真夜中のジャズ葬と、歌えない魔女
第一話 沈黙の音、あるいは青いトランペット
ニューオーリンズの夜は、いつも湿ったベルベットの肌触りがする。ミシシッピ川から這い上がってきた霧がガス灯の淡い光をにじませ、フレンチ・クォーターの歴史あるテラスの鉄細工に真珠のような雫を結ばせていた。
本来なら、この街の夜は音の洪水に満たされているはずだった。どの路地からも、擦り切れたトロンボーンの咆哮や、跳ねるようなピアノのラグタイム、そして魂を震わせるブルースの歌声が溢れ出し、生者と死者の境界をステップで踏み鳴らす――それが、この音楽の街の日常だった。
だが、今のフレンチ・クォーターは、まるでガラス瓶の中に閉じ込められたように静まり返っていた。
「……また、消えてる」
コレットは石畳の路地に立ち止まり、胸の前に抱えた古い楽譜をきつく握りしめた。音楽学校の帰り道、いつもなら耳が痛くなるほど鳴り響いていたストリート・ミュージシャンたちの姿が、ここ一ヶ月で目に見えて減っていた。それだけではない。残された人々が奏でる音からも、色彩が失われていた。
そして何より、コレット自身もまた、その「沈黙」の犠牲者だった。
名門ルイジアナ音楽院の声楽科に通う十七歳のコレットは、かつて「天使の喉を持つ」と称された。だが、半年前のある日を境に、人前で声を出すことができなくなった。楽譜を開き、息を吸い込み、喉を震わせようとしても、そこから出てくるのは掠れた風の音だけ。ドクターも、学校の教授たちも、口を揃えて「精神的なものだ」と言った。焦れば焦るほど喉の結び目は固くなり、今では、誰もいない部屋でしか一音さえ紡げなくなっていた。
「歌えない魔女」――いつしか、学校の同級生たちは、陰でコレットをそう呼ぶようになった。ルイジアナの伝統的なヴードゥーの血を引く祖母を持ち、かつては歌で人の心を操るようだと言われた少女への、皮肉を込めた渾名だった。
けれど、その呼び名は、まったく根拠のないものでもなかった。
祖母の家には昔から、「歌には、人の記憶や感情に触れる力が宿る」と伝えられていた。祖母はそれを魔法とは呼ばなかったが、幼いころのコレットは、彼女の歌を聞いた人が泣いたり、忘れていた昔のことを思い出したりするのを何度も見ていた。
そしてコレット自身にも、ごく稀に、歌った旋律に、人の感情が光のように重なって見えることがあった。
「私の音楽は、どこへ行ってしまったんだろう」
コレットは溜息をつき、錆びついた鉄格子の門をくぐって、家路を急ごうとした。その時だった。
冷たい風が、路地の奥から吹き抜けた。それはただの風ではなかった。霧の粒子が不自然に震え、耳の奥で、奇妙な周波数の音が鳴り響いた。
――ズズ、チャ、ズズ、チャ。
それは、重く、引きずるような足音。いや、ドラムのビートだ。スネアドラムの響きが、路地の壁に反響して近づいてくる。だが、その音は驚くほど奇妙だった。音量は確かに大きいのに、まるで何マイルも離れた水底から響いてくるようにこもって、歪んでいた。
コレットは足を止めた。霧の向こうからぼんやりとした光の列が現れる。
それは、パレードだった。
ニューオーリンズの伝統的な葬送行進――ジャズ葬。死者を墓地へと送り出す前半の厳かな行進。だが、そこにいる面々は、およそこの世のものとは思えなかった。
先頭を行くのは、タキシードを着た男たち。だが、彼らの顔には肉がなく、白い骨がむき出しになっていた。彼らが手にするトロンボーンやサックス、スーザフォンは、どれも銀色に鈍く光り、管の隙間から青い鬼火のような煙を吐き出している。
彼らの後ろに続く踊り手たちも同様だった。1920年代のフラッパードレスを着た女性、南北戦争時代の軍服を着た男、誰もが透き通った身体を揺らし、ステップを踏んでいる。
「幽霊……?」
コレットは息を呑み、物陰に身を潜めた。恐怖よりも、その異様さに圧倒されていた。彼らが演奏している曲は、コレットがよく知る聖者の行進でもなければ、有名な賛美歌でもなかった。それは、ひどく美しく、同時にひどく悲しい、聞いたこともないメロディだった。旋律の端々から、未練や、愛や、捨てきれない記憶の断片が、物理的な光の粒となってこぼれ落ち、路地の石畳に吸い込まれていく。
「おい、そこ。突っ立ってると、死者の列に巻き込まれるよ」
突然、すぐ近くから声がした。
驚いて振り返ると、パレードの列の少し外側、ガス灯の柱に背中を預けている少女がいた。
彼女はコレットと同じくらいの年齢に見えた。赤茶色の髪を短く刈り込み、色褪せたチェックのシャツに、泥のついたオーバーオールを着ている。その手には、一本のトランペットが握られていた。驚くべきことに、そのトランペットは金属製ではなく、まるで夜空を切り取ったかのような、深い藍色のガラスのような物質でできていた。
「あなた、は……?」
「私はルゥ」
少女は不敵に笑み、トランペットをくるりと指で回した。
「見ての通り、この『真夜中のジャズ葬』の、しんがりを務めるトランペッターさ」
「死者の列……じゃあ、あなたも幽霊なの?」
「まさか。私はちゃんと生きてるし、飯も食う。ただ、ちょっとばかし『あっち側』の耳が良いだけさ。あんたもそうだろ? このパレードは、音楽の神様に嫌われた奴か、あるいは、音楽に魂を半分持っていかれた奴にしか見えないんだから」
ルゥはコレットの胸元にある楽譜に目を留め、ふんと鼻を鳴らした。
「音楽学校の優等生ってわけか。じゃあ、今この街で何が起きてるかも、なんとなく気づいてるんだろ?」
「街から……音が消えていってること?」
「そう。正確には、消されてるんだ」
ルゥはパレードの行く先、フレンチ・クォーターのさらに奥、ミシシッピ川の湾曲部に沿って広がる深い霧の方向を指差した。
「『沈黙の王』が、この街の『スウィング』を食い荒らしてる。人間の演奏から色を奪い、死者が残していった最後の歌まで、全部自分の胃袋に収めようとしてるのさ。このパレードは、奴に食われる前に、死者たちの『忘れた歌』を回収して、あの世へ送り届けるための最後の防衛線なんだよ」
「沈黙の王……」
コレットはその名を聞いた瞬間、喉の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。あの、歌を歌おうとした時に感じる、冷たい拒絶の感覚。
「私の声が、出なくなったのも……」
「さあね。でも、あいつの影に触れた演奏家は、みんな使い古しの雑巾みたいに音を絞り取られちまう。あんたのその喉も、案外、王様のコレクションの一部になってるかもな」
ルゥはトランペットを口元に寄せた。
「さて、お喋りは終わりだ。パレードが進んじまう。王様を止めないと、この街は完全に『無音の墓場』になる。あんたはどうする? 歌えない魔女のまま、ここで人知れず消えるのを待つかい?」
ルゥの言葉は挑発的だったが、その瞳は驚くほど澄んでいた。
コレットは自分の喉に手を当てた。声は出ない。だが、胸の中でかつてないほど激しく鼓動が脈打っていた。このまま静寂に飲み込まれるくらいなら、あの不気味で美しいパレードの先にあるものを見届けたい。
「……行く。私も連れて行って」
コレットの声はただの吐息だったが、ルゥには確かに届いたようだった。ルゥはニカッと白い歯を見せて笑った。
「いい返事だ。じゃあ、遅れるなよ。セカンド・ラインの基本は、足を止めないことだ!」
ルゥが青いトランペットを吹き鳴らした。その音は、高らかで、鋭く、まるで夜の闇を切り裂くナイフのようだった。その一音で、コレットの周囲の空気が一変した。二人は、幽霊たちの葬列の後を追い、深い霧の奥へと走り出した。
第二話 失われた歌を拾う夜
パレードは、通常の観光客が立ち入らないような、フレンチ・クォーターの裏寂れた路地を縫うように進んでいった。
不思議なことに、幽霊たちの足音が響いているはずなのに、沿道の民家の窓は一つも開かない。生きている人間たちには、この音も、彼らの姿も、完全に遮断されているようだった。
「ルゥ、このパレードは、どこへ向かっているの?」
コレットはルゥの隣を走りながら尋ねた。息が切れるが、不思議と身体は軽かった。
「ミシシッピ川の古いドックさ。あそこには、この街の何百年分もの記憶が泥と一緒に沈んでる。沈黙の王の根城も、その近くにあるはずだ」
ルゥは走りながらも、時折立ち止まり、青いトランペットを特定の場所へ向けて吹いた。閉ざされたジャズ・クラブの入り口、錆びついたストリートの標識、放置された古いピアノ。
ルゥが音を響かせると、それらの場所から、陽炎のような光の帯が立ち上り、ルゥのトランペットの中へと吸い込まれていった。
「それは、何をしているの?」
「死者たちの『忘れ物』を拾い集めてるのさ。人間は死ぬ時、すべての記憶を持っていくわけじゃない。特に音楽家は、最後に作ろうとして未完成だった曲とか、一度だけ即興で吹いて誰にも聞かせられなかったフレーズなんかを、街の隅に残していく。それが『忘れた歌』だ」
ルゥはトランペットのベル(朝顔部分)を愛おしそうに撫でた。
「この楽器はね、それを集めるためのタモ網みたいなもんさ。集めた歌を、パレードの演奏に混ぜて昇華させる。そうしないと、それらの歌は寂しさで腐って、悪霊になっちまうか、沈黙の王の格好の餌になっちまう」
「あなたはどうして、そんなことができるの?」
「私のじいちゃんが、昔この街で最高のブラスバンドを率いてたんだ。だけどある夜、すべての曲を忘れて死んじまった。じいちゃんが忘れちまった音楽が、この街のどこかに漂ってるはずだって、私は信じてる。それを探し出すために、私はこのトランペットを吹いてるんだ」
ルゥの言葉に、コレットは胸を突かれた。彼女もまた、失われたものを探していた。自分の声、自分を表現するための唯一の方法。
「私は……」
コレットは俯きながら言った。
「私は、歌うことが怖くなったの。私が歌うと、ときどき、人の感情が見えることがあったから。喜んでいる人も、退屈している人も、私を値踏みしている人も。ステージの上では、それが一度に押し寄せてきた。その恐怖で、息ができなくなって……それから、声が消えたわ」
ルゥは走りながら、コレットの顔を横目で見た。
「ふん。贅沢な悩みだね」
「えっ?」
「品定めされるのが怖い? そんなの、音が鳴らない絶望に比べたら、ただの贅沢病さ」
コレットは唇を噛んだ。
言い方があまりにも乱暴だった。
ルゥもそれに気づいたのか、少しだけ顔をしかめた。
「……悪い。死者の歌ばっかり聞いてると、生きてる奴には厳しくなるんだ」
それでも、コレットは何も言い返せなかった。
確かに、自分は傷つくことを恐れるあまり、音楽そのものから逃げていたのかもしれない。
その時、先頭を行く幽霊たちの演奏が、にわかに乱れた。
スーザフォンの重低音がいびつに歪み、スネアドラムのロールが、まるで恐怖に震えるように細切れになる。
「来たな」
ルゥが足を止め、トランペットを構えた。
前方の霧が、急速に黒く染まっていく。それは単なる闇ではなかった。光だけでなく、そこにあるあらゆる「気配」を消し去るような、絶対的な虚無の黒だった。
黒い霧の中から、それは現れた。
巨大な、影の塊。
それは人間の形を模しているようだったが、顔があるべき場所には、ぽっかりと大きな「穴」が開いていた。その穴は周囲の空気を吸い込むたびに、音という音を消し去るような、完全な無音を放射していた。 影の身体からは、何本もの真っ黒な触手が伸びており、それぞれの触手の先には、音符の形をした光が、まるでもがく虫のように囚われていた。
「あれが……沈黙の王」
コレットは恐怖で身をすくませた。王が放つ「静寂」の波動が周囲に広がるたびに、幽霊たちの身体が薄くなり、その演奏が、かすれたラジオのノイズのようになっていく。
『……オォ……オォ……』
王の顔の穴から、地響きのような、しかし音にならない「圧迫感」が響いた。
触手の一つが、パレードのトロンボーン奏者の幽霊に伸びる。触手が幽霊をかすめた瞬間、幽霊が持っていた楽器から色彩が失われ、灰となって崩れ落ちた。幽霊自身も、苦しげな表情を浮かべたまま、霧の中に霧散してしまった。
「あいつ、またパレードの歌を喰いやがった!」
ルゥが激昂し、青いトランペットを唇に当てた。
「おい、音楽学校! 私の後ろにいろ! とっておきのフレーズ、ここで使わせてもらうよ!」
ルゥが息を吹き込むと、青いトランペットから、文字通り「青い炎」のような光の旋律が放たれた。
それは、アップテンポで、激しくスウィングする、最高にゴージャスなジャズのフレーズだった。音の弾丸が沈黙の王の胸に命中し、黒い影を激しく揺るがす。王の身体から、囚われていた音符の光がいくつか弾け飛んだ。
『……ヌゥゥゥン!』
しかし、沈黙の王は怯まなかった。むしろ、ルゥの強力な音に引き寄せられるように、顔の穴を大きく広げた。
王の周囲の空間が歪み、強力な吸引力が発生する。ルゥが放った青い旋律が、曲がり、歪み、王の「穴」の中へと吸い込まれていく。
「くっ……! 吸い込みが強すぎる……!」
ルゥは頬を膨らませ、必死に吹き続けたが、音が吸い取られるにつれ、青いトランペットの輝きが次第に失われ、ただの濁ったガラスのようになっていく。ルゥの膝が、過酷なエネルギーの消耗にガクガクと震え始めた。
「ルゥ!」
コレットは叫ぼうとしたが、やはり声が出ない。
沈黙の王の触手が、今度はルゥを目がけて、容赦なく振り下ろされた。
第三話 真夜中のセカンド・ライン
「危ない!」
コレットは身体が勝手に動いていた。ルゥを突き飛ばし、自らが身代わりになるように前に出る。
激しい衝撃を覚悟した。しかし、触手はコレットの身体を突き抜けることはなかった。王の触手がコレットの胸元に触れた瞬間、コレットが抱えていた古い楽譜がバラバラと散らばり、その中の一枚のページが、眩い純白の光を放ったのだ。
「え……?」
コレットは、自分の胸元を見下ろした。
それは、コレットが祖母から譲り受けた、古いルイジアナの伝承歌の楽譜だった。
光は沈黙の王の触手を焼いた。
王は苦悶の声を上げる。それすらも音ではなく、無音の衝撃波となって周囲へ広がった。
そして、たまらず触手を引っ込めた。
「コレット……!」
床に倒れ込んだルゥが、驚きに目を見開いた。
「あんたのそれ……ただの楽譜じゃない。ヴードゥーの『守り唄』だ。この街の一番古い記憶の歌だよ」
その旋律を、コレットは知っていた。
幼いころ、雷の夜や熱を出した夜、祖母が必ず枕元で口ずさんでくれた歌だった。
――歌には、人を守る力がある。
散らばった楽譜の文字が、コレットの周囲で蛍のように浮遊し始めた。
その光に照らされて、コレットは直感した。沈黙の王は、単に音を憎んでいるのではない。彼は、人々が音楽に込めた「感情」や「記憶」の強さに飢えているのだ。そして、彼を倒す、あるいは満足させて還すためには、小手先の技術ではない、魂の底から湧き出る「本物の叫び」が必要なのだと。
ルゥは満身創痍の状態で、再びトランペットを構えようとした。だが、その腕は震えていた。
「クソッ、私の音じゃ、奴の腹を膨らませるだけの餌にしかならない……もっと、もっと根源的な、生きたエネルギーが足りない……!」
生きたエネルギー。
コレットは、自分の喉を触った。
ここに、それがある。人前で歌うのが怖い? 評価されるのが怖い?
怖い。それでも、このまま何もしなければ、この美しい街が、ルゥの音楽が、そして目の前で消えかけている幽霊たちの魂が、すべて無に帰ろうとしている。
(私は、何のために歌ってきたの?)
誰かに褒められるためじゃない。コンクールで金賞を取るためでもない。
祖母が言っていた。
歌は、人の心に触れる。
記憶を呼び起こし、悲しみを抱きしめ、ときには魂さえ送り出す。
それを魔法と呼ぶのなら――。
(私は、ずっと魔女だったんだ)
ただ、この街の風のように、川のように、そこに音楽があるから。
私は、自分の歌で誰かの心に触れたかった。
「……ルゥ」
コレットは、喉の結び目を無理やり引きちぎるようにして、深く息を吸い込んだ。
喉が、焼けるように熱い。血の味がするような気がした。それでも、彼女は構わなかった。
「私の……私の音を、拾って」
コレットはルゥに向かってそう告げた。声はまだ、掠れた囁きだった。だが、ルゥはその意図を瞬時に理解した。
「――乗っかったよ、音楽学校! あんたの声を、私が世界で一番でかい音にしてやる!」
ルゥがトランペットを構え、地を這うような低い、しかし確かなビートを刻み始めた。
それに呼応するように、生き残っていた幽霊のドラマーが、静かにスネアを叩き始める。
ズズ、チャ、ズズ、チャ。
ジャズ葬列の後半――「セカンド・ライン」の始まりの合図だ。
死者を墓に葬った後、残された生者たちが「さあ、悲しみは終わりだ。これからは生きていくぞ!」と、歓喜のステップを踏み、お祭り騒ぎへと変わる、あの瞬間。
コレットは目をつぶった。客席の目はどこにもない。ここにあるのは、夜と、霧と、音楽を愛する死者たちと、一人の泥だらけのトランペッターだけだ。
「あ……」
最初の音が出た。
それは、言葉ではなかった。ただの、長い、震える音節。
しかし、その一音には、コレットがこの半年間抱えてきた絶望、苦しみ、そして音楽への飢えが、すべて凝縮されていた。
コレットの口から飛び出した音は、濁った泥水のようでありながら、同時にダイヤモンドのような硬質な輝きを放っていた。
「――おおおお、お、おおお――!」
声が出た。
堰を切ったように、歌が溢れ出した。それは音楽学校で習った高雅なアリアではなかった。もっと古く、もっと泥臭い、ルイジアナの湿地帯から湧き上がってきたような、ブルースの、ヴードゥーの、魂の咆哮だった。
ルゥの青いトランペットが、コレットの歌声を完全に捉えた。
コレットが紡ぐ生きた歌声を、ルゥがトランペットの管内で何倍にも増幅し、夜空へと解き放つ。
その瞬間、二人の周りで信じられないことが起きた。
コレットの歌声とルゥの音が混ざり合った波動は、物理的な「黄金のパレード」となって、沈黙の王へと襲いかかったのだ。
『ガ……ァ、アアアァァ!』
沈黙の王は、その黄金の音の濁流に呑み込まれた。
王の「穴」が、音を吸い込もうとする。しかし、コレットの歌声は、吸い込んでも吸い込んでも、無限に湧き出てくる。生者の圧倒的な生命力と、死者たちの未練を昇華するジャズのエネルギーが、王の虚無を圧倒していった。
「もっとだ、コレット! セカンド・ラインは、踊り狂ってナンボだよ!」
ルゥが叫び、さらにテンポを上げた。
幽霊たちも、もはや消えかける恐怖を忘れ、狂ったように楽器を吹き鳴らし、ステップを踏んだ。トロンボーンが吠え、サックスが泣き、スネアが炸裂する。
コレットは笑っていた。歌いながら、涙が頬を伝っていたが、それは快感の涙だった。
これだ。これが私の求めていた音楽だ。誰のためでもない、私自身が音そのものになって、世界とダンスを踊る。
「――イェア、オゥ、セイント・ゴー・マーチング・イン――!」
コレットの歌声が、最高潮に達した。
その瞬間、沈黙の王の身体が、内側から放たれた無数の光の音符によって、風船のように膨らみ――そして、音を立てずに爆発した。
凄まじい光の波が、フレンチ・クォーターを駆け抜けた。
王の身体から解放された、数え切れないほどの「失われた歌」が、星屑のようになって夜空へと舞い上がっていく。
それは、街の歴史そのものが放つ、最も美しい花火のようだった。
最終話 そして、夜が明ける
気がつくと、コレットはミシシッピ川に面した、古い木造のドックにくずおれていた。
東の空が、うっすらと紫色の朝焼けに染まり始めている。川面からは白い朝霧が立ち上り、ガス灯の光はすでに消えかけていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
激しい疲労感があったが、喉の奥の、あの忌々しい結び目は、完全に消え去っていた。
コレットはそっと喉に手を当て、声を出してみる。
「……あ」
クリアな、鈴を転がすような、しかし以前よりもずっと深みの増した、自分の声がそこにあった。
「やったね、優等生」
隣で、ルゥがドックの縁に腰掛け、足をぶらぶらさせながら言った。彼女の持つ青いトランペットは、朝の光を浴びて本物の美しいサファイアガラスのように澄み切っていた。
「私の、声……」
「ああ、完璧に元通り、いや、前よりずっといい。あんた、最高のブルース・シンガーになれるよ。クラシックの学校なんて、やめちまいなよ」
「ふふ、それはどうかしら」
コレットは微笑み、ルゥの隣に腰掛けた。
周囲を見渡したが、あの賑やかだった幽霊たちの姿は、どこにもなかった。
「彼らは……みんな、行っちゃったの?」
「うん。王様が溜め込んでた『忘れた歌』も、みんなあるべき場所へ還った。彼らも、これで安心してあの世でスウィングできるさ。……あ」
ルゥが、自分のトランペットのベルを覗き込んだ。
その奥から、小さな、本当に小さな金色の光の粒が一つだけ、ぽつんと浮かび上がってきた。
その光の粒は、耳を澄ますと、とても優しく、どこか懐かしいトロンボーンのメロディを奏でていた。それはシンプルだが、この世のどんな名曲よりも温かいフレーズだった。
「じいちゃんの、歌……」
ルゥの瞳に、涙が溜まった。
光の粒はルゥの鼻先に優しく触れると、朝焼けの空へと溶けるように消えていった。
「見つかったんだね、ルゥ」
「……うん。ずっと探してたんだ。じいちゃん、私にこのフレーズを遺してくれてたんだ」
ルゥは袖で手早く涙を拭くと、立ち上がり、トランペットを背中に回した。
「さあ、夜が明ける。私たちのパレードは、これでおしまいだ」
「ねえ、ルゥ。また、あなたに会える?」
コレットの問いに、ルゥは悪戯っぽくウインクした。
「さあね。私は気まぐれだから。でも、あんたがまた退屈な優等生の歌を歌い出したり、音楽に魂を忘れそうになったりしたら、真夜中のセカンド・ラインが、あんたを迎えにいくかもよ」
ルゥはそう言い残すと、朝霧が立ち込めるストリートへと歩き出し、あっという間に、その姿は霧の向こうへ消えていった。
一人残されたコレットは、ゆっくりと立ち上がった。
遠く、フレンチ・クォーターのどこかから、朝一番のストリート・ミュージシャンが奏でる、軽快なサックスの音が聞こえてきた。街に「スウィング」が戻ってきたのだ。
コレットは深く息を吸い込んだ。
もう、何も怖くなかった。
彼女は朝日に向かって、新しく生まれ変わったその歌声を高らかに響かせた。
(終)




