたいのだ。けれど「家族だから」と言って君は言い訳する。家族ってそれほど大切なものだろうか。僕はわからなくなって一人上の空になる。何が僕を苦しめるのか。大切な人ひとりも守れない恋人は必要あるのだろうか。とぐるりぐるり脳味噌を廻して考える。
「ふぅ……」
ありふれた公園では小雨が降っている。あんなに光を放っていた太陽は薄暗い雲に隠れてしまった。すぐに止むだろうと思ってはいても髪や衣服に付着する水の塊りはただただ不快だ。当たり前だが水の匂いがする。鼻腔の底の底まで水の匂いが攻めてくる。薄い粘膜を絶えずにこそばしているのだ。ふう。口から吐息が洩れる。少し疲労が溜まった。たしか君は傘を持っていない。濡れていないだろうか。朦朧とした意識のまま僕は公園で一人でいる。泥となった砂場の砂は茶色い渦をいくつも作っては消えている。文字通りどろどろの砂は形を持たずに崩れていく。形骸――形態が失われていく。脳のなかの君の姿も失われていきそうだ……。遠退いていく形。思い出。泥のようにただ沈んでいった。君は、いま、いずこに!
どうして僕は君の腕を離してしまったのか。どうして君を追っかけなかったのか。「来ないで!」と言われて追いかけなかったのは怖かったからだろうか。君との関係が切れるのが怖かったからか。けれどあの場面で手を離すのは馬鹿だった。あのまま駆けて行って君を抱きしめたらよかったのだ。嫌がったって君を離すよりはいい。罪深いことをしたと思う。けれどその考えも結局は自己満足かもしれない。ただ君への想いが嵩となって膨らんでいく。氷の底に沈み続けていく心、まるで石の窪みに溜まっていく雨水のようだ。息が苦しい。
弱い濁流が溝を目指し幾つも叉を作り進んでいる。君を見失ってから僕の胸腔じゅうになんだか重い液体が流れ込んでくる。幾度も澱んだ意識のせり上がりを感じる。ひたすら頭が故障して物事を何も考えられない。狭まる思考の涯ての涯て。静子……。どこに行ったの……。遠くのビル街が廃墟にみえてくる。君がその廃墟に這入ってしまうのではないか、そして命を擲っているのではないか、と悪い想像が脳髄で渦巻いている。雨が身体を打ち付けている。涙すら出てこない。哀れ。どうしたら君を救えるのだろうか。救うこと自体、偽善でしかないのだろうか。遊具は驟雨に弾け、僕ただ一人だけが世界に残されたのだ。時間は三時を回った頃だろうか。
「なあ、あんた」
その時。突然声がかかって体がピクンとなった。「あんた、静子を知らないか」
その声は……。僕はその数瞬、心身共に緊張が走り、顔を見上げた。そこには「男性」がいた。
「あなたは……静子の……」途切れながらも訊いた。喉が痛かった。
「そうだ。静子と一緒に暮らしている者だ。なあ、静子を知らないか」その顔は水に濡れておらず、傘を差していた。そこに何かの境界を感じた。
「僕のことを知っているんですか」
「ああ。同じアパートに住んでいる人じゃなかったっけ。確か上の階の」
「そうですけど……」
「静子がいなくなったんだ。また例の病気のせいだろうけど」
その言葉を聴いて、僕は少し憤った。彼の言葉は尖っていた。明らかに人を傷つけるための言葉でしかなかった。言うまでもなく静子をである。
「どこにいるかわかるか?」
「僕は知りません。今日静子さんと会っていません」ふと嘘をついてみた。
「そうか。すまなかったな。……あんたは一体何をしてるんだ?」
「考え事です」僕はそう言った。それは確かに間違いではなかった。静子をいかにして守れるかを考えていたからだ。
「ふうん」どうでもいいような感じで彼が言った。妙に冷たい科白だと僕は感じた。
男は間髪も入れずに、「君と静子はどういう関係なんだ」と訊いてきた。その質問をしたいのは僕の方だ。お前は一体誰なんだ。家族と言っても限度があるだろう。彼女を守れずに何が家族だ。
「ただのお友達ですよ。たまにお話をする程度なんです。お互いに読書が好きなので」
「そうか。これからも静子をよろしく。彼女には友達が少ないからな。扱いは慎重にしろよ。静子はすぐにアレになるからな」男はなんだか毀れモノを触るような言い方だった。僕は本当に腹が立ったので、
「はい。気をつけます。僕も静子さんを探してきます。では」とすぐさま言った。
そしてそのまま僕は彼と別れた。いつまでも彼と会話しても仕方ないだろう。なにしろいつも彼女からきいている態度からでは僕の怒りを止めれそうになかったからだ。躊躇わずに彼をぶち撲る自信があったからだ。僕は早足で彼から離れる。窮屈で重苦しい時間だった。傘がないためちびちびと雨は体に当る。まるで先ほどの男性の言葉そのままのよう。さあ、これからどこに行こう?
昏れなずむ街は人並み遅く、低い陽が垂れていく。コバルトの空は失われ、薄く燃え上がる陽光はビル街を射している。僕はあのあと遠くまで来てしまった。静子を探すという名目でビル街に戻ってきたのだが、結局ただ目的もなく彷徨っていただけだった。その身姿はふらふらとした旅烏に似ていた。洩れる灯がビル街を桃色に染める。虚空には微かな輪郭の月も昇っている。半月だ。これから明瞭とした色と形を見せるだろう。その瞬間急速に周囲には闇が瀰漫される。枝ずれの音がどこからか聞こえる。建物のガラスに映る僕の恰好にはっきりした輪郭はなく、影だけの妖怪となってしまっている。
ツンとした整髪料の臭いがした。忙しそうに歩くサラリーマンの群れに揺られて僕は漂う。腕時計は五時半を差している。コンクリートが多量の革靴に踏まれた音が聞こえる。カツカツ……。コツコツ……。その路は黒っぽい。夕暮れの余韻は都会に殺されている。人々が吐き捨てたこの街の濃密な二酸化炭素を吸いながら僕は足を止める。
喬木が等間隔に植えられている。無数の枝が風で揺らめき、葉擦れの音楽がやまない。僕は交差点を渡る。臆病さに似た感覚が胸を占める。どうして僕は君を救えない? どうして君の腕を離したのだろう。皮膚感覚は遠のき、だんだんと世界から隔絶される僕の個体。足の神経は千切れたようにまったく動かない。都会の真ん中で立ちつくした僕にはこのまま君を迎えにいくことはできないだろう。今の僕には眩しいものは見えなくなってしまった。悲壮の現実が攻める。
サラリーマンは同じ顔をしている。皆同じ顔をしている。陰りを持ったその無個性の顔が僕とすれ違う。僕は動けない。止まっている。君は……どこ……? どこに……行ったの。ねえ。無防備の君は今何をしているのだろうか。けれどそれを見つける足が踏み出せない。
越えたい境界線をどうしたら越えられるのだろうか。いつも僕は思う。向上するためには経験値がいるのか。モンスターを倒さなければならないのか。日々のなかに現れる怪物なんて自分自身でしかないじゃないか。腐りかけた精神界の奥の底から湧きあがる不純の気持ち、収まりきれない欲望の塊り。僕は強くなりたい。見捨てたくない。僕自身と君を。いつから僕は僕との連絡が途絶えたのだろうか。僕はいつから潰れていたのだろうか。踏みとどまった先には後悔しか待っていないとでもいうのに。潜んだ嘘と苦い恍惚と。君を純粋に愛したいのに。どうして――。
――あ。僕の脳味噌に何かが起こった。弱まり続ける思考回路に突然、どこかの景色が映った。それは悲しい遊具の群れだった。陽炎が昇る砂地。屋台。そう、それは公園だった。
いまから公園に向かおう。そこに行くときっと静子に会えると、そう信じて。何が正しいのかわからないけれど、君を――君を救えるのは――ううん、救うんじゃない、君を共に歩く、そう、静子とともに並んで生きていきたい、そのために、僕は、いま、還るんだ、元いた場所に、君を迎えに行くんだ――そう思うととっくに棒になった足が軽くなった気がした。君を探して。
川を沿い来た道を歩き続けて、疲労困憊になってベンチに腰をかける。肌寒くなっていくにも関わらず胸の底が熱くなる。薄い雲が流れていくのが黒の隙間を媒介して見える。滲んだ夕焼けは見事に消えていた。時の流れを感じるように風が透き通っている。月は神々しい光が宿っている。静かに夜の帳が開いていく。なんだかこの神秘な景色は幼い頃に見た気がする。
遠くにソフトクリーム屋の屋台があった。僕はふらりと寄って「まだ売ってますか」と訊くと「売ってますよ」と店員は言った。僕は「じゃあバニラ味を二つ」と注文した。
ベンチに戻るとそこには怒っているように、けれど泣いているようにも見える静子がいた。頬を脹らませていた。白を基調としていたはずのワンピースをひらひらさせながら君はにこりとした。穹窿形の夜が光を飲み込んでいる。けれどそこには確かに静子の輪郭が見えていたのだった。臆病で強気な君の輪郭が。鉄骨のビルが怪物の影を作り、コンクリートに暗雲を垂れこめる。暗闇、暗澹に流れる溝は暗渠である。明日へ伸びるちっぽけな街灯はもはやチカチカ光って元気がない。薄黝い涙が流れている。
「ごめん。勝手に出ていって」
君は言った。静子の柔らかい匂いがした。
「ばか静子」
僕は気持ちが現れないように静かに言った。ちっさなプライドのせいだろうか。ほんとはもっと喜びを表したかった。できるなら君を抱き締めたかった。僕の声はほんの遠くまで撫でるように拡がっていった。それは日が暮れてからセミは唖になったようにだんまりになったからだ。静寂さが身に沁みる。無音。夜の風は涼しい。幼さの混じる感情を堰き止め、漲る力を自分の心に押しやる。囚われた君への辛身を飲み込む。月の輝きが美しい。澄んだ月光が降り注ぎ、漆の闇を払っている。
「心配したんだから」
僕は怒る気でいたのだが、その言葉はまるで出てこなかった。
「ごめん」
「僕の方が悪かったんだ。ごめん」
僕は静子の頭を抱き撫でてやった。暫くそうしていた。肌理の細かい髪の質が心地よい。よしよしと撫でるとき君は大人しくなる。まるで喉を擦る犬のようだ。君の顔を眺めた。唾を飲みこむ音が伝わる。あいかわらず君の肌は白い。
僕はそのまま一つの言葉を紡ぐ。
「静子、一緒にさ、歩いていこうよ。君が先に歩いたら急いで走っていく。僕が早く歩いちゃったら、待ってるから。僕は君が好きだ。君への想いに溢れているんだ」お互いに安堵していたのがわかった。
恍惚とするように君が僕に身体を預けた。「うん!」君ははっきり言った。「私は直が好き」
君の息遣いが直截に聞こえてくる。永遠に君の心が僕のそれと重なる気がした。さきほどまでの胸の欠如感がみるみるうちに充たされていく。傷は埋まる。「直が好き。私は君を愛してる」
まるで空気中の水分が凍結しているような光の粒子が宙空に舞っていた。そのさなか君の左手の指が光ったような気がした。「静子」「直」僕たちは互いの顔を見合った。夜は次第に色づいていく。もはや世界は暗闇ではない。
――ねえ、このあと二人でソフトクリームを食べよう。君の好きなバニラ味を買ったんだよ。一緒に食べよう。きっと美味しいよ。そのあと聖なるキスでもしよう。いつまでも好きな君へ。僕は直で、君は静子で、それでいいんだよね。別れてしまっても、また出会えればいいんだよ。喧嘩なんて仲直るためにあるんだよ。ふふ。ありがとう。大好きだよ。
僕はそう心の中で言った。ありがとう。ようやくわかったよ。悲しいことも宝物になるんだね。ひどく悲しくて泣いてしまうことだって、君の愛を感じたとき、それは僕の中の大きな愛になったんだ。それを大切に宝石箱にしまわなくちゃ。ねえ。僕はこれから君の傷跡を大切にするよ。わかったんだ。君の傷は思い出なんだ。大切なものなんだ。僕は君が好きで、君は僕が好き。ふふ。いつでも手を貸すさ。今度は一緒に駆けていこうよ。どこまでも二人で行こうよ。もう、君と別れてなんてやらないんだから。ねえ。ソフトクリームを食べよう。はやく君を抱きしめたいんだから。愛してる。大好き。