魔女の試練
「君とは離縁するよ」
広々とした応接間に、所狭しと並んだ豪華な骨董品。その輝きに負けないくらい美しい男が、ララに向かって微笑みながら言い放った。
しかしその笑みには、ララを好きだと言ってくれていた時の無邪気さがない。こちらを見下し、不要なものを切り捨てる残酷さが滲んでいた。
「それがフランツの出した答え?」
ララは落胆を隠すことなく、フランツを見つめる。しかし彼は、もうララを見てもいなかった。隣に座る若い女性の腰を抱き、昔ララに向けていた表情を彼女に注いでいる。
彼女は伯爵家の令嬢で、ララが営む商会の顧客貴族だ。悲しげなララに優越感を覚えているのか、得意げな顔で口を開いた。
「ねえ、夫人。貴女、魔女なんですってね。人間の世界に紛れ込んで商売するなんて、恥ずかしくないの?」
「っ! どうして、それを……」
ララは青褪めながらフランツを見遣る。人間の社会に出る時、彼に自分が魔女であることは他言無用だと言ってあった。
それなのに彼は平然とした顔で、視線だけララに向ける。
「本当のことだろう。我々は男爵家。上位貴族に隠し立てすれば、この世界で生きてはいけない」
ララは絶望した──彼が心を移したことよりも、秘密を公にしたことに。
二人で暮らしていた小屋を出てから二年。彼はここまで変わってしまった。
暮らしていた森で死にかけの彼を拾い、そこで共に過ごした月日を想う。
魔女と人間。本来は交わることのない運命だった。
寿命も、価値観も違う。それでも、ララと同じ瞳の色の花を自ら育て、毎日それを贈りながら愛を囁き続けた彼に──ララはゆっくりと絆されてしまったのだ。
魔女の愛は深い。それゆえに、愛の育つ速度も遅い。
時間をかけて相手を理解し、長い生涯を共に生きる。
ララは彼を、確かに愛し始めていた。
けれど、この二年でその気持ちが少しずつ削り取られ、消えていったのも事実。
そして……最後の一片として残っていた情さえも、今、彼自らの手で粉々に打ち砕かれた。
机の上の離縁届けに署名したララは、目の前の二人を見ないまま立ち上がる。
この部屋から出ることしか、もう頭になかった。そして帰る──自分の故郷へ。
「……ララ? どこへ行く」
フランツの不満げな声にも、ララは振り向かなかった。
もう、彼を故郷へ連れて行こうという気持ちは微塵も残っていない。
応接間から出る時、一瞬、迷った。
彼がこれから辿るであろう悲惨な行く末を、最後に伝えるべきか否か。
けれど、もう……それは自分の役割ではない。
「……さようなら」
ララは振り返らずに、別れの挨拶を告げた──今まで共に過ごした中では、決して出したことのない冷ややかな声音で。
それを咎められる前に、バタンと扉を閉めた。
◇
フランツは扉が閉まった時に、言いようのない不安に襲われた。あんなに冷たいララを、初めて見たせいだろうか。
扉の向こうへ消えていく美しい黒髪が、なぜか脳裏に焼き付いて離れない。
追いかけるべきかと迷いながら視線を落とした先で、先ほどララが署名した離縁届けが目に入る。
その筆跡を見つめているうちに、フランツは自然と彼女との出会いからを思い返した。
——五年前。森の奥深くで、フランツは死にかけていた。
パーラー王国とドゥラテス王国の境に広がる危険な森。自国の王女との不貞が、その婚約者である隣国の皇子の逆鱗に触れ、奴隷として引き立てられる途中で逃げ出した際に迷い込んだのだ。
貴族籍を剥奪されたフランツが、何もできないまま痩せ細り、息も絶え絶えで倒れていたところをララに拾われた。
夜のように深い紺色の瞳が、彼女の故郷に生えている実に似ていたから気まぐれで助けたのだと、後で聞かされた。その気まぐれが自分の人生を変えるなど、当時は夢にも思わなかった。
ララは不思議な女だ。まず、欲というものがない。
魔女というものがそうなのかと、尋ねたことがある。しかし「どうかしら?」と首をかしげられれば、それ以上追求することと出来なかった。
耳が尖っていること以外は人と変わらないのに、こちらへの見返りなどは一切要求しない。のんびりと田畑を耕し、薬に必要だという草を潰す。
自国に戻れない事情を話せば、時間を見つけてはフランツに生きる術を教えてくれた。少しずつ覚えていけばいいと、フランツの覚えに合わせてくれる。その全てが心地良い。
無理のない生活は、フランツの意識を変えた。
貴族であった時は、いつでも腹の探り合い。食事の制限をして美貌を維持し、より良い女を引っ掛けた。それで絶望を味わってここに居る。
しかしそれがここへ行き着くための過程だったなら、これまでの人生も無駄じゃなかった──そう思えるほど、当時はララに懸想したのだ。
自国のドゥラテス王国に帰そうとするララに、側にいさせてほしいと愛を囁く日々。
想いを返してくれなくても、関係なかった。共に居てくれるだけで、嬉しさが溢れる。
これが真実の愛なのだと、フランツは熱烈にララを愛した。
そんなフランツに、彼女が「大事な話をしたい」と切り出したのは、拾われてから三年経った頃のこと。
その時に初めて、彼女の事情を話してくれた。
魔族と人間は本来相容れず、出会ったら人間の記憶を消して人里に戻すのが通例なのだという。
魔族は三百年生きるが、人間は五十年ほど。そのため魔族の長寿を利用しようとする人間から、彼らは身を隠して暮らしている。
そしてララ自身は十年任期でこの森に滞在しており、魔界にはない素材を集めて魔界へ送っているらしい。
その任期がもうすぐ終わる。だから共に魔界へ行くことを提案してくれたのだ。
もちろん、フランツは一にも二にもなく快諾した。これはララからフランツへの、愛の返事でもあったから。
その前に必要な素材を採るため、人間界へ紛れることになった。
疑われないようにララは高価な変装薬を使い、フランツと夫婦という設定でパーラー王国へ出向いた。
夫婦と言っても、魔界へ行かないと番えない。それも利用させるのを防ぐための決まりなのだという。
しかし名ばかりの関係でも、その時のフランツは満足だった。
ララのために自分に出来ることをする──そう意気込んでいたから、ララが国王を薬で助けた功績で叙爵されることになった時、貴族のことを彼女に教えられる未来に、やっと恩返しが出来るのだと喜んだ。
しかし、少しの間しかいない人間界で、地位などいらないと渋るララ。そこで国王は、爵位を固辞する彼女の代わりに夫のフランツに爵位を授けると言い出したのだ。
ララには辞退してほしいと言われたが、フランツは受けることにした。何故なら、恩返しといえど、ララに良いところを見せる機会だったから。
それに、もらえる領地を経営すれば、フランツ自身に給金が出る。ララの薬代ではなく、自ら稼いだ金で彼女に贈り物をしたかったのだ。
しかし、彼女は喜ばなかった。
良い宝石より、花。流行りの服より、薬草で汚れても良い服。共に過ごす時間が減ることを嫌がり、いつも悲しげな顔だ。
貴族との付き合いが戻ったことで、彼女の美徳だった欲のなさが、どんどんと物の価値がわからない無知さに変わっていく。
少しずつ苛立ちが募った頃、領地で骨董品が発掘された。金をふんだんに使った古道具や、珍しい素材で描かれた絵画たちだ。
王家をはじめとして、高位貴族がこぞってフランツを持て囃し始めた。ララからはもらえない賞賛と、羨望の眼差し。
その優越感に良い酔いしれている時、ララは言った──素材が集まったから魔界へ行こう、と……。
口から飛び出そうになる「阿呆か?」という言葉を、どうにか必死に抑えた。この財宝を捨てろと言われたのだ。魔界と人間界では金の価値は違うから捨て置けと。
そんなバカな話はない。自分は男爵で、領地をもらい、そこから一生困らないほどの財を得た。
それらを全て捨てて魔界へ行く──その利益は?
縋るような目のララを見た。
得られるのは、彼女だ。
この先ずっと、共にいたいと思った唯一無二の存在。
もし魔界へ行けば、分からないことを彼女に聞いて生きていくことになるだろう。
何百年という時を、ずっと……惨めに。
今の幸福を捨ててまで……?
「……分かった。領地の引き継ぎがあるから、それを終わらせてくるよ」
笑顔でそう告げたフランツは──それから二人の屋敷に戻らなかった。
骨董品で得た金で王都に居を構え、高位貴族たちと豪遊する日々。その娘たちは競うようにフランツへ愛を囁き、望めば身体も差し出してくる。
その中でもオークリー伯爵家の娘が、フランツを強く求めてきた。鉱山を所有する彼女の実家と縁を結べれば、王家すら凌駕するほどの財産が手に入る──そんな野心が、フランツの中で膨らんでいった。
ようやくフランツが屋敷に戻ったのは、ララとの関係を終わらせるためである。
気付けばララと対面するのは、半年ぶりだった。その姿に、眉をひそめる。
こんなに彼女は見窄らしかっただろうか。
貴族になってからはお決まりとなっていた悲しげな顔は、もうフランツを苛立たせるものでしかない。
何の未練もなく離縁を告げ、ララも特に文句を言うことなく去っていったのだが──。
「やったわね、フランツ! 夫人がごねなくて助かったわ」
フォニーの声に、ハッと我に返る。可憐な笑みを浮かべる彼女に腕を組まれ、自然と目尻が下がった。彼女は家柄や財だけでなく、顔も身体も素晴らしい。
「そうだな、フォニー。すぐにでもこの届けを出させよう」
従者に離縁届けを渡す時──ピリッと人差し指に痛みが走った。紙で切ったのかと見てみたが、何もない。
まとわりつくような不安に眉をひそめていたら、フォニーが組んだ腕を揺すってきた。
「ねぇ、特別なワインがあるのでしょう? それを飲みましょうよ」
フォニーの甘えた声に、フランツはここでの暮らしを思い出す。今のように部下に任せるのではなく、ララのために身を粉にして働いていた日々を。
その時用意したワインは、確かに特別なものだった。魔界へ行く前に飲もうと、ララと金を出し合って買ったものだ。フォニーにいつ話したのだろうか。
あのワインは今にしてみれば安物だ。贅沢に慣れた舌だと風味も落ちるだろう。
「……いや、王都から持ってきたワインを開けよう。ここにあるのは、安物ばかりだからね。処分するよ」
フランツは執事に屋敷の整理を頼み、豪華な祝いの晩餐を開くことにした。なんとなく感じていた不安など、もうすでにフランツの脳裏にはない。美味い食事と楽しい団欒に思いを馳せていた。
連れてきた近しい者たちとの晩餐会は盛り上がり、朝方まで新しい門出を祝ったのだった。
◆
朝日の眩しさにフランツは目を覚ます。誰だ、勝手にカーテンを開けたのは……。
不快感で眉間に皺を寄せながら目を開くと──粗末なベニヤ板の天井が見えた。屋敷の天蓋には、金を練り込んだ金糸をふんだんに施してあったはず。
寝具もなんだかザラッとしていた。いつもの高級シルクではない。固い綿のような肌触りが不快だ。
それに……なんだか部屋が野草臭い。
頭を振りながら、ゆっくりと上体を起こす。一体何が起こっているのか……。
気怠げに部屋を一瞥したフランツは、しかし、ある物を見つけて全身を強張らせた。
簡素な部屋に、一本だけ飾られた花。
あれは……黄色のポピー。
そして……〝試練〟を受ける前に、ララが贈ってくれた花。
「あ……そん、な……まさか……」
ガタガタと身体が震え出した。ギョロギョロと視線だけが部屋を彷徨う。
ここは……小屋だ。
ララと過ごした、フランツの救いの場。
戻ってきた──いや、違う。
もともと森から出てなどいなかったのだ。
震える身体を叱咤して、フランツはベッドから降りる。しかし感覚だけが、贅沢で肥えた身体を覚えていて足がもつれた。
倒れた反動で、左の人差し指の傷が開いたようだ。〝試練〟に血を使って、ララが包帯を巻いてくれたのを思い出す。
「……そう、だ。ララ……」
包帯に滲む血を、今は気にしていられない。
よろよろと立ち上がり部屋を出ると、むせ返るほどの花の香りが鼻についた。ララへ贈った真紅の花々は、ドライフラワーにして至る所に吊り下げられている。
季節ごとに贈ったそれらの花が、責めるようにフランツの視界を埋めた。
「……ララ……ララ」
懐かしさと共に、ララの笑顔が脳裏を掠める。
今すぐ彼女に会いたい──その思いで廊下を駆けた。
居間へ行けば、いつも通りのララがいるはず。そしてフランツの狩った兎で、フランツの好きなシチューを作っているに違いない。
──そうでなければ、俺は……。
祈るような気持ちで、フランツは扉を勢いよく開ける。
しかし、扉の先にあったのは……絶望だった。
ララはいない。代わりに一人の老婆が、彼女と作った食卓の椅子に座って本を読んでいる。
その周りには白いモヤが漂い、フランツの部屋と同じ臭いが充満していた。
「おやおや、遅かったねぇ」
しわがれた老婆の声で、凍りついていた記憶がパズルのように組み合わさっていく。少しずつ、混ざっていた記憶が整理されてきた。
この老婆は、ララが魔界から呼んだのだ。昨日、〝試練〟を受けるために、この小屋に来た。
パーラー王国へ……行ってなどいない。ずっとこの森で〝試練〟を受けていた。
爵位も、骨董品も、金も、女も、全てが……幻。
「先に試練の結果を言うかのぅ」
老婆は口を開きながらも、本から視線を上げることはなかった。そこに感情はない。ペラリと本の頁をめくる音だけが、いやに大きくフランツの耳たぶを打つ。
ララがフランツに事情を打ち明けた時、魔界へ共に行くには条件があるのだと、ララは言った。
それが── 〝魔女の試練〟を乗り越えること。
魔族と番えば長寿を得られる。それを利用する人間が後を絶たなかった時にできた制度だと聞いた。
人間が魔族を伴侶にしたいと望むのならば、相当の覚悟を持っていなくてはいけない、と。
やり方は、現実のような世界を眠りの中で体験すること。そこで〝試練〟だということは忘れた状態で、様々な誘惑を乗り越えて魔族を選べるかを見極める。
一族の存続にも繋がる、大事な〝試練〟なのだと……。
パタンと老婆が本を閉じた。
本のタイトルには──フランツの、名。
そうだ。〝試練〟の中での言動は、全て記録されると、言われていた。
きっと……あの本に、〝試練〟でフランツが何をしてきたのか、書かれている。
老婆の口が再度開いていくのが、永遠のように長く感じた。
その先を聞きたくない。
このまま逃げてしまいたい。
またあの世界に戻りたい。
しかし、フランツの心の叫びは、淡々とした老婆の声で打ち砕かれた。
「お前さんは……試練を乗り越えられなんだ。不合格じゃな」
試練。
不合格。
皇子に断罪された以上の絶望で、フランツはその場にへたり込んだ。
じくじくと指が痛んだ。
ここが……こここそが、現実であると、フランツに知らしめてくる。
ララに包帯を巻かれながら、笑顔で「ララより大切なものなんてないよ」と言い切ったのは昨日。なのに遠い彼方の思い出のようだ。
事実〝試練〟は、目覚めても記憶が混合するほど、全てが現実のようだった。
だからこそ、忘れていない。
地位に固辞した己を。
贅沢に耽溺した己を。
金に目が眩んだ己を。
女に溺れた己を。
虚飾の称賛に酔いしれ、全ての欲という誘惑に……フランツは負けたのだ。
床で打ちひしがれていると、ペラリと、また頁を捲る音が聞こえた。
「それにしても、二年か……最短記録じゃのう」
老婆の独り言に、フランツを責めるような色合いはない。しかし、それがかえってフランツの心を更に抉る。
「禊ぎも済ませていない人間に試練など務まらんと、ララにも言ったんじゃが……案の定、無駄足じゃったな」
「……禊ぎ……?」
聞き慣れない単語に、フランツは顔を上げた。そこで初めて老婆と目が合う。
昨日会った時は、にこやかで穏やかな顔をしていたのに、今や別人だ。感情のない表情でフランツを見下ろしてくる。
「お前さんは自分の国での不貞の落とし前、つけとらんじゃろ」
「そ、そんなことはない! 俺はそのせいで、死にかけて──」
「逃げてきただけじゃろがい。禊ぎの奴隷奉仕もやらんで、そのまんまララに拾われとるから後悔も持っとらん。だから試練で同じことを繰り返しておる」
老婆の台詞に、カッと頭に血が上った。立ち上がり、震える拳を握り締める。
後悔なら、何度もした。この老ぼれに、何が分かるというのか。
言い返してやろうと、フランツは口を開いた。しかし、何故か声が出ない。
喉に手を遣るフランツを尻目に、老婆は何かを形取るように人差し指を動かしていた。
「今の魔界に試練を乗り越えた者は、一人しかおらん。お前さんのように貴族の地位から、賭博闘技場に身を堕とした男じゃったが……奴は試練の最中、人間界におるもの無駄だと、早く魔界へ行きたいと、誘惑に目もくれずぼやいとったわ」
誘惑に負けた自分と比較されて、余計に腹が立つ。しかし老婆に近づこうとすれば、更に首が締まった。
「ぐ、ぅ……」
「さあ、試練は終わった。不合格の者は魔界へは連れていけぬ。お前さんは、どの道を行く?」
苦しむフランツに表情を変えない老婆が不気味でヨロヨロと後退すれば、呼吸が楽になった。どういう仕組みか分からないが、これでは近づけない。
「はよう選べ。このまま小屋で朽ちるか、記憶をすべて消して人里へ戻るか。どっちじゃ?」
突きつけられら選択に、膝が震える。
ララから〝試練〟の話をされた時にも、乗り越えられなかった場合の話は聞いていた。しかしその時にはもう、魔界へ行くことしか考えておらず頭から消えていたのだ。
もうララとの道が途絶えたならば、フランツが選ぶ道は一つ。
「記憶を、消して……パーラー王国へ」
息苦しさのなかでも自分の意思をはっきり告げれば、初めて老婆が表情を崩して片眉を上げた。
自国へは戻れないが〝試練〟と同じあの国なら、自分の美貌がまだ有効であることは実証済みである。貴族の振る舞いもまだ覚えているから、記憶を失っても関係なく貴族の女を引っかけることが出来るはずだ。
「ほう。ララとの思い出を消すとは……安い愛じゃったのう」
──何とでも言え。こんな場所で一人で残されるくらいなら、手に入らないものは捨てるさ。
老婆に近づくことも出来ず、フランツは鼻白みながらこれからの算段を立てる。
パーラー王国に着いたら、まずあの男爵領が実在するか、調べることを始めるつもりだった。骨董品が出てきた場所は覚えている。また金を持てば、地位などすぐに手に入るはずだ。
自分は〝試練〟を利用出来る──そう確信したフランツに、老婆がニヤリと嫌な笑みを向けた。
「ふぉっふぉっふぉっ。どうやらお前さんは、まだ試練の記憶が抜けきっておらんようじゃ」
「……何を言う。至って現実を見てるさ」
「ならば……その手で人里へと戻る覚悟も、出来とるんじゃな」
「手……?」
フランツは自分の両手を掲げた。〝試練〟の後では荒れているように見えるが、特に変わった点はない。
首をかしげながら、手の平を裏返して──。
フランツは硬直した。
すっかり忘れていたのだ──皇子に断罪された時、右手の甲に奴隷の烙印を押されたことを。
ここでの暮らしでも極力目に入らないようにしていたし、〝試練〟の中では消されていた。
フランツがララに縋るしかなかった、最大の要因。
「こ、こんなの詐欺だ! もし……もし烙印があると〝試練〟で分かっていたら、ララを無碍になどしなかった!」
フランツの叫びは、切実だった。奴隷印があれば、まず爵位を得られない。前提から違うのだから。
しかし老婆はニタニタと嗤いながら首を振った。
「試練はのぅ、深層では自分の立場を分かっとるんじゃ。現にお前さんは、試練の中で奴隷の酒場に行くことを嫌がっておったじゃろ」
老婆の核心を突く言葉に息を呑んだ。〝試練〟で王都に居を構えていた時、確かに奴隷を嘲笑うための酒場へ行った。自国で伯爵令息だった頃は愉しんでいたのに、嫌悪感が酷かったのを覚えている。
「忌むべき場所へ連れていくのも、また試練の一つ。数々の違和感があったろうが……お前さんはそれでも欲にまみれた暮らしを捨てず、ララを選ばんかったのじゃ。今もそうじゃろ。簡単に愛した記憶を捨てると言いおった」
「うぐ……っ」
老婆が指で何かを描くと、また息が苦しくなった。
殺される……? いや……記憶を抜かれるのだ。そして人里に戻されて、奴隷として生きていくのか……?
奴隷としてのフランツは、その美貌が仇となるだろう。
品定めするような目。値踏みする声。
思い出したくもない光景が、脳裏に蘇った。
美しいほど穢され、壊される。
そのために扱われる。
痛みと嘲りの中で生きるしかない。
──……嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だっ!
「ま、待って、くれ……やはり、ここに、残、る」
床に転がりながら四肢をバタつかせて、フランツはみっともなく抵抗した。ここに居れば、痛い思いはしない。
人だって……そうだ。
ここにまた、新たな魔女が来る。任期は十年。その期間で魔女に取り入れば、また幸福な日々を過ごせる。そのはずだ。
無我夢中で抵抗していたら、フッと息苦しさが消えた。流れる涙を拭って、フランツは辺りを見渡す。
部屋を漂っていた白いモヤは、立ち上がった老婆が持つ小瓶に収まっていた。老婆はもう、フランツを見ていない。〝試練〟の時に去っていったララのように。
「さらば、愚かな人の子」
パタンと扉の閉まった部屋は、静寂に包まれた。まるで何もなかったかのようだ。しかし、もうララはいない。
その事実が、今更ながらに襲ってくる。しかし、魔女が言ったように、ララへの情熱がそれほどないのは確か。
あの〝試練〟は、感情だけは二年という月日をしっかりと経過させていた。きっとララもそうなのだろう。彼女が戻ってくることは、ない、
ならば未練たらしくしていないで、次の魔女へと気持ちを備えるのに限る。
フランツはふらふらと立ち上がり、少しの間、一人の暮らしを満喫することにした。身体のためと制限されていた生活を過ごすのも悪くないだろう。そう思えば、フランツはまたニヤリとした笑みを浮かべることが出来た──のだが。
それなのに、その後の暮らしは、ララがいた頃を思い出すたび後悔が生まれた。分担せずに自活することが、こんなに苦痛だとは思わなかったのである。
フランツは、早く次の魔女が来てくれることを祈り続けた。
しかし──フランツは知らなかった。
魔女の人間界での拠点は一つではない。そして、人間に知られた拠点は、向こう百年ほど使われることはない。
フランツは毎日、時間があれば森の入り口を見続けた。ララのための花壇はとうに枯れ果て、草しか生えていない。
ただ無為に待ち続けるしかない日々で、フランツはララと過ごせた幸福がどれほど尊かったかを、噛み締めて生きていくことになる。
フランツと暮らす魔女は、もう二度と現れなかった。
◆
久しぶりに吸い込んだ魔界の空気は、相変わらず澄んでいた。
それでもララの胸には、わずかに重いものが残っている。
彼はどちらの選択を取るだろうか……いや、もう考えるのはよそう。魔界に一人で戻ってきた。それをしっかり受け止めなくては。
ふう、と、ため息を一つ吐いた。
これから少し、忙しくなる。様々な後始末のことを考えながら足を進めると──。
「ララねえさん! おかえり!」
曲がり角を曲がったところで、思わぬ歓迎を受けた。知らない青年が、特大の笑顔で手を振っている。
ララに弟はいない。それでも「ねえさん」と慕ってくるのは、あの子しかいない。
「……リオ?」
「うん! 久しぶり」
「わぁ! すごく見違えたわ!」
リオは隣に住む領主の息子で、彼が生まれた時からの仲だ。ララが任務に就く前はまだ子供だったのに、すっかり成人を迎えた魔族の風体になっている。
「迎えにきてくれたの? わざわざありがとう」
少し照れたように笑うリオは、よく見れば昔の面影を残していた。懐かしさにララも笑顔が溢れたが、彼が来たということは領主に何か言われたのかもしれない。
領主は今の魔界で唯一〝魔女の試練〟を乗り越えた者だから。
「……領主様、私にガッカリしてた?」
「え⁉︎ そんなわけないよ! 試練は魔族だって乗り越えるのが難しいくらいなんだから」
リオの言葉に、ホッと安堵の息を吐く。
領主が〝魔女の試練〟を乗り越えてから、魔界では愛の証として〝試練〟を受けることが流行した。なんでも、成功者が出た時の風物詩のようなものらしい。しかし、〝試練〟を軽く見た誰もが不合格となるのだ。
それほど〝試練〟を乗り越えるのは、奇跡に近いようなもの。
確かにララも、領主夫妻の関係に憧れている一人だ。人間に言い寄られて、少し浮ついた気持ちがあったのも事実。
あれほどの情熱のある人間ならと……でも駄目だった。
「ララねえさん! 人間のことなんて、もういいじゃん。ねえさんがいなかった間のこと、聞いてよ」
目に見えて落ち込んだララを、リオが昔のように抱きしめてくる。しかし視線は昔とは違って上だ。
魔界一の美女と名高い母に似たリオは、気後れするほど端正な顔に育っている。力強い腕の中にいることが、なんだか少し気まずかった。
しかし、離れようとしても、全然離してもらえない。
「……そうね。リオも成人したし、婚約者は出来たの?」
なんとか気を逸らそうとしたのに、更に強く引き寄せられてしまった。リオの胸に埋められた顔をなんとか上げると、口を尖らせたリオと視線が合う。
「俺はずっとララねえさん一筋だよ。知ってるでしょ?」
表情と同じように拗ねた声に、少し安心した。見た目は大人びても、ララの知るリオだったから。
彼は昔から親鳥を追う雛のように、好きだ好きだと、ララの後ろにくっついて回った。ララが任務で人間界へ行く前も、愛しているから行かないでと、駄々をこねて泣いていたのを思い出す。
でも、ララの答えはいつも同じ。
「リオのことは、弟として大好きよ」
言い慣れた言葉を、久しぶりに返した。
魔族の愛は深い。しかし、永遠というわけではない。
リオとはそういった不安定な関係になりたくなかった。〝試練〟を経験した今、殊更その思いは強い。
力の抜けた腕からすり抜けると、ララはリオを置いて歩き出す。彼を傷つけることは本意ではない。しかし、心の中の謝罪だけに留めた。
十年会わない間も彼の気持ちが変わっていなかったことは想定外だったが、きっといつかララに感謝する時が来る。
だから突き放すことが正解なのだと、足を止めなかった。
そんなつれないララの背中を、リオが熱く見つめていることも知らずに。
「……まぁいいよ。人間と違って時間はたっぷりとあるんだ。ララねえさん、覚悟しててよね。俺はもう、子どもじゃない」
「リオー! 置いていくわよ!」
「……待ってよー!」
ララは知らなかった。
十年の間に外堀を埋めたリオの一途な想いに、絆される日が来ることを。
絶対にやると言い張るリオに根負けして、また〝魔女の試練〟を受けたら今度こそ幸せになる日々も、今はまだ知らない。
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