表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

深海で、私は遅れて気づいた

作者: とも

それは、匂いだった。


何かを吸い込んだ、という感覚だけが残っている。


花の匂いだったのかもしれない。あるいは、海そのものの匂いだったのかもしれない。確かめようとする前に、思考が、にゅるりと滑った。


何が起きたのか、わからなかった。


理解しようとした瞬間、その「理解」は形を保てず、どこかへ落ちていった。言葉にしようとすると、指の間からすり抜けていく。私は、どこかにいる。けれど、その「どこか」が場所なのか、状態なのかも判然としなかった。


触れられている気がする。


だが、どこを触れられているのかがわからない。


足元なのか、背中なのか、それとも私という輪郭そのものなのか。境界が曖昧で、自分の身体がどこから始まってどこで終わっているのか、確かめようがなかった。


沈んでいるはずなのに、沈んでいない。


支えられている感覚はある。ただ、それが何によるものなのかを考えることができなかった。考えようとするたびに、思考は途中で途切れ、別の方向へずれていく。


時間の感覚も、頼りなかった。


どれくらい、こうしているのかがわからなかった。


一瞬なのか、長い時間なのか、その区別がつかない。数えようとする発想自体が、なぜか浮かばなかった。


苦しさは、ない。


息をしているのかどうかも、はっきりしない。それでも、足りない感じはなかった。胸の内側は静かで、波立つものがない。


私は、考えていた。


何について考えていたのかは、はっきりしない。


ただ、考えなければならない気がしていた。その理由を探そうとして、うまくいかない。探す対象が、見つからない。


そして、少し遅れてようやく気づいた。


考える対象が、先に失われていたのだ。


私は、空腹を感じていなかった。


いつから感じていないのか、わからない。感じなくなった瞬間を思い出そうとしても、そこには何も引っかからなかった。気づいた時には、すでにそういう状態だった。


満たされている、という感覚でもない。ただ、欠けていない。欠けていないから、欲する理由がない。その単純な構造だけが、すとんと落ちてくる。


それが異常なのかどうかを、確かめようとした。


けれど、その「確かめる」という行為自体が、どこか古いもののように思えた。以前の私が使っていた癖を、形だけなぞろうとしているような感覚。


以前の私は、空腹を不安だと感じていたはずだ。


今は、そうだったという事実だけが残っている。感情は伴わない。ただ、知識のように置かれている。


私は、自分が変わりつつあることを、事実として受け取った。


良いとも、悪いとも思わない。戻りたいとも、留まりたいとも思わない。判断そのものが、必要なくなっていた。


どこまでが私で、どこからが私でないのか。


その問いは、いつの間にか意味を失っている。境界は、もう確かめる対象ではなかった。


私は、

元の状態を、正確には想像できなくなっていた。


そして私は、変わってしまった自分を確かめる必要すら、感じていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ