1. 雨の日に、息子が来た
私はミレット。王都で見合いの席を段取りして四年、三十七組をまとめた私の席で、三十八組目の縁談が、三分で終わった。
春の終わりの長雨が、茶房の軒を細かく叩いている。焙じた茶葉の匂いが、戸口を抜ける冷たい風に押され、雨の中へ流れていく。
「黙って睨んでいるだけの方と、一生なんて無理ですわ」
「お待ちください、まだお茶も――」
「結構ですわ」
奥の見合いの席から出てきた伯爵令嬢は、肩で揺れる金の巻き毛を払い、扇をぴしゃりと閉じた。
茶はまだ、湯気を立てている。手つかずのお菓子が、向かい合う席の間に取り残されている。
「お好きなお菓子も、お話のきっかけにと取り寄せました。せめて、ひと口だけでも……」
「わたくしが会いに来たのは、お菓子ではありませんわ!」
令嬢は馬車へ乗り込み、水をはねて去っていく。跳ねた泥水が、私の靴先に散った。
見上げるほど大きな騎士が、戸口の梁に頭をかがめて出てくる。雨粒が、短く刈った黒髪に落ちた。
王都騎士団の騎士、アドラン様。これで縁談を断られるのは十二回目だと、先方の家から聞いている。
「申し訳ありません。私の段取りが、至らず」
アドラン様は頭を下げる。私が慌てて腰を折るより先に、深く。
「段取りは、完璧でした。悪いのは、私の顔です」
「お顔は、悪くありません!」
「子どもが泣きます」
「……実際に、泣かれたのですか?」
「……騎士団の見学に来る子が、毎年」
私が言葉を探すうちに、アドラン様は雨の通りへ出ていく。傘も持たず遠ざかる大きな背中へ、掛ける言葉が追いつかなかった。
叔父の迎えはまだ来ない。私は麦わら色の冠編みに落ちた雨粒を払った。
そのとき、小さな手が私の裾をくいと引く。
ずぶ濡れの男の子が、若葉色の目で見上げていた。黒い巻き毛から、水が滴る。
「あれ? ひとり? 困ったわね……。まずはこれを掛けましょうね」
私はショールを外し、子の肩へ回した。布の下で小さな肩が震え、その震えが私の指にまで伝わってくる。
「お母さん。お父さん、あそこ!」
指の先には、通りを渡る大きな背中があった。
「え……?」
「あぁ、行っちゃうぅ!」
男の子はショールの端を引きずり、雨の中へ駆けていく。
「お父さん! だっこ」
子どもが泣くと言ったその顔へ、小さな子が、自分から両手を伸ばしている。
アドラン様は足を止めた。一体何がどうなっているのかと、私まで息を詰める。
子供の雨で寝たつむじの一房だけが、ぴょんと起きた。
アドラン様は、濡れた石畳にためらいもなく膝をつく。抱くより先に小さな靴を脱がせ、中の水をあけた。
「……足を、拭きます」
「うん。お父さん、つめたいの」
「……すぐ、温まります」
外套の裏が、小さな足を包む。子を抱き上げた腕の隣へ、私もしゃがんだ。濡れた裾が、膝に冷たい。
「あのぅ……。どうやら私たちの息子……なんだそうです」
「……は?」
「お母さんと、お父さん。若い。ふふっ」
アドラン様の目が、私と子の間を落ち着きなく行き来する。
「……あなたの、お子さんですか?」
「私も今、そう呼ばれたところです。聞きたいことは山ほどありますが、まずは雨の当たらない所へ。小さな足が、また冷えてしまいます」
「お父さん、ちゃんとだっこ! 落とさないでね」
「……落としません。靴も、なくしません」
「とても頼もしいですね」
三人で軒下の端へ戻った。雨宿りの客たちは、反対の端で通りを眺めている。
アドラン様は客たちに背を向けて片膝をつき、外套の陰へ子を入れた。私もそこに屈むと、雨音の内側に小さな声がこもる。すぐそばで、小さな鼻息がする。
「僕はピピン。五つ」
「私はミレットです。ピピン、それを見せてもらえますか?」
小さな手が、手鏡を差し出す。銀の裏には麦の穂をくわえた小鳥と、『ピピンへ 父と母より』の彫りがあった。
縁の継ぎ目から、面へひびが一本。アドラン様が、彫りへ指をそっと寄せる。
「大切な物ですね。これは、どなたから?」
「お父さんとお母さんだよ。ぼくの鏡なの」
アドラン様の指は、紋の前で止まる。大きな指先が、小鳥の手前でわずかに揺れた。
「……母の家の紋です。今は、私しか使っていない」
「お母様の、ですか?」
「……はい。私がまだ、子どもの頃に」
「鏡にね、お父さんとお母さんが会った日に行きたいって言ったの。そしたら、割れちゃった」
私は子の若葉色の目と、騎士のつむじで跳ねる黒い髪を見比べる。子の目の色は、私と同じだ。
「ピピンのお父さんとお母さんのこと、もう少し教えてくれますか?」
「うん! お父さんはね、毎朝、ぼくのお皿にいっぱいのせてくれるの」
ピピンが胸を張る。ずれかけた外套を、大きな手がすかさず引き上げる。
「お父さんの卵焼き、甘いの」
「……甘くありません」
「甘いよ! お砂糖、三つ」
アドラン様の耳が赤くなった。への字の口がほどけかけ、すぐに結ばれる。
「三つ、ですか?」
「……二つです」
「みっつだよ! ぼく、見てたもん」
アドラン様は黙って、子の濡れた巻き毛を外套の端で拭いた。その手つきだけは、少しも慌てていない。
「お母さんは、考えるとき、耳たぶ引っぱるの」
私の指は、もうそこをつまんでいる。慌てて離しても、今さら取り繕いようがない。
段取りの仕事で、作り笑いも嘘の顔も、百は見てきた。この子の顔は、そのどれとも違う。
「……寒いですか?」
「くしゅっ」
アドラン様が、子を外套でくるみ直した。鏡もその内側へ収まる。
「この子の話を、どうか最後まで聞いていただけますか?」
「……はい。今は、この子を温めます」
「ありがとうございます。お話は、温まってからにしましょうね」
馬車が軒の前に止まる。窓から、白髪まじりの栗色を撫でつけた赤ら顔がのぞいた。
叔父のオーベールだ。雨合羽の御者が、扉を開ける。
「待たせたな、ミレット。……何だ、その子どもは?」
「ピピンだよ! お母さんの子!」
叔父の水色の目が、子を抱く騎士で止まった。雨宿りの客たちも、こちらへ顔を向ける。
「ああ、今日断られた騎士殿か。これで十二回目だそうだな」
叔父が金の懐中時計の蓋を、ぱちんと鳴らす。
「濡れた子どもなど、番兵に預けろ。お前のためを思って言っている」
私はアドラン様の手を見た。子を抱いた腕の下に、靴がある。
十二回断られたその大きな手は、小さな濡れた靴を、まだ大事そうに持っていた。
私に運命の出会いなんて来ないものだと決めていたのに。
今、小さな幸せの天使が下りてきている。
自然と言葉が浮かんできた。
「では私が、あなたに求婚します」
「なっ――」
「……は」
喉の奥が熱い。この人から目をそらしたら、この言葉まで引っ込んでしまいそうだ。雨音に紛れないよう、息を吸う。
「結婚して……ください」
叔父が馬車から身を乗り出した。御者も客も、動きを止めてこちらを見ている。
「何を言ってる! お前の縁談は、私が決めることだ!」
「運命が舞い降りました。私が申し込んでおります。お返事は、アドラン様から伺います」
アドラン様が、ゆっくり口を開く。抱いたピピンを下ろさず、靴も放さない。
「順番が違います」
「息子が先に来ましたので、順番など最初から違います」
「許さんぞ、ミレット!」
「おじさん、こわいかお!」
「だ、誰がおじさんだ! 私は――」
客が口元を押さえ、御者は馬車へ差し出した手を引っ込めた。私は馬車へ向かわず、騎士の前にいる。私を乗せるはずの馬車が、ひどく遠くに見える。
目の前で、への字の口がほどけかけ、また結ばれる。耳から首まで、赤く染まった。
息子はいる。夫は、まだ私に恋をしていない。
「まずは、私を知ってください」




